絶望の先に見つけた世界
初投稿作品です。
失恋でしっとりした作品を書こうと思ったら何故か超展開になりました。
オカシイナー。
暗い話ですが、最後には明るい内容になっているはずです。
空き時間にでもどうぞー。
ねぇ、貴方―――
愛しい、貴方・・・
貴方は何故、彼女の隣にいるの・・・?
まるで、映画を見ているように現実味のない映像が目の前に広がっていた。
15年、愛し続けた彼が、私の友人と寄り添って幸せそうに笑っている。
純白の輝くドレスを身に纏った友人、加奈子はとても綺麗で、花が咲き乱れんばかりの笑顔は美しい衣装にも引けをとらない。私が愛した彼、一志も同じように笑っていて、まるで一枚の絵画のように、見ている方まで幸せの溜息を吐き出してしまいそうなほど。
嗚呼、でも、加奈子のいるその場所は……私がいるはずだったのに―――。
「30年」と、言われた。
今から10年前、目の前にいきなり黒いロングコートを羽織った男が現れて、半ば攫われる勢いで、異世界へと連れて行かれた。
――そう、“異世界”。
学生時代に読んだライトノベルのような世界。
白亜の城を中心とした城下町、ファンタジー映画のセットに入り込んだような・・・いや、むしろ、そのままの様子を目の前にして、頭が真っ白になった。
誰にも挨拶できぬまま、わけもわからず、突然腕を掴まれて連れてこられた先。そこには白い髭を生やし、大きな椅子にゆったりと座った威厳のある年嵩の男性がいて、私に言った。
「この国を救ってくれ」と。
正直、ふざけんな、と思った。
何がなんだかわからなかったし、ファンタジーに憧れる年齢はとっくに卒業していた。
短大を卒業して、そこそこ有名な企業に就職し、少ないながらも今までの感謝にと、親に仕送りも始めて、卒業後に付き合い始めた一志とは、お互いなかなか言い出せなかったけれど、そろそろプロポーズがあってもいい雰囲気で。それを、いきなり、異世界だの、国を救えだの、非現実的にも程がある。それも、何の特別な力も、経験もない、ごくごく一般人のOLを連れてくるなんて、どうかしているとしか言い様がない。馬鹿なんじゃないかと本気で考え、一国の王だと自称する体格の良いご老人に失礼ながら、この人大丈夫かと心配までしてしまった。
当時はあまりの出来事に現実を受け止められず、何も質問できなかったが、後に聞いた話では、私が元いた世界は隣り合わせに存在する数多の世界の一つであり、世界の均衡は各世界から招く“贈り人”と呼ばれる存在で保たれているのだとか。
“招く”だなんて、どの口が言うのかと、痛烈な批判を含めて反論したのは、仕方がない事だと思う。だが、それに対しての答えは、ただ一言の謝罪だった。
本来なら、招く前に事情を説明し、互いによく理解し合ったうえで、この世界に来てもらうのだと言われたところで、私には知ったことではない。今回も、私とは別の女性が来るはずだったところ、私を引っ掴んだ男が誤って連れてきてしまったと、そう言われて簡単に許せるほど、私は冷静ではいられなかった。
幸せの絶頂、とまではいかないが、それでも世間一般的に思い描く幸せな人生を歩んでいた。家族がいて、気のいい上司と、仲の良い友人、それに愛し合う人もいた。それは、日々の小さな諍いや、嫌な事もあったけど、そんな事は生きているうえで避けて通れないものだし、そんな事を含めても、とても恵まれた状況にあると自覚していた。
そんな幸せな現実が、突如襲った理不尽な出来事に吹き飛ばされてしまった。それも、自分の力ではどうしようもない大きな壁の向こう側まで。
聞く気などなかったのに、来てしまったからには世界を救えと、逆らえぬ命令のごとく聞かされた内容は、驚くほど単純な事だった。この世界の人と話をしたり、物に触れたり、そこに“在れ”ば良いのだと。
ますます何故自分が、と、途方に暮れた。
もっと他に人選があったろうに。元々説明していた女性でなくても、異世界に憧れる中高生なら、最初は戸惑っても受け入れていたかもしれない。……私と同じように、現実と物語は違うのだと、自覚して途方にくれてしまっていたかもしれないが。
この世界は、とても残酷だ。
王は厳つい顔を優しく緩めて「この世界を愛してほしい」とのたまう。
どうやったら愛せるというのだ。私から愛しい者を奪ったこの世界を。
優しげに見えるその顔さえ、醜く笑う悪魔に見えた。私を無表情に見つめる誘拐犯の男は、いわずもがな。悪意を持って連れてきたとしか、考えられない。
けれど、私は諦めなかった。
過去に還った贈り人はほぼいない、と聞かされても、その限りなく零に近い人達ですら、無事に帰れたかもわからないと知っても、それでも決して諦めなかった。
私が愛した元の世界へ、必ず帰るのだという決意を胸に、私という存在がこの世界に定着し、世界が安定すれば、いずれ戻れる可能性があかもしれないと知り、意欲的にこの世界に接するようにした。
無理やりに元の世界から連れてきたせめてもの償いに、できる限り希望を叶えようという王の言葉をいいことに、城下町の一角に家を貰い、相談室のような場所を開いた。
王や軍隊に報告する程ではない日々の困った事、悩み、愚痴、世間話など、様々な事を話して人々は帰っていく。
最初こそ、風変わりな相談室に訪れる人などいなかったが、日常生活で切り離せないご近所付き合いの奥様や、食料品店の旦那さん、街で挨拶する程度の顔見知りと話ている内に、自然と人がやってくるようになった。
現実世界にいた頃と比べ、めっきりと笑顔の減った私の接客は、訪れる人にとっては決して気持ちの良いものではなかっただろうが、それでも誰かしら人はやって来て、帰っていく。
ただ存在すれば世界は安泰だなんて言われたって、いつこの世界が落ち着いくかわからない以上、できる限りの事はしたい。人や物との触れ合いで世界が安定するというのなら、いくらでもやってやろうと思った。1日、1秒でも早く元の世界へ帰るため、やれる事はやろうと考えての事だった。この世界を愛す以外の事なら、なんだってやれる気がした。
人々の話を聞いて、問題には解決策を考え、必要であれば国に申請し、悩みを聞いてアドバイスできる事ならそれを伝え、話を聞いて欲しい人には黙って聞き手に回る。そんな生活を始めてしばらくしたころ聞かされたのが、「30年」という言葉だった。
30年も経てば、この世界も安定するだろうから、帰れる可能性が出てくるだろうと。
それから私は、更に我武者羅に働いた。
聞き役だった私が、自ら人に接し、時に買い物を頼まれ、子供の面倒を見、お使いついでに手紙を頼まれる事もあった。気づけば私は、街の便利屋として人々に知られるようになっていた。
そうして忙しなく過ぎる日々の中で、毎日眠る前に日記を書き、やってきた日から365日の計算で必ず日付を書き記した。1日過ぎていくごとに自分の何かが失われていくような不安に駆られながら、元の世界へ帰る事だけを強く意識していた。
きっと、両親は心配している。
そもそも私は、彼らが年をおいてからできた一人娘で、昔からとても可愛がってもらっていた。心配性なくらいに溺愛された自覚もあり、それに思い切り甘えてもいた。独り立ちした今だって、機械に疎い両親はメールなんて手段をとらず、時々手紙を送ってきたりしたものだ。そんな私が連絡もなく消息を絶てば、年老いた両親は心配しすぎて体調を崩しかねない。
一志だって、毎日とはいかないものの連絡をとりあっていたし、最低でも週に1度は互いに時間を作ってデートしていた。数日ならともかく、1週間以上連絡が取れなければ、異変に気づいて心配しているだろう。
仕事だってある。職場の同僚や友人だって、遅刻や無断欠勤なんてしたことのない私が休めば、当然私がいなくなった事に気付くだろう。
だから、帰らなければ。
私を待っていてくれる人がいる以上、必ず、何があっても、帰らなければ。
その想いだけで、私は日々を過ごしていた。
それから丁度10年後のこと。
日課の相談室の掃除をしようと箒に手を伸ばしたその時、前触れもなく身体から光があふれ出し、ゆらゆらと体の輪郭がぼやけていくのが見えた。そして、思った。
とうとう、この時が来たのだと……!
ようやく、帰れる。
やっと、願い続けてきた帰郷が叶う!
唐突な事だったけれど、確かに目の前で起こる不可思議な現象に、胸を高鳴らせた。
どくどくと大きく騒ぐ胸に両手を当てて、自然と笑みが浮かぶ。
待っていてくれただろうか。
元気にしているだろうか。
私の愛した人々は、今、どうしているだろう―――
眩い光に霞む景色に、いつか見た、黒いコートの男の姿が浮かんだ気がした。
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そうして、肌に当たる温かい日差しを感じて目を開けた先に、その光景はあった。
幸せを祝う沢山の声。
重く響く鐘の音。
視界に舞う色とりどりの花びら。
私の愛した人が、幾分か年を重ねた面持ちで愛しげに隣の女性を見つめていた。また、私と親しかった友人が、そんな眼差しを恥ずかしげに受け止め、嬉しそうに微笑み返す。そんな、光景だった。
いったい、どうなっているんだろう。
目の前の事を現実と受け止められない私の脳内が、ぼんやりと景色だけを映し出す。
「一志……?加奈子……?」
呟いたはずの言葉はかすれ、拍手と祝福の声にかき消される。
どくんどくん、と、先ほどとは違う意味で心臓が騒ぐ。
風邪を引いたわけでもないのに、ざわざわと悪寒が走り、身体が震えそうになる。
久しぶりに見た一志の顔は、覚えていた顔とはどこかが違っていた。それは、年を重ねて得た変化だったかもしれないし、私の記憶が朧げだったからかもしれない。もしくは、自分とは違う相手に向けた表情だから、そう感じたのだろうか。それでも、確かに私と笑い合っていた頃とは違うのだと、そう思った。
だからと言って、私が彼と離れていた10年間抱き続けてきた想いが消えるはずもなく、私へ向けた笑顔じゃないとわかっているのに、久々に見た彼の笑顔にどうしようもなく嬉しくなって、懐かしくて、愛しくて、感情が溢れ出そうだった。
今にも駆け出して、大声を上げて彼の胸に飛び込みたい。
あれからもう10年経った。30過ぎた大人がすることではないけれど、名前を叫んで抱き着いて、私の名前を呼んでほしい。そして、前みたいに困った奴だって、楽しそうに笑って抱きしめて、キス、してほしい。
彼の笑顔を見た途端、他のものは一切目に入らなくなっていた。
そこがどこかも、何をしているところかも、ただ、彼がいるという現実だけがわかって。そう、現実。戻ってきたのだ。
そうだ。私は、戻ってきた!
実感がわかない。
長い間、心が死んでいたように思う。でも、もう夢の世界も終わり。私は望んでいた世界に帰ってきた。だから、早く彼に駆け寄って、おかえりって言ってもらおう。現実味のない空虚な私も、これで終わる。笑って抱きしめてもらえたなら、きっと、ようやく、帰ってこれたと実感できるから……!
彼に受け入れてもらう事を疑いもせず、歓喜に震える胸に声がでない。よろめく足を一歩一歩前に進めて、まだ遠いその姿に手を伸ばした。
ねぇ、一志。私、帰ってきたよ……!
胸が詰まってうまく息ができない。
もうすぐ彼と会える。嬉しい、嬉しいと騒ぐ心が無意識に歪んだ笑みを作り上げた。
それなのに―――
それまで、彼しか見えなかったのに、ゆっくりと横を向いて身を屈める姿がスローモーションに見えた。
彼を、見ていた。
だから、見てしまった。彼が身を屈めた顔の先、その延長線上に私の知っている横顔があって、だんだんと互いの顔が近づいていく。
どうして、彼らの唇が重なっているんだろう。
歩き出しかけた足が凍ったように止まってしまった。
どうして、幸せそうに笑い合っているんだろう。
ぼんやりと、目の前の景色を見る事しかできない。
肌に感じていた温かい日差しも、歓声をあげる人々の声も、ふわりと香る花の匂いすらどこか遠く。
全身に水を浴びたように、一気に血の気が引いていく。
彼を見て、感動のあまり浮かんでいた涙さえひっこんでしまった。
・・・待っては、いなかったんだ。
そう、わかってしまった。
私が帰ることだけを夢見て生活していた間、彼はもう別の道を見つけてしまっていた。それも、私の友人と歩む道を。
これはそんな二人のための“結婚式”なんだと、理解したくない心に、冷静な意識が追い打ちをかける。
ちょうど、10年だった。
私がいなくなってから、10年。
帰りたくて、会いたくて、毎日つけていた日記が仇となってまった。
思えば、どうして彼が待っていてくれるなんて信じていたんだろう。
突如いなくなった私が生きているなんて、彼は知るはずもないのに。
きっと、死体の見つからない私に、捜そうと思ってくれただろう。それでも、もう10年だ。普通に考えて、亡くなったと考えるのが一般的だろう。
だから、と思う。
彼を責めるのは間違っている。
いつも冷静な理性が静かに私に訴えた。
彼に憤りを感じるのも、彼女を責め立てたくなるのも、悲しみに泣き出しそうになるのも、全てお門違いなんだ、と。
わかってる。頭ではわかっているのに。
わっ、と一際大きく歓声があがった。
思わず上げた視線の先、一志が加奈子を横抱きにしていた。
重く大きい塊がお腹に詰まったように息が詰まる。心臓が鷲掴みされたように縮んだ感覚に、頭ががんがんと痛みだし、うまく息ができない。咄嗟に右手で胸を抑え、打ち上げられた魚のように口を開いたまま必死に酸素を吸い込んだ。
ずっと、会いたかった、のに……。
私だけだったなんて、とんだ道化師だ。こんなどこにでもある馬鹿らしいほどチープな喜劇、どこに出したって売れもしないに違いない。
悲しいはずなのに、現実を受け止めきれない所為か、涙さえ浮かんでこない。
涙がでないのは実は愛していなかったからかしら、と思ってみても、苦しいほどに痛む胸と荒れ狂う胸の内が、それは違うと叫んでいた。
カラフルな花が咲き乱れ、白い教会を模した建物を彩り、二人を祝うために訪れた紳士淑女も御目出度い晴れの日に明るい色を身に纏って笑っているというのに、目の前に映る景色は何故か白と黒。色がなくなった世界は、どこか空虚で物悲しく、笑い声すら空しく響いた。
私のいない世界。
幸せそうな一志。
幸せそうな加奈子。
これが、私のいない世界。
ぼんやりと考えていると、すーっと目の前の景色が遠くなり、空気に溶け込むようにぷつりと意識が途絶えた。
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気がつけばそこは、病院だった。
人が行き来する音が廊下から聞こえる。
真っ白い壁に囲まれた部屋にはベッドが4つ。2つにはカーテンがしてあり中は見えない。
ふとカーテンがしていない窓側のベッドに視線を向けると、そこにはまぎれもなく、やせ細った母がいた。眠っているのか意識はなく、腕には点滴がつるされている姿は見ていて痛々しい。
「おかあ、さん・・・」
いつも元気に動き回っていた母が、死んでいるように眠っている姿に背筋が冷える。震える手を伸ばして頬に触れると確かに生きている温かさが伝わって、ほっと息を吐いた。
「篠沢さん、診察の時間ですよ」
優しい声に顔を上げると、年配で少し小太りの白衣を着た男性が女性の看護師を連れてベッドに近づいてきた。顔色を見て、声をかけながら脈をとり、なくなりかけた点滴を交換している。
思わず立ち上がって挨拶しようとしたところで、「篠沢さん、頑張ってください。娘さんを笑顔で迎えてあげるんでしょう。それには、元気にならないとね」という声が聴こえ、思わず固まってしまった。その時にようやく、私の姿は見えていないのだと知る。
ぎゅうううっと強く締め付けられる胸と同時に、一気に頭に血が上ったように熱くなって、涙がこみ上げてきた。
一志を見た時には、むしろ涙はひいたというのに、どういうことか。
小さく手が震えだし、漏れそうになる嗚咽を抑えるために強く唇を結んで、両手でおさえこんだ。
医師と看護師は、それからいくつか声をかけて手元のボードに何かを書き込み、結局私には見向きもせずに他の患者を診にいったようだった。
そんな事も気に留めていられない程、私はいっぱいいっぱいだった。
こんな姿になってまで、母は待っていてくれた。
私に、会いたいと、思っていてくれた……!
とうとう堪え切れなくなった涙が、ぽろぽろと溢れ出し頬を流れ落ちていく。
いい年してみっともないとか、情けないとか、そんな醜聞を気にしていられないくらい、私の意識はぐちゃぐちゃに乱れていた。
「お母さん、お母さんっ」
意識がない事をわかっていて、母の片手を両手で握りしめ、床に膝をつく。
触れれば温かいと感じるのに、触った感触だってあるのに、私の存在は認識されていないんだろう。きっと、声だって届かないのだと思う。
やっと戻ってこれたと思ったら、私の姿は誰にも見えず、愛した人は別の人と結ばれていて、大切な家族は意識がない。
あちらの世界は残酷だと持ったが、幸せを感じたこちらの世界すら、私を見放したらしい。
「お母さん、私、帰ってきたよ」
聞こえないとわかっていて、話しかける。声がみっともなく震えてしまったけど、そこは気にしないでもらいたい。
「ずっと待っていてくれて、ありがとう。待たせて、ごめん、ね?」
しっかりと見つめたいのに、視界は涙に覆われてゆらゆらと動いて定まらない。震える手でしっかりと母の手を握りしめた。
15年以上前、まだ私が学生だった頃、登山に行ったり、近所のウォーキングに参加したりと活動的だった母。私が家族ゆえの遠慮のなさで、「もう年なんだから~」なんて冗談半分に言えば、父の前で堂々と「あら、お父さんより若いわよ!」と言っては、父を落ち込ませて、最後にはみんなでからからと笑っていた。
そんな母が、今では見る影もなく、骨と皮だけの姿で横になっている。疑いようもなく、私のせいで。
しっかり者の小柄な母と、背は高いのにどこか打たれ弱い父はとてもいいパートナーだと思う。ただ、父は精神的に弱いところがあったから、この場にいないということは、きっと母より先に、旅立ってしまったのではないかと思う。
10年。
私が必死に過ごした日々は、両親にとっても長い時だったのだろう。
あんなにも私を愛してくれたのに、何も返せないまま、何も言えないままにいなくなってしまった。
父の今際の時には、傍にいる事さえできなかった。むしろ、その原因となったのは私なのだと思うと、悲しくて、申し訳なくて、止まる事を知らない涙が、更に溢れてきた。
「ふっ、うぅっ」
声を抑えきれなくなって、母の手を握ったままベッドに顔を押し付ける。涙は確かに頬を伝って毀れ落ちているのに、目の前のベッドにはシミひとつ残さないことが悲しかった。
私はもうこの世界には帰れないのだと、存在しないのだと、思い知らされた気がした。
私には、もう、帰る場所がない。
この10年、ここに帰る事だけを希望に生きてきた。
私を待つ人がいる、この世界。
幸せな日々を過ごし、愛し、愛された人がいる世界。
それが今は、愛する人は別の人と寄り添い、私を待つ人は母だけ。その母も意識なく、実際に私を待っている人は誰もいない。
私のいる場所は、どこにもなくなっていた。
「どうして、私は生まれたのかな…」
両親を愛している。別の人と共になる道を選んだ一志も愛していた。・・・正確には、今もまだ、愛している。だからこそ、こんな疑問は検討違いも甚だしく、こんなこと母が聞いたら、悲しむに違いないと思う。だけど、大切な両親をこんなにも苦しめて、自らも現実離れした理不尽な世界に翻弄されて、生きていることの意味さえ、わからなくなっていた。
止まらない涙のせいで頭が痛いし、瞼も重い。ぐるぐるとループする暗い思考に、吐き気すら出てきそうだ。
誰も待っている人がいないなら、私は何故生きているのかしら。
がんがんと痛む頭をベッドに預けていると、ピクリと、手に自分以外の力がかかるのを感じた。
「え……」
皺だらけの細い指が、弱い力で、それでもしっかりと私の手を握り返している。
「おかあ、さん……?」
驚いて勢いよく顔を上げると、ピクリと母の瞼が震えてゆっくりと持ち上がる。半分ほど持ち上がった瞳は力を失くし再び閉まり、再度ゆっくりと上に上がった。
「お母さん!お母さんっ!」
見えないとわかっていたけれど、思わず声を上げて顔を覗き込む。握った手は相変わらずほんの僅かに握り返されており、完全に開ける事ができずに半ばまで持ち上がった瞼の下で、何かを探すように瞳が左右に揺れた。
固唾をのんでじっと見つめていると、母の視線は一点で止まり、ゆっくりと口元に優しい笑みを刻んだ。
『みやこ』
口は動かしていないし、声も出ていないのに、しっかりと私を見つめる瞳に、確かに母に呼ばれた気がした。
「お、かあ、さ・・・」
目を覚ましたことが嬉しく、私を見てくれた事が奇跡のように感じられる。感極まって震える身体を持ち上げて、もっと近くで母を見ようと顔を近づけた時には、すでにゆっくりと瞳は閉じられていた。ただし、表情なく青白く横たわっていた顔には、うっすらと笑みが浮かべられ、幸せそうに微笑んでいるように見える。
きっとこれから、快方に向かうのだとほっとして離れようとして、ふと違和感に気付いた。
そっと握っていた手を離すと力なく手首がベッドに沈み、ピクリとも動かない。
「うそ、でしょ」
いつの間にか涙は止まり、泣きすぎてしぱしぱと痛む目に力を込めて母の顔を見つめる。表情は相変わらず嬉しそうに笑みを形作っているのに、空気を吸って動くはずの鼻や胸元も、まつ毛や髪の毛の一本すら動かない。
まさか、まさかまさか……!!
信じられない思いで、口元に手を持っていくけれど、呼気を感じられない。慌てて首筋に指を当ててみるけれど、本来どくどくと脈打つはずの振動が伝わらず、背筋をひやりとした何かが通り過ぎていく。
「誰か来て!誰か、誰かぁっ!!」
泣きすぎて枯れ気味な声で叫んだ。
早くしないと、母が死んでしまう!
私を待っていてくれた、唯一の人がいなくなってしまう!
誰か助けて!大事な家族を助けて!
叫んでも袖を引っ張ろうとしても何故か誰にも気づいてもらえず、呆然としていると、ふと何かに気付いたように通り過ぎたはずの若い男性の看護師が振り向いて、しっかりとした足取りで病室に入り、母のベッドへ近づいていく。
どくどくと心臓が早鐘を打ち、早く助けて、何とかしてと両手を組んで祈った。
けれど、そんな思いも空しく―――
慌ててやって来た先ほどの担当医と思われる医者は、静かに首を振って、隣にいた看護師に死亡時刻を告げた。
嗚呼、そんな……
もう何も、考えられなかった。
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気づくと、ここ10年の間で見慣れた自分の寝室の天井が目に入った。
どうやら私は、自分の家のベッドで寝ているらしい。頭が痛くて、瞼も腫れぼったい。瞳を開けるのが億劫で、横になっている事をいいことに再び目を閉じた。
先ほどの事は、夢・・・だったのだろうか。
夢ならいいと思う。
けれど、夢ではないだろうとも思う。
一志を見た時の胸の痛みも、母に触れた時の感触も、しっかりと覚えている。あれを夢だと判断するには、あまりにもショックが大きすぎた。
なんとなく、もう二度とあの世界には戻れないだろうとわかった。それが直感なのか、第六感なのか、どういったものかはわからないが、なんとなく確信していた。
それに、もし帰れると言われても、自分から帰りたいと思うことはないだろう。
あの世界に帰る意味など、もうないのだから。
この10年、私は何のために生きてきたのかな。
とりとめのない思いが、ふわふわと頭に浮かんでは消えていく。
愛する彼がいて、大切な家族がいて、親しい友人がいて、そんな彼らが私を待っているからと信じ続けていた10年間。
考えればすぐに、私が死んだことになるだろう事くらいわかるはずだった。それを考えないように、ただひたすら目の前の事に打ち込み、帰る事だけを考えていた。だって、そうじゃなきゃ乗り越えられなかった。
あまりにも理不尽で、無情な世界だと思ったから、こんな世界を受け入れるなんて出来そうもなかった。それでも、愛する人が私を待っているのだと、私の帰りを待つ人がいるのだと思えば頑張れた。
その想いを糧に、日々を生きてきた。
例え笑顔を失おうとも、心が深く沈もうとも、負の感情に支配されそうになっても、それでも前を向いて生きて行けたのは、私を支えるそんな思いがあったから。
その全てを失ってしまった。
両親にとっては、親不孝な娘だったろう。愛を注いだ娘がいなくなり、心労がたたって終いには覚める事のない眠りについた。私は、彼らに会う事を胸に生きてこれたけれど、彼らは私が生きている事すら知らなかった。この違いの、どれだけ大きい事か。
一志にとっては……どうだったのかな。10年後に別の人と結婚だなんて、少しは私の事、気にかけていてくれたのだろうか。それとも、ただ単に時間だけが過ぎ去って、私の事など忘れ去っていて、たまたま結婚したのが今日だったと、そういう事なのだろうか。
ぐるぐる、ぐるぐる
考えてもどうしようもない事が頭を巡り、頭痛も相まって、なんだか気持ち悪い。
もうこのまま眠ってしまおう。
そう思った時、ふと・・・何故元の世界に行く前、あの黒いコートの男がいたのだろうと疑問に思った。
彼は、2度と私の目の前に姿を現さないはずなのに。
王が叶えてくれるという願い事の中に、あの男が私に2度と姿を見せない事、王や王族、できる限り貴族層などとも接触しない、させない事を約束させた。この国が好きになれない以上、その中枢を担う王族やそれを支える貴族たちだって好きになれる気がしなかったし、誤りとはいえ私をこんな世界に連れてきた男になど、間違っても会いたいとは思えなかった。顔を見るだけで言葉にできない気持ちが口をついて、不快どころか気分すら悪くなる事がわかっていたから。
だからこそ、光に包まれたと思ったあの時、あの男が見えた気がしたのは・・・気のせいだったのかもしれない。ただ、彼を見たと思ったのに不快にならなかったのは、何故なのだろう。心底嫌っていたはずで、憎んでいると言っても過言ではなかったのに。
でも、10年ぶりに見た彼はひどく焦った様子で私に手を伸ばしていたな、と、少しいい気分になったところで、私の意識は眠りの闇に沈んでいった。
そして私は、夢を見た。私にとって、とても都合の良い夢。
現実の世界で、私の大切な人たちがどう過ごしていたのか、そしてその未来の夢だった。
一志は、私がいなくなってから5年の間、ずっと私を捜し、待ち続けてくれていた。死体がない以上、誘拐されたのだと信じて疑わず、私の両親と共に私を待ちつづけ、とうとう心労で私の父が倒れた時も、傍にいて助けてくれていた。
そんな折、以前私を通して知り合った加奈子も私の両親を支え、時に話をしていたことから親密になり、互いに励ましあう仲になり、父が他界した際に、母がもういいと二人に告げたのだ。「私にはもうあの子しかいないけれど、貴方たちには未来があるのだから」と。「きっとあの子も、大切な貴方たちの辛い顔は見たくないでしょう」と。
それは事実、私の事は諦めろという無言の宣言だった。私にとってはひどく辛く悲しい言葉でも、二人にとっては救いの言葉になったのだろう。それでも、独り待ち続けるという母の様子を見に来たり、話をしたりと、二人は母にとてもよくしてくれていた。そして、母が病院に通うようになった3年ほど前から付き合うようになり、結婚まで至った。
きっと、意識があったなら母は二人の事を祝福していたと思う。私はといえば、今はまだとてもそんな気分になれないけれど、ずっと待ち続けてくれた人がいたのだと思えば、自分は幸せ者だと思うし、いつかはきっと二人の幸せを喜べる日が来るのではないかと思う。今はまだ、受け入れられなくても。
そんな二人には、息子と娘が一人ずつ生まれ、それぞれ一哉と美加と名付けられた。息子は彼の名前から、娘はなんと、私と加奈子の名前から文字を取ってつけたらしい。娘に名前の由来を聞かれたら、昔の彼女とお母さんの名前をもらったんだよ、なんてどんな顔して答えるのだろう。少しだけ、笑ってしまう。
母は、その後親戚に連絡がいき、葬儀の手配が進められ、父と同じ墓に入った。遺言には、私がいつか帰ってきてもいいようにと家の維持を頼む言葉が添えられていたらしい。実際には、住人のいない家はすぐに傷むし、誰かが住まない以上維持費だってお金がかかるから、いつまで残されるかはわからないけど、どこまでも消えた私を想ってくれた母には、感謝してもしたりない。言葉もなく消え去った私を、両親は最期まで愛し続けてくれた。
こんなしあわせなことが、あるだろうか。
心から愛した人に、心から愛される。
この世界中を探して、どれだけの人が想い合う人と一緒になっているのかと考えれば、私は本当に恵まれた人生を送ったのだと実感する。
確かに、いきなり可笑しな世界に連れ去られ、現実を否定するかのように過ごした10年は不幸だと言えるのだろう。なにせ、こんな出来事に直面する人間なんて、地球に存在する人間の1パーセント未満の確率だろうから。
それでも、私には大切な人たちがいた。いや、今でも大切な人が、私の元いた世界で暮らしている。
いくら憎んだって、恨んだって、そんな気持ちは長続きしないのだろう。そもそも私は、優しい両親の元で育ったせいか、負の感情を抱き続ける事が苦手なのだ。この10年、異世界を、国や人々を憎み続けたのだって、奇跡に近い。ただ帰るという目的のために、周りを見ず、感情を殺して過ごした日々が、それを可能にした。
けれど、それももう終わりみたいだ。
愛した人々が、私のいない世界で前に進んでいくのに、幸せを願ってくれた、無事を祈ってくれた私がいつまでも同じところに立ち止まってはいけないのだ。
どうあったって、時間は進んでいく。
何を考えても、何を悩んでも、誰を愛そうと、憎もうと、どうしたって時は待ってなどくれない。ならば、私もしっかりと前を見て、この受け入れがたい夢のような世界を現実として受け入れなければ、私を慈しんでくれたみんなに顔向けできない。
自分の中で、暗く濁っていた闇が晴れていく感覚。
昇華された想いは温かい光となって、自分を包み込むような気がした。長い間、こんな穏やかな気持ちになっていなかったな、と今にして思う。
柔らかな光に誘われるように、ゆっくりと目を開いた。
「おかえり、ミヤコ」
そこには何故か、ひどく優しげに笑うあの黒いコートの男がいた。
ベッドの枕元に膝をつき、私の左手を片手で握りしめ、もう一方の手はゆっくりと私の頬を撫でている。
大嫌いで、顔を見る事すらしたくないと思っていた相手だった。名前など知りたくもないと、私は彼の名もしらない。けれど、真っ直ぐに私を覗き込む燃えるような赤い瞳がとても綺麗に見えて、その眼差しが私を気にかけているのだと語っていて、むず痒い思いが胸に湧き上がった。
どこかぼんやりとした思考の中、私の存在を認めてくれる人がいると思うと、安心したせいか、枯れた筈の涙が浮かんでくる。
ここにも、私を心配してくれる人がいるのだ、と。
こいつは嫌いだったはずだとか、全ての元凶だとか、そんな事、今は関係なくて。
心地よい感情に身を任せ、握られた手に軽く力を込めて握り返し、ふわりと笑い返した。
「ただいま」
そう、自然と口に出していた。
男は、驚きにこれ以上ないほど目を見開いて、よく見れば精鍛な顔立ちが今はどこか間抜けに見える。 思わず瞳を細めて笑ってしまえば、不自然に視線を泳がせた後、嬉しそうに頬を緩ませ、再び私にあの言葉を言った。
「おかえり」
もう、私が帰る場所はここなんだ――と、そう理解した。
私を待っていてくれる人がいるこの場所が、私のいる世界なのだ。
だから私は、この世界で生きていく。
憎んでいた世界は、残酷だと思っていた世界は、本当はきっとそこまで私に冷たくない。
私が気づいていなかっただけで、いや、認めようとしなかっただけで、ここは優しい想いに溢れた世界なのだろう。
こうやって私を迎えてくれる人がいて、思えば、償いとはいえ、できる限り過ごしやすいようにといつも気にかけてくれる人もいて、街に出れば笑顔で話しかけてくれる顔見知りもいる。外を歩けば日差しは温かいし、過ぎ去っていく風は優しい。
嗚呼、世界は変わっても、こんなにも美しい。
窓から入り込む心地良い日差しを体に感じながら、窓の外、青々と茂る木々に鳥がとまっている様子を目にする。
思わずほろりと頬を流れた滴は、男の指にそっとぬぐいとられた。
何も言わない男の瞳は、柔らかに温かい光を持って、私を見つめている。
これからは、ちゃんと前を見て歩こう。
現実から目を反らすのではなく、逃げたりせずに、辛い事も、嬉しい事も全て真摯に受け止めて。
きっと、私が思った以上に美しくて優しい世界が、私を待っている。
だから。
今はまだ、心から願えなくとも。
いつかは、結婚した二人の祝福を願えるようになりたい。
私を愛してくれた両親に恥じぬよう、しっかりと前を見据えて歩んでいくんだ。
そして私も、全てを受け入れられるようになったら胸を張って言いたい。
「この世界を愛している」と。
気づいたら長い話になっていましたが、いかがでしたでしょうか。
少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!