scene_6 「もはや無関係なのだから」
小亜羅は走った。無我夢中で、走った。どこに向かっているかなど考えず、ただナノカが追いつけないように、懸命に足を動かす。
冷静に考えれば、家のものに電話を入れればすぐにでも迎えが来るはずだったし、ほかにもたとえばどこかの店に入って隠れるとか、いっそタクシーに乗ってしまうとか、方法はあるはずだった。しかし気が動転していて、とにかく悲しくて、走ることしかできなかった。
「逃げないで、こあらちゃん!」
すぐうしろで、ナノカの声。
小亜羅は、立ち止まった。
逃げきれるはずなんて、なかった。そんなこともわからないほどに、感情が高ぶっていた。
肩で息をして、振り返る。ナノカはまったく息を乱した様子もなく、そこに立っていた。空は赤い。この町に彼女が立っている、ただそれだけで泣きそうになる。
「ナノカちゃん……」
小亜羅の声が、震えた。涙が流れそうになるのを、ぐっとこらえる。
小亜羅はナノカの肩をそっと抱き、よしよしと頭を撫でた。おそるおそる、ひどく繊細ななにかに触れるかのように。
小亜羅は力が抜けて、小さく笑った。いつの間にか、公園のすぐ近くまで来ていたことに気づく。意識していない、まったくの偶然だったが、小亜羅はこれは好都合なのではないかと思った。
「ねえ、ナノカちゃん。あそこで、お話しましょう?」
公園を指す。まだ何人かの子どもたちと、その母親らしい人影がある。
いつかのように、ナノカが一人になることはない。
「うん、いいよ」
「ふふ、決まりね」
小亜羅は手を伸ばし、ナノカの手を取った。にこりと笑って、公園へ歩を進める。幸い、ベンチは空いていた。
腰を下ろし、ナノカを見る。彼女の方が十センチほど背が高いので、見上げる形になる。
ナノカはどこか居心地の悪そうな顔をしていた。小亜羅は首をかしげる。
「どうしたの、ナノカちゃん」
「どうしたの、って……」
ナノカは指で髪をいじった。いいにくそう、というよりも、いいにくいですという感情が全身からにじみ出ている。
そういう、嘘のつけない、ごまかしのできいない性格も、小亜羅は好きだった。変わっていないなと思いながら、静かに待つ。
「あの、ね。もう、怒ってないの?」
やがて、意を決したように、ナノカがいった。
いいにくいことほど小さな声になるものだが、ナノカの声はきっぱりとしていた。そういうところも、昔のままだ。
「怒ってるわ」
「えええ」
即答すると、ナノカの顔が情けなく歪む。
「あたし、こあらちゃんに嫌われたら、この町にいる意味ないよう」
「ナノカちゃんったら、そんなのズルいわ。怒れなくなるじゃない」
冗談ではなく、小亜羅はいう。ナノカがいなくては意味がないのは、自分だって同じだ。
いや、正確には、「同じ」ではない──小亜羅には幼いころからずっと、揺るがない、譲れないものがある。
自分のナノカへの思いは、それ以上だ。
ほかのだれよりも、たとえばあの変態の兄よりも、ナノカを想っている自信があった。
「あのね、ナノカちゃん」
こんなことをいってしまっては、嫌われるのではないだろうか──
恐れもあったが、それでも小亜羅は、伝えたかった。
意を決して、大好きな幼なじみの目を、見つめる。
「ナノカちゃんはね、わたしのヒーローなの。あのね、ヒーローとしての力があるからとか、そういうんじゃないの。ナノカちゃんはとにかく、わたしにとって、特別なの。だから、ヒーローをやめたいなんて、絶対にいわないで」
わかってもらいたいというよりも、ただ伝えたかった。しかし案の定、ナノカは困ったように眉を下げる。
「こあらちゃん……」
「仕方がないわ。だって、そうなんだもの」
小亜羅は、ナノカの笑った顔はもちろんだが、困った顔も、怒った顔も、ぜんぶが好きだった。ごめんねと思いながらも、笑みをこぼす。
「それにね、さっきもいったけど、わたし、やっぱりナノカちゃんがヒーローじゃなくなったとしても、あの城は消えないんじゃないかって思うの」
小亜羅は、空を見上げた。
それほど遠くない空に、依然として浮かぶ城。ちょうど花ノ宮高校の上空だ。
「でももし、あたしのせいだったら……」
「もしは、ひとつじゃないわ。もし、ナノカちゃんのせいでもなんでもなくて、でもあの城をなんとかできるのが、ナノカちゃんだけだったら? いまはまだ、わたしたちのクラスだけみたいだけれど、そのうちにたくさんの被害が出るかもしれない。放っておけないわ」
ナノカが放っておけないと思うかどうかは、あえて言及しない。自分には関係がないといわれてしまったら、今度こそ立ち直れない。
「ねえ、それにね、思うのだけど……本当にあのお城が、ナノカちゃんのヒーローになるという願いに呼応しているなら、もっと昔──わたしたちが五歳のころに出てきてなくちゃ、おかしいでしょう?」
ナノカが目を見開く。その可能性は考えなかったようだ。
「そっか、そうかも」
「もうひとつ」
小亜羅は、視線を下げる。ちょうど、最後の親子連れが、公園を出ていくところだった。これでここには、ナノカと小亜羅の二人だけだ。
小亜羅は、ナノカがヒーローとなったあの日、現場に居合わせたわけではなかった。しかしナノカから聞いた話は、一生忘れられないだろうと思った。
何度も何度も、想像した。
この公園で、どんなやりとりがあったのか。
「ナノカちゃんがヒーローになりたいと願ったように……だれかが、悪将軍になりたいと願ったという可能性は、ないかしら」
「あ……!」
思わずといった様子で、ナノカが立ち上がった。
「こあらちゃん、頭いい!」
叫んで、それからすわり直す。そんな慌ただしさも懐かしく、小亜羅は思わず微笑んだが、それから首を左右に振った。
「わからないわよ? あくまで可能性の話だもの。でも、ナノカちゃんがヒーローになったことと、まったくの無関係ってことはないと思うの。どちらも荒唐無稽だし、それにどちらも地域が限定されている。これって、似てるわ」
「うん、うん、本当だね。そっか、そうだった場合、あたしがヒーローじゃなくなっても、悪将軍は残るよね……」
「それどころか、悪将軍の天下になるでしょうね。悪将軍は、ナノカちゃんを敵視しているようだったから……つまりね、悪将軍を止められるのはナノカちゃんしかいないって、そう思ってるの、わたし」
「ううん……」
唇を前に突き出すようにして、ナノカがうなる。小亜羅は思ったままをいっただけだった。それでもヒーローをやりたくないというのなら、それはもうどうしようもない。あくまで、ナノカの決めることだ。
「じゃあ、ナゾ仮面に、聞きたいよね」
悩んだ末に、ナノカがつぶやいた。
「ナゾ仮面? 十二年前、ナノカちゃんをヒーローにした?」
「そう、それだよ。ナゾ仮面がだれかを悪将軍にしたかもしれないんだったら、ナゾ仮面に聞いたらわかるよね。解決!」
誇らしげに胸を張る。目が光った気すらした。
「そ……それは、そうかもしれないけど……どうやって会うの?」
「呼ぼう!」
一切の迷いなく、ナノカは叫んだ。立ち上がり、拳を握りしめて、希望に満ちあふれた表情で小亜羅を見下ろす。
「最初に会ったのも、この公園だったもん。きっとこの近くに住んでるんだよ!」
「そ……そうかしら」
小亜羅としては、そう言葉を濁すしかない。彼女のこの自信は、いったいどこから来るのだろう。
しかし、ナノカは不安げな小亜羅をよそに、公園の中央まで走り出た。大きく大きく、息を吸い込んでいく。
「ナノカちゃん?」
空気が動くのが、わかった。
公園の中心に向かって、吸収されていく。巨大な空気の流れが、はっきりと目に見える。それらすべてが、どんどんナノカの肺に入っていく。
「──!」
小亜羅は察した。とっさにきつく両耳を塞ぐ。
「出──て──こ──い──! ナ──ゾ──か──め──ん──!」
とても、人の声とは思えなかった。
びりびりと空気が震える。声の波が肌を撫で、遠ざかっていく。
ナノカの声は、町全体に届いたのではないかと思えるほどだった。家々を越え、長い時間をかけて、遠くへと響きわたっていく。
「ナノカちゃんったら……」
加減というものを知らないのだろうか。知らないのだろう。それがナノカだ。
小亜羅は両手を耳から離した。まだ、耳の奥が震えているようだった。新たな膜が張ったような違和感。鼓膜はだいじょうぶかしらと本気で憂える。
しかし、ナノカの大声は、ただの大声では終わらなかった。
彼女のもくろみ通り、確かな結果を生んだ。
「なんだい、そんな大声で……そんなにこの美しき闇商人に、会いたかったのかな?」
飄々とした声とともに、どこからともなく人影が現れる。
燕尾服に、黒い仮面。
小亜羅は思わず立ち上がった。
「出た! ナゾ仮面!」
ナノカが叫ぶ。仮面の男は両手をあげ、大仰に首を振った。
「はっはっは、お兄さんは美しき闇商人、J・Jだ。まさか忘れたわけではないだろう?」
「じぇいじぇい……? そんな名前だったっけ?」
仮面の男をからかうつもりも、ましてや怒らせるつもりもないのだろうが、ナノカが当たり前のようにそう問い返す。J・Jはこめかみを押さえ、黙った。
「……まあ、とにかく、今後私を呼ぶときにはもう少し控えめに頼むよ。この近所に住んでいるんでね、そんな大声を出さなくても聞こえる」
「やっぱり!」
ナノカが嬉しそうに両手をぐっと握りしめる。誇らしげに振り返る姿に一瞬悩殺されそうになったが、そんな場合ではない。小亜羅はナノカに駆け寄ると、シャツの袖を引いた。あまり近づくなと、仕草で伝える。
「こうやってここに現れたということは……ナノカちゃんに、協力してくれるつもり?」
ナノカとは対照的に、小亜羅は好戦的だ。J・Jは仮面の奥で、おもしろそうに赤い目を細める。
「どうかな。私にできることなら考えるが……私は商人だからね。もちろん、対価を要求するよ」
「悪将軍を生んだのって、おじさんなの?」
「話聞いてたかな、お嬢ちゃん」
さすがの闇商人も、ナノカには手を焼くようだ。小亜羅はとりあえず、ナノカに任せることにする。
「教えてくれるぐらい、いいじゃん」
ナノカは一ミリも引かなかった。かといって、交渉する様子もなかった。ごり押しだ。
「よくないさ。まあ、対価を要求するとはいったが、私は味にうるさいんだ。一人につき一つと決めている。二つ目はおいしくないからね。つまり、これ以上、欲することはできないな」
J・Jがどこかおもしろそうにナノカを見下ろす。ナノカは真剣にうなった。
「じゃ、もうお願いごとは聞いてくれないってことだね。どうすればいいかな。わかった、おじさんが商人だからいけないんだよ。まずお仕事変えよう!」
「……いやいやいや」
J・Jは腕を組んだ。一度ナノカから視線を外す。
遠くを見て、深呼吸。リフレッシュしたのか、振り返ったときにはポーカーフェイスを復活させていた。
「用がないなら、お兄さん帰るけど」
しかし、心が折れていた。ナノカは頬を膨らませる。
「なんで! 質問に答えてないじゃん! 拳? 拳で語り合う?」
ヒートアップ。小亜羅は心中でナノカを力一杯応援する。ナノカが昔好きだったアニメでは、どんなときでも拳で語り合うのがモットーだった。小亜羅ももちろん、DVDボックスを持っている。
いけ、ナノカちゃん!
勝てる!
「ちょ、ちょっと待ってもらおうか」
冗談ではないとわかったのだろう、J・Jの声に焦りが現れた。
「私は武闘派ではないんだよ。そもそも、君をヒーローにしたのは私だ。拳で来られたら、ひとたまりもないことは私がだれよりもよく知っている」
「いい残しておきたいことは、それだけ?」
ナノカの拳はすでに燃えていた。
J・Jの表情がこわばる。仮面の下で、筋肉がひきつったのが見て取れる。
「たとえばの話をしよう、落ち着きたまえ、お嬢さん」
「三、二……」
「いや、だから! たとえばここで私の命が尽きても、一緒だからね? なんの解決にもならないからね、わかる?」
ナノカは、拳をおろした。
首をかしげて、そのままうしろを見る。小亜羅はそんなナノカと瞳を合わせ、うなずいた。
「つまり……たとえあなたが亡くなっても、ナノカちゃんはヒーローのままだし──悪将軍も、いなくならない、と?」
さりげなく、悪将軍のことも付け加える。それどころではないのか、J・Jはあっさりとうなずいた。
「そ、そういうことだ。その二つはもう、成された契約だからね。私の意志や、ましてや命とは関係がないんだよ」
J・Jは両手を前へ突き出し、ストップをかける体勢で必死にいう。ナノカと小亜羅が黙ってしまうと、咳払いをして、取り繕うように蝶ネクタイの歪みを直した。
「……わかって、いただけたかな?」
必要以上にダンディに、ポーズを取る。小亜羅がうなずき、ナノカは反対側に首をかしげた。
「なりたい姿にならせてもらったら、それってずっとそのままなの? それとも……元に戻る、戻す方法が、あるの?」
「では、ヒントを」
J・Jは、すっかり自分のペースを取り戻したようだった。唇の両側を上げて、にやりと笑う。
「私は一度もらった対価を返すことはない。というよりも、返すことはできない。食しているのだからね。だが、対価というのは心だ」
試すような目で、ナノカと小亜羅を見る。小亜羅は、彼がなにをいおうとしているのか気づいた。
「対価は……心?」
ナノカは覚えていないのだろうか。小亜羅は、五歳のナノカがいっていたことをよく覚えていた。ナノカは当時、心をひとつ、取られているはずだ。
「そう、心だ。その心を、自分自身で取り戻すのならば、あるいは……」
「それと、おじさんは何者なの?」
「本当に話を聞かない子だね」
J・Jは肩をすくめたが、どこかおもしろがっているようでもあった。笑みの形のまま、口を開く。
「私は美しき闇商人だ。それ以上でも、以下でもない。私が何者かはたいした問題じゃないさ……君たちの力と私とは、もはや無関係なのだからね」
仮面と口とが、浮かび上がったような気がした。
ナノカも小亜羅も、目を奪われる。一瞬、脳が麻痺するような感覚に陥る。
唐突に、まるで二人を呼び戻すかのように、けたたましく着信音が鳴り響いた。ナノカと小亜羅が幼いころに放映された、ヒーローアニメの主題歌だ。前奏からがっつりと、大音量で流れていく。
「ナノカちゃん、お電話が……」
「はい、はいはいっ!」
ナノカは慌ててスカートのポケットを探る。画面には「お兄ちゃん」の文字が輝いていた。
あの兄か──盗み見て、小亜羅は内心で舌打ちする。せっかく、ナノカとナゾ仮面の対峙という、おいしい場面だったのに。
ナノカが通話ボタンを押し、話し始める。
小亜羅は顔を上げ、そして気づいた。
いつの間にか、J・Jは姿を消していた。