scene_5 「心を、ひとつ」
「ただいまー」
聞こえた声に、野中ヒロシは玄関まで全力疾走した。愛しい妹を、両手を広げて歓迎する。
「お帰り、ナノカ!」
「おじゃまします、お兄さま」
「おじゃまします」
しかし、ドアを開けて入ってきたのは、ひとりではなかった。
愛しの妹がいるのは当然だ。
その幼なじみであり友人の三ツ山小亜羅が共にいるのも、うなずける。
問題は、もう一人だった。
「羽島万太です。突然もうしわけありませんが、どうしてもお兄さんからお話をうかがいたいと思いまして」
丁寧に頭を下げ、メガネを押さえながら、淡々という。
この男には、見覚えがあった。今朝、ナノカと校門で一悶着起こしていたやつだ。ナノカにはいえないがこっそりあとをつけて一部始終を録画していたので、まちがいない。ヒロシの脳内にある、ナノカのクラスメイトデータに該当者あり。羽島万太、花ノ宮高校生徒会長。
こうして間近で見ると、そこそこに背が高く、声が低く、もやしというほどにひょろりとしているわけでもなく、なによりも頭脳明晰を絵に描いたような男。そして礼儀正しい。
「敵か!」
ヒロシは直感した。こいつは敵だ。しかもお兄さんなどと。どこの馬の骨ともしれない男に、お兄さん呼ばわりされる覚えはまったくない。
「ええ、そのことについても、もちろん」
なに食わぬ顔で、羽島万太は肯定する。
ヒロシは、かっと頭に血がのぼるのを感じた。
こいつは、いまここで、倒しておかなければならない──ヒーロー(マニア)としてのソウルが燃えさかる。
「あとは、ナノカさんの幼いころの話なども……」
「お兄ちゃんは、認めません──!」
ヒロシの手が真っ赤に燃え、万太を倒せと轟き叫ぶ。
しかし、ひょろひょろと飛び出したヒロシの渾身の一撃は、ナノカの一喝によって完全に止まった。
「お兄ちゃん、どいて」
正確には、喝などではなかった。日常のシーンで見られるただのお願いだ。
しかし、ヒロシは激しく目を見開く。ナノカのテンションが明らかに低いのを、兄として感じ取ったのだ。その証拠に、いつも元気なツインテールが垂れ下がっている。
「ナノカ、どうしたんだ? 兄ちゃん今日、レーズンバターサンド買ってきたぞ。おまえの好きなキムラのやつだぞ。よし、日本茶を入れよう! 待ってろ!」
「うーん。食べるけど」
歯切れが悪い。ヒロシはゆっくりと首を左右に振った。
「なんてこった……ナノカ、いったい、なにがあったんだ?」
「お兄さまもご覧になったでしょう。今日、お空にお城が出現したんです。ナノカちゃんはもうてんてこまいで、それはもう大変な一日を過ごしたのです」
「城!」
ヒロシは手を叩いた。
空に城──たしかに見た。まちがいない。これは大ニュースだと思いつつ職場に戻り、いやあ大変なことになりましたねえと話題に出したが、おかしなやつ呼ばわりをされただけで終わったのだ。幻か気のせいか──そういう類のものだと思っていた。
「え、あれ、マジで?」
三人が、うなずく。
ヒロシのテンションが、いっきにマックス値にまで跳ね上がる。
「うおお! ということはあれか、魔王の城か! ナノカ、やったな! 倒すべき敵が現れたんだぞ!」
「お兄ちゃん、ちょっと黙って。あたし、着替えてくるから、二人とも休んでてね」
「んん……! よし、黙ろう! そしてもてなそう!」
ヒロシは宣言して、いそいそと茶の用意を始める。転入初日、疲れているであろう妹のために、今日は早退してきたのだ。ナノカの好きなブレンドティーは用意済みだったし、夕食の下ごしらえまで完璧だった。同じ理由で朝は遅刻しているので、ほとんど仕事をしていないわけだが。
野中家はそれほど広くはない。2LDKの、どこにでもある賃貸アパートだ。ナノカの自室というものも一応は存在するが、三人が座ってくつろぐほどのスペースはないため、ヒロシはリビングテーブルに茶を並べた。買い占めたレーズンバターサンドも器に盛る。
「ささ、どうぞ、小亜羅ちゃん」
クッションを置き、小亜羅を促す。
「ありがとうございます、お兄さま」
にこりと笑って、小亜羅は清楚な仕草で腰をおろした。
「帰れ! といいたいところだがすわれ。ナノカの優しさに感謝するんだな!」
万太には敵意むき出しで告げる。万太はまったく動じることなく、ありがとうございますと会釈をした。ヒロシの示すままに、小亜羅の隣にすわる。
「……どうして、生徒会長まで一緒にくる必要があって?」
小さな声ではあったが、小亜羅がとげとげしいいいかたをした。ヒロシはぴくりと耳を大きくする。
「いったでしょう、お兄さんに聞きたいことがあるんですよ。野中さんが、ヒーローとなったときのことや、その当時のことです」
「それはわたしが聞いておくから問題ないわ。そもそも、生徒会長はナノカちゃんと仲良しでもなんでもないでしょう。男の子がいきなり家にくるなんて、ナノカちゃんの迷惑を考えたらどうかしら」
「……む、迷惑、なのでしょうか?」
「あたりまえだわ。ナノカちゃんはわたしといちゃいちゃするはずだったのに」
ヒロシは想像した。ナノカと小亜羅のいちゃいちゃ。それは大変に素晴らしい。
「生徒会長は邪魔をしたかったのかしら? ナノカちゃんを誘惑でもしたら許さなくてよ」
ヒロシの耳がさらに巨大化した。
誘惑だと?
「今朝からべたべたしちゃって。よろしくないわ。あなたがナノカちゃんに恋をするのは勝手だけれど」
「な、そ、そんなはずがないでしょう! 僕は生徒会長として、いえ、2─Aの一員として、積極的に事態の解決を……」
「ふん、イヌ」
「…………っ!」
ヒロシは心の中で腕を組んだ。なるほどとうなずきながら、ナノカ周辺人物相関図を描いていく。どうやらこの二人はあまり仲が良くない──というよりも、小亜羅が一方的に敵視しているようだ。
「お待たせー」
そこへ、ナノカが合流する。ジーンズのスカートに白いシャツという、ラフな出で立ちだ。ヒロシは心の中でガッツポーズをとる。我が妹よ、なにを着てもかわゆし。
「ねえ、あたしね……今日あれからずっと、考えてたんだけど……」
いつになく真剣な、思い詰めたような表情だ。
ヒロシはナノカの分の茶を運ぶのも忘れ、妹に見入る。いやな予感がした。
「あたし、ヒーロー、やめられないかな」
「ナノカちゃん!」
小亜羅が立ち上がる。ヒロシは声も出なかった。
しかし、どこかで納得もしていた。そういい出すのではないかという気がしていたのだ。
「ナノカちゃん、なにをいっているの? せっかく、この町に帰って来られたのに……」
「当然、そうなるでしょうね」
万太は冷静だ。まるで、そうすべきだというかのように。
「あの城の存在や、今日のクラスでの事件……それがもしかしたら、自分と関係がある──それどころか、自分のせいかもしれないのならば、その考えに行き着くのは当たり前でしょう。敵側があなたを敵を見なしているようですし」
「でもそんなの……もし、ナノカちゃんと関係がなかったらどうするの! ナノカちゃんがヒーローではなくなったとして、それでもお城はあのままかもしれないでしょう?」
小亜羅は必死だ。ヒロシは彼らの会話から、クラスでの事件とやらを想像する。なにか、ナノカにとってよからぬことがあったのはまちがいない。
「あのね、でもね。あのお城、あたしが来たから、出てきたんでしょ? あたしがこの町からいなくなったり、ヒーローじゃなくなったりしたら、消えるんじゃないかな。もし、あたしがヒーローじゃなくなって、それで解決するなら、それがいちばんいいと思うの。小さいころは夢だったかもしれないけど、いまはもう、ヒーローでいたいなんて思ってないんだから」
「そんなの……!」
小亜羅の目が潤んでいた。ヒロシは兄としてこの場をどうにかしようと思うが、どうすればいいのかわからない。そもそも小亜羅がなにに打ちひしがれているのかも、いまいちつかめないのだ。
それでも、知っていることは告げねばならないと、責任感に背を押される。ヒロシは小亜羅を見据えた。
「小亜羅ちゃん。ナノカはね、昔……」
「お兄さまは黙っていてください! これはわたしとナノカちゃんの問題です!」
「はい」
ヒロシは黙った。一瞬にして、ヒロシと万太は蚊帳の外に追いやられてしまった。
「ねえ、こあらちゃん。あたし、小さいころ、本当にヒーローだったの? なんかね、どうすればいいのかわからないの。急にヒーローみたいな力が使えるようになっても……」
「ナノカちゃんはヒーローだったわ! いつだって、わたしを助けてくれたわ! それに、ヒーローになりたいと願ったのは、ナノカちゃんでしょう?」
緊迫した空気だ。
ヒロシはとりあえず、すわった。
万太と一瞬だけ瞳を絡ませ、うなずき合う。これは口出しできないよねー、とアイコンタクト。
「そんなの……そんなの、ナノカちゃんらしくないわ。ヒーローをやめたいだなんて」
「あたしらしくないって、どうして? あたしいままでずっと、ヒーローなんかじゃなかったよ? 小さいころのことは覚えてないし……」
ナノカは瞳を伏せた。ほんの一瞬、いいにくそうに息を切る。
「……どうすればいいか、わかんないよ。悪将軍を倒せ、とか」
「──っ!」
小亜羅の瞳から、涙があふれ出す。
しかし緊迫した空気をよそに、ヒロシはがっつり反応していた。なんだワルショウグンて。やばい超かっこいい。
「ナノカちゃんの……ナノカちゃんの、バカ──!」
拳が飛んだ。思いのほか鋭い右ストレート。ナノカの頬にクリーンヒットする。
小亜羅はそのまま、鞄をつかんで立ち上がった。お邪魔しましたと叫んで、野中家から出ていってしまう。
「こあらちゃん!」
当然のように、ナノカがそれを追う。
ガチャ、バタン。
ガチャ、バタン。
二回続く音。
そして残る、どうしようもない静寂。
「これと二人とか!」
ヒロシは心から叫んだ。どうしろというのか、この状況。
「いえ、問題ありません、お兄さん。むしろ好都合といっていいでしょう」
「ないよ? オレその趣味マジでないよ?」
「どの趣味ですか?」
ごく淡々と問われ、ヒロシは我に返る。そうだ、落ち着こう。こいつは敵だ。自分のポジションを思い出す。
しかし同時に、ナノカの兄としての威厳も維持する必要があった。今更ではあったが胸を張り、ごほんと咳払いをする。
「つまり……オレの屍を越えていこうと、そういうことだな?」
男前にいった。
「違います」
「あ、違うんだ」
ここで初めて考える。そして、思い出した。
最初から、聞きたいことがあるといっていたはずだ。
「で、聞きたいこと、とは……?」
シリアスにいった。
呼応するように、万太のメガネが光る。
「妹さんの、力のことです。彼女がいっていたとおり、空に出現した城は、ナノカさんと関係が深い可能性が高い。彼女がどうしてヒーローになるに至ったのか、お兄さんの知っている経緯を、教えていただけませんか?」
「ふうむ……経緯ね。いいけど、オレもガキだったからな。記憶の混乱がないともいいきれん」
ヒロシは立ち上がった。
窓辺に寄り、赤く染まりゆく空を見つめる。遠いあの日に、思いを馳せる。
「だが、そうだな……君が、ナノカの協力者になってくれるというのなら──」
左手を腰にあてた。
勢い良く、振り返る。右手は親指と人差し指を立てて、顎の下に設置して決めポーズ。
「説明しよう! ナノカは幼きあの日、ナゾ仮面と契約をした。それにより、野中ナノカは、花ノ宮町にいる間だけ、超人的なパワーを発揮することが可能となった。この地を離れて十二年、もはやあの力は失われたかに思えたが、そうではなかった! つまりナノカは、花ノ宮町限定、美少女ヒーローだったのだ──!」
だー、だー、だ──。
完璧な口上が、こだまする。
もちろんリアルにはこだましないので、小さな声でヒロシが付け加えていた。かっこよさ演出というやつだ。
「それはもう、聞きました」
万太はまったく冷静だった。
「まず、ナゾ仮面というのは何者ですか? 契約というのは?」
「ああ、そういうことね。じゃあ最初からそう聞けよー。なんだよもー」
ヒロシはぶつぶつとぼやきながらも、よいしょともとの位置に腰をおろす。
「ナノカが五歳で、オレが十三のときだな。ナノカを公園で待たせといて、オレだけ近所のコンビニにあんまん買いに行ったんだ。ナノカが食べたいっていうからさ。そしたらそのとき、会ったらしいんだよ」
「会った、というと?」
「ナゾ仮面に」
「…………」
万太が微妙な顔をして黙る。そんな顔をされても、嘘偽りをいっているわけではないので、ヒロシにはどうしようもない。
「や、なんか名乗ったらしいけど、それは忘れた。黒い仮面してたってのは、ナノカがいってたからまちがいない。そんで、魔法でなりたいものにならせてやるから、なにになりたいかいってみろ、みたいなことをいわれたらしい」
「不審者じゃないですか」
ヒロシは深くうなずいた。
「不審者だな」
それは疑いようがない。仮面をつけて少女に近づき、「魔法が使えるんだよー」などと、即通報レベルだ。
「それで、ナノカさんは、ヒーローになりたいと?」
「そうだ。まあ、オレがヒーローものばっかり見せてたからな。この町を守るヒーローになりたいっつって、その結果が、花ノ宮町限定のヒーローってわけだ。実際引っ越してこの町を出てからは、超人的な力は使えなかった」
「なるほど……」
万太はなにやら考え込んでいるようだ。つられるように、ヒロシもあのころのナノカを思い描く。
「かぁわいかったなあ……」
当時五歳のナノカは、まさに無敵のヒーローだった。立ち向かえないものなどないと思っていたことだろう。事実、大人を相手にしても負けることなど決してなく、正義感に溢れていた。
「ナノカさんは、自分がヒーローだったということを、覚えていないようですが?」
「ああ……」
ヒロシの表情が、曇る。
それには、心当たりがあった。彼女がこの町に戻ってくることになったとき、またヒーローとしての力が蘇るんじゃないかという期待もあったが、不安があったことも事実だった。
だからこそ、コスチュームやテーマソングまで用意して、それでもナノカにはなにもいわなかったのだ。なかったことになったのなら、それでいいと思っていた。
「引っ越した先でな……まあ、ヒーローのつもりで、色々無茶しようとしたんだよ、あいつ。でも新しい町ではヒーローになんかなれなくて、ただの非力な女の子でさ、なんにもできないのにでかいことばっかりいうもんだから、まわりからは煙たがられて……要するに、友だちができなかったわけだ。いじめってほどでも、なかったけどな。かわいそうに、長いことふさぎ込んでたから……身を守るために、忘れちまったんじゃないかな」
膝を抱えて、一人で泣いていたナノカの姿は、いまでも忘れられない。嘘つきと罵られ、毎日のように泣いていた。
「小亜羅ちゃんは、しょっちゅう手紙送ってくれてさ、ナノカの心の支えになってくれたんだよ。オレにこの町での職場を紹介してくれて、ナノカが戻ってくれるように取りはからってくれたのも、小亜羅ちゃんだ。あの子はたぶん、ヒーローのナノカに、憧れみたいなのがあったんじゃないかな。だからあんなふうに、怒ったんだと思う」
「そういうことですか……」
万太がメガネを押さえる。
知ってることはこれでぜんぶだといいかけて、ふと、ヒロシはひっかかりを感じた。
自分でも何度も口にした、「契約」という言葉。改めて考えれば、思い出すものがあった。
そんなものはナノカの聞き間違いか、それともナゾ仮面のはったりか……たいして問題ないだろうと思っていたのだが。
「その代わり、心をひとつ──」
ぽつりと、つぶやく。
「それは、なんですか?」
ああ、とヒロシは返事をして、たいしたことではないととっさにごまかそうとした。しかし思い出してしまっては、実は重大なことなのではないかという気になってくる。
当時、ナノカはいっていたはずだ。
その代わり、心をひとつ、と。
「あの日、ナノカがいってたんだ。ヒーローになる代わりに、心をひとつ取られたって。でもナノカはあのとおり、まったく普通だから、気にしてなかったんだが……」
「心を、ひとつ」
万太がうなる。ヒロシはナノカと過ごした日々を思い出そうと、記憶を探った。
失っている心など、本当にあるのだろうか。気づいていないだけで、もし本当にナノカがなんらかの心を失っているのだとすれば、それは大問題だ。
心を失うというのは、どういうことなのだろう。
「いますでに失っている、か……それとも、ヒーローとしての力を使うことで、失う? いや、違うな。ナノカの願いはすでに叶ってるんだから、すでに心がひとつないって考えるのが、妥当か」
そういいながらも、釈然としない。
ヒロシにとって、ナノカは完璧だ。足りない心など、思いつかない。契約の前後で、なにかが変わったという覚えもない。
「もしかすると……その心を取り戻せば、ナノカさんはヒーローじゃなくなるのかもしれない」
万太のつぶやきにうなずきながら、しかしヒロシは考えていた。
取られた心を取り返す、もしくは自ら思い出せば、ヒーローではなくなるのかもしれない。そうでなくとも、最終的には、ナノカが花ノ宮町から出さえすれば、ヒーローとしての力が失われることは立証済みだ。
しかし、もし、ふつうの女の子に戻ったとして──
ヒロシはその可能性を、考えないわけにはいかなかった。
小亜羅のいうとおりだ。
もしそれでも、あの城が消えなかったとしたら、この町はどうなるのだろう──?