序章 一つの課題
静かな夜闇が、彼を包んでいた。
「……こういう夜は、好きだな」
小高い丘の頂上にただ一人で陣取ったカリヤは、ポツリとそんなことを呟いた。
かすかな風が草葉を揺らして、心地の良いさざめきを生み出している。それに混じって聞こえる小さな虫の声が、彼の心に穏やかな喜びを与えていた。
「誰もいない、何もない。これが俺の望んでいた理想郷……か」
いつになく落ち着いた自分の鼓動を感じながら、彼は独りごちる。
このまま静かな時間が過ぎていけば、どれほど幸せだろう。このまま何もなく世界が回り続けてくれれば、どれほど嬉しいだろう。
そんな事を考えながら、カリヤはその場に身を横たえた。
上に来ていたジャケットを布団代わりに敷いているから、草原の柔らかい感触だけが彼の背中をくすぐる。何度か身じろぎをしてベストなポイントを見つけてから、カリヤは目を閉じた。
そして、彼は夢を見る。
もうどうしようもない、どうあがいても変えられない、遠い遠い夢を。
「……リヤ……カリヤ!!」
耳元で聞こえた大声に、びくりと体を震わせながらカリヤは目を覚ました。
いきなり飛び起きたせいで、全身に妙な力が籠っている。周囲に何もいないことを確認してから、彼は首元のチョーカーへと手をやった。
「こちらカリヤ、コウイチか?」
『あ〜、コウイチだ。おっまえ作戦直前に寝るか〜、やるな〜』
「悪い、この頃夢見が悪くってな。……そろそろ時間か?」
『あ〜。そろそろ先行部隊が始める頃だ』
そうコウイチが言った途端、ズズン! というすさまじい音がカリヤの耳を揺さぶった。顔をしかめながら轟音の方向へと目をやると、恐ろしい勢いで豪炎が踊っている。
「やりすぎじゃないのか。クライアントは森を守るために奴らの排除を俺らに依頼したんだろう?」
『その辺は抜かりないだろ〜よ。依頼書の写しにきっちりこ〜書いてあったぜ、「最低限の損害はやむを得ないものとする」って〜さ』
「……やれやれ、依頼人に怒られる前に火種を消し止めるとするか」
作戦通りに、と告げて、チョーカーに仕込まれた無線のスイッチを切る。電源をオフにする間際に聞こえてきた「りょ〜かい」という声には、なんの意気込みもなかった。
当然だろう。勝って当たり前、こちらが損害を出すことなどあり得ない戦いなのだから。
そんなことを考えている間にも、次々と火柱が上がる。
あれは決して敵側の反撃ではない。最初から今に至るまで、すべてこちら側の計画通りに行われている攻撃だ。
とはいえ、想定していたよりも大分火力が高い。このまま放置しておくのはまずいだろう。作戦をさっさと次の段階へ進める必要があった。
枕代わりにしていたポーチを腰に取り付け、軽く屈伸運動をしながら身体に異常が無いことを手早く確かめる。
出撃の準備は整った。
「……さて、今日も少しだけ、世界を平和にしようか」
言いながら浮かべられたのは、獣のように鋭く獰猛な笑み。
勝利を疑うことなく、されど驕ることなく、彼は今日も与えられた課題をこなしていく。
◆
始まってみれば、あっけないものだった。
「……俺らを駆り出す必要、あったのか?」
疑問に首を傾げながら、もう一度辺りを見渡す。
立っているのは、彼とコウイチのみ。それ以外に無事な人間はその場に存在していない。
ただし、死んでいるわけでもない。現に、意識を飛ばすには少し足りない、しかし精神を蝕むには十分すぎる傷と痛みを負った男たちのうめき声が、途切れることなく聞こえてくる。
今回、殺害命令は出されていない。あくまでも、彼らに依頼されたのは鎮圧であり虐殺じゃない。そして、カリヤは無用な殺しをやらない主義だった。
首元へ手をやり、無線のスイッチを入れる。今度はコウイチ相手ではなく、別のところで動くように言っていた仲間へと繋がった。
「アトリ、こっちは制圧したぞ。応援いるか?」
『問題ない。こちらも完了したところ。処置を施した後、そちらへ合流する』
「了解。問題ないとは思うが、中止しろよ」
『ええ、わかってる。最後に油断するなんて、新兵らしいミスはしないわ』
そう言って、アトリは無線をオフにした。
彼女の能力なら、よほどの敵じゃない限り遅れを取ることはない。それに、彼女が苦戦するほどの実力者がいるのなら、ここまでの間に出てこなければおかしい。
敵の増援が来る確率もほぼゼロとくれば、任務は完了したも同然だった。
「どうするよ、コウイチ。制圧は完了、捕縛もできてる。あと何かすることあるか?」
「ね〜な〜、アトリが合流するまで寝てるのもいんじゃね?」
「流石に敵がいるかもしれない状況で、寝る気にはなれないな」
そんな軽口を叩き合う彼らに、比較的軽傷で済んだ一人の男が震えながら口を開く。
「な、何者なんだ。おめえら……」
それを耳ざとく聞きつけたカリヤは、一瞬考えたのち答えた。
「“スクール”だよ」
あいも変わらず獣のように鋭い笑みを浮かべながら。
「少しだけブッとんだ、学生だ」