第一章
夢を見る。
遠い遠い昔のこと。今じゃもうどうやっても手の届かない、夢のような話のこと。
あれからそれなりに経ったのに、それでも俺はこの夢から逃れられない。
◆
「また……あの夢か……」
目を開き、ぼんやりとしながら呻く。
普段も一月に一度や二度は必ず見るけれど、この時期は毎日だ。嫌になる程見ているのに、それでも今なお慣れるという事が出来ない夢。
「俺は……どうすればよかったんだろうな、ルイ」
虚空を見つめながら、そう呟いた。
当然、帰ってくる答えなどない。彼女は、もういないのだから。もう二度と会うことも、話すこともできはしないのだから。
全ては、彼のせいで。
無言のまま起き上がり、上着を脱ぎ捨てる。
一度、感情をリセットする必要があった。
このままの雰囲気で訓練に出たら間違いなくメンバーのみんなに心配される。シャワーでも浴びて、気持ちを切り替えることにしよう。
……切り替えられるかは、はっきり言って微妙なところだが。
未だ消えない夢の残響を必死に無視しながらタオルを取り、彼は浴室に向かった。
◆
その日、ライカ・グルーエンはどうしても訓練に集中できずにいた。
「ど〜したよ、ライカ。いつもより反応が鈍いぜ?」
「う〜ん、ごめんコウイチ……」
その証拠に、ライカの身に纏った雷光のヴェールはいつもより勢いが無い。普段なら訓練中にコウイチが二、三回昇天するレベルで攻めてくるのに、今日は一度も死んでいなかった。
目に見えて集中しきれていないライカに、苦笑しながらコウイチは口を開く。
「ま、ど〜せカリヤの事が気になって、集中しきれなかったんだろ〜?」
「な、なんで!?」
わかりやすく動揺を表に出してしまう彼女に、さらにコウイチの苦笑が深くなる。
はっきり言って、ライカは感情がそのまま顔に出るタイプなので、よっぽどの鈍感野郎でなければ大抵の人間が何を考えているか察知できるだろう。アトリやコウイチのように、毎日会う面子であれば、なおさらだ。
チーム内での例外はカリヤだが……彼は彼でそれなりに壮絶な過去があったため仕方ない面もある。
まして、カリヤ以外のメンツに彼女の恋心は知れ渡っているのだ。その辺も踏まえて考えれば、自ずと答えに辿り着いてしまう。
「つ〜か、アイツはアイツで、今色々と面倒な時期だしな〜」
「え、何か言った?」
「ん〜や、なんでもね〜」
自分にしか聞こえない程度の小声で、彼は呟く。
ちょうど一年前、全く同じ時期にカリヤは同じような状況に陥っていた。なまじ原因がわかっているせいで、今のコウイチにはうまく触れることができない。
……そういえばライカにはこの事は話していなかったかもしれない。
「そ〜だな。他でもないアイツのことだ。お前には話しておくべきかもしんね〜な」
「コウイチ……? どうしたの、いつになくシリアスな顔になって。雪でも降るのかな」
「時々思うけどよ。お前、おれに対する尊敬の念とかゼロだよな〜」
加入時期が一年以上離れているにもかかわらず、先輩に対する尊敬とかそんな感情が全く見えない後輩に、コウイチは内心で溜め息を吐く。
まあでも今更改まって先輩とか呼ばれても背中がかゆくなってきそうだからやめておくか、とか一瞬思考を横に逸らして、いやいやそうじゃね〜だろ〜、ともう一度戻ってくる。
「ま、ま〜それはい〜や。え〜と何の話しよ〜としてたんだっけか……」
「カリヤの話でしょ。色々面倒な時期って、何のこと?」
「あ〜、そ〜だったな」
脇に逸れて、一瞬本筋を見失ってしまった。茶化して話しているけれど、実際興味津々らしいライカは早く話せと言わんばかりの視線を投げかけてくる。
どう話すべきかな〜、なんて少し思うが、こいつ相手にオブラートに包んだ話をしても意味がないし、これからも長く付き合っていくだろう仲間だ。隠す方が無駄だろう。
そう判断して、コウイチはありのままを話すべく口を開く。
だが、彼の動きはそこで止まることになった。
「?? どうしたのよコウイチ」
怪訝そうな面持ちで、そう聞いてくる。が、コウイチはそちらへ注意を向けることができずにいた。
「ほ〜う、ライカもコウイチも、トレーニング中に私語を垂れ流す余裕ができたか。これは私がお前らの実力を計り損ねたかなぁ」
突然背後から聞こえた声に、ライカの背筋がびくりと震える。
恐る恐る振り返ってみると、そこにはにっこりと微笑むセルティが立っていた。
「せ、セルティ……。これはその、サボりとかじゃなくって……!」
「うんうん、わかってるぞライカ。済まなかったな、お前たちには少し軽すぎるトレーニングだったらしい。これからは、もう少しレベルを上げていこうと思う。なあに、お前たちなら大丈夫さ」
「セルティ〜、そういうんじゃないんだって。ライカはだな〜……」
二人して必死にどうにか言い繕おうとするものの、この鬼教官はこのモードに入ったら人の話をまるで聞かない。
自分のほおが引きつっていくのを感じながら、ライカは素直に自分の目的を話すことにした。
「その、カリヤの様子がいつもと違っているように見えたんです。訓練もいつもより集中できていないようですし。それでコウイチに理由を聞いているところだったんです」
「ああ……。そのことか」
途端、セルティの表情が苦いものになった。その変化に、ライカの心配がさらに大きなものになっていく。
「……その件に関しては、私の口から下手なことは言わないほうがいいな。コウイチ、後で教えてやれ。お前の方が詳しいだろう」
「ほいほ〜い。……ま〜、聞かれなくても、そのうち話すことになってただろうしな〜」
二人が目配せし合いながらそう結論を出したのを聞いて、ライカはいよいよ自分の心配が間違ったものではないと確信する。
いつもの二人なら、言いづらいことでも結構ストレートに言ってくるのだ。それなのに、ここまで言葉を濁すなんて。それほどまでに言いづらいことって、何なのだろうか。
そんなことを考えながら、ライカは二人から視線を外した。
目を向ける先は、無論彼女の憧れの人だ。
「おいおいどうしたよ、アトリ。こっちはまだまだいけるぜ?」
叫びながら、視線の先のカリヤが左手で描いていた魔法を解き放つ。呪文とともに<紅花>が発動、炎の弾丸が幾つもアトリに向かって放たれた。
「あいにく、こっちもその程度じゃ落ちないわよ?」
不敵な笑みと共に、アトリは<変異装甲>を起動、籠手を大剣に変化させて、カリヤの魔法を叩き落とす。
だが、カリヤの狙いはそこにあった。
「行くぞ、<生き抜く者>!」
雄々しく吠え、彼は自らの内に眠る異能を起動させた。肩から指の先まで何本もの黒く禍々しい筋が走り、それらが絡み合って一つの形を生み出していく。
それは、左腕を肩から指の先まで覆う、漆黒の籠手だった。
どうしてか目を離せなくなるような、禍々しい雰囲気を放つ左腕。かつて、ライカが化物の道へと堕ちかけた時、救ってくれた力だ。
アトリはそれに気付いているものの、目の前に迫っている<紅花>に対応しなければならず、カリヤの異能発動を止められない。
それを見て、カリヤの口元に獰猛な笑みが浮かぶ。それは、半ば勝利を確信している者の笑みだった。
「起きろ、<死天>」
もう一声、加えて吼える。
途端、カリヤの全身を一瞬だけ光が覆った。<死天>の効果は極めて単純、身体能力の増加だ。
トン、という軽やかな音がかすかに聞こえ、
グン、とカリヤの体が一気にアトリへと肉薄する。
まだ<紅花>の対処に追われているままのアトリには、これを止めるすべがない。
そのまま、無防備な獲物へ容赦なく黒手が振るわれる。
……そして、その手はアトリの首元で止まった。
「……さて、何か逆転の手、ある?」
「う〜ん……。無いわ、降参」
一つため息をつき、アトリが両手を挙げた。<変異装甲>も主の声に従うように光を失う。
それに小さな笑みを浮かべ、カリヤも<生き抜く者>を解除した。
「これで五戦終了か。二勝三敗、まだまだ追いつけないな」
「うーん、でも最近はギリギリの勝利が多いもの。勝ち越しされ始めるのも近そうね。……まあ、簡単に抜かれる気は無いけど?」
「はは、こっちも簡単に抜けるとは思っていないさ。……まあ、いつまでも負け続ける気はないけどね」
そんなことを言い合い、互いに笑みを浮かべ合う二人。しかし、その笑みは獲物を狙う狩人の笑みだ。
互いに弱みを見せるつもりはない。彼らはチームメイトであると同時に、ライバルでもあるのだから。
そんな光景を、遠くから見つめるライカ。
表面上は、いつもと変わらない。けれど、ライカは胸の内で渦巻く不安と心配を抑えられずにいた。
何か、無理をして笑っているようにしか見えないのだ。何か、自分の中に全部抱え込んでしまっているようにしか思えないのだ。
もちろん、彼の全てをライカが知っているわけじゃない。むしろ、好きな人のことなのに、知らないことの方が多いと思う。
「あの、セルティ」
「何だ?」
「私には、カリヤが無理をして笑っているようにしか見えないんです。いつも通り振る舞うよう、意識して動いているようにしか思えないんです。……どう思いますか?」
「さてな。私はなるべくあいつらの個人的な事情には自分から踏み込まないようにしている。あいつらから相談があれば、相談には乗るがな」
そう、にべもなく言い切られ、ライカの視線が地面に落ちる。
「だが、あいつが何かしら抱えているのは知っている。何せ、あいつの本来のスペックからいえば、今より三割増しで動けるはずだからな。だから、何かに悩んでいることも、その理由も何となくは、知っている」
続く言葉に、ライカは再び視線を上げた。
言葉を紡ぎ続けるセルティの表情は、いつも通りの厳しいものだ。だが、声音は少し優しいものが混じっている。
「異能保持者は、自らの闇には自ら立ち向かわなければならない。……それが侵してはならない鉄則だと考えている。求められれば、応えよう。しかし、求められてもいないのに手を差し伸べるほど、私は優しくないんだよ」
そう、ニッと口の端を吊り上げて微笑むセルティ。
厳しくもどこか優しさの混じるその笑顔に、この人は生粋の教師なんだなぁ、なんて考えてしまうライカ。
「まあ……あいつに関しては、お前やアトリの方がよく知っているだろう。どうにもならなくなったら、いつでも相談してこい。いくらでも乗ってやる」
「……はい! よろしくお願いします」
そう、ぺこりと頭をさげる。それにふん、ともう一度笑みを浮かべ、セルティは「またな」と手を振りながら去って行った。
「ああ、そうだ。ライカ、色恋も構わんが、成績が落ちていたら問答無用で延長訓練させるから、そのつもりでな」
「は、はいぃ……」
最後に釘をさすのは忘れなかったらしい。
こちらをちらりと見やった目はぎらりと輝いており、その言葉が一切の誇張を含まない本音だということを物語っていた。
その視線に、全身が一瞬で粟立つ少女。いくら訓練を積んでいるとはいえ、十年以上戦い続けている女傑にはまだまだ追いつきそうにない。
「行ったか。いや〜、締められるかと思った」
「い、生きた心地がしなかったんだけど」
「……お互い、よく生き残れたな」
「冗談に聞こえないよ……」
実際、冗談で済まないのだから、セルティは恐ろしい。
閑話休題。
「それで、コウイチ。話がだいぶそれたけど、カリヤが色々面倒な時期って、どういうこと?」
「ん? あ〜、そ〜だったな」
ワシワシと寝癖だらけの頭を掻きながら、コウイチが言い淀む。
「ま〜、何だ。あいつの今に直結してくる内容だからな。……ま、お前も軽く知ってると〜り、決して軽い過去じゃない。だから、何てゆ〜か……おれでもど〜やって話したらいいか、悩むんだよ」
これから話すことは、カリヤの今につながる重大な内容と言っても過言ではない。カリヤもライカとベクトルは違えど、異能のせいで人生が変わった人間の一人だ。その過去は相応に重い。他の者では、簡単に立ち入ることができない程度には、重い。
現に、コウイチも概要は知っているが、深い所まで踏み込んだことはない。
後輩少女がカリヤに対して抱いている感情は、よく知っている。もちろん、応援していきたいとも思っている。
けれど、それを加味しても、背負うには重いのだ。なにせ、カリヤ一人の人生を背負うのとほとんど変わらない重みなのだから。
「先に言っておく。……覚悟ができていないなら、この先に踏み込むのはやめておいたほ〜がいい。はっきり言って、おれでも背負うのは無理な過去だ」
それでも、知りたいか?
普段の間延びした口調で、けれどまるで戦場にいるかのごとき鋭い視線をこちらに向けながら、コウイチはそう問いかける。
背筋がぞわりと逆立つのを感じた。彼女はまだ戦場を経験したことはないけれど、その光景を幻視するほどに彼の放つ雰囲気は異常だった。
……彼女の答えなんて、わかっているくせに。
ゴクリと口の中に溜まった唾を一度飲み込んで、しかしはっきりとした口調で言い放つ。
「もちろん。それを知ることで、カリヤに少しでも近づくことができるなら」
後輩のその言葉に、コウイチはいつも通りの笑みを浮かべた。
どう話をするか、頭の中で組み立てながら、彼は口を開く。
それは、とある化物の物語。