scene_2 「ヒーローだもの」
三ッ山小亜羅には、憧れの少女がいた。
恋、という言葉で安易に片付けて欲しくはない、宇宙よりも大きな思い。
過去形にしているのは、その少女と会うのが、実に十二年ぶりだからだ。
教室の窓から校門を見ていて、すぐにわかった。
ツインテールの美少女。
鉄門を軽々と持ち上げて、小さく丸めて放り投げた、あの美しい身のこなし。
惚れ惚れした。
手紙のやりとりをしていた十二年間、送られてくる写真を見て想像を膨らませてきたよりもずっとずっと、彼女は強く美しかった。
「なんて、素敵なの……!」
両手を組んで、うっとりと虚空を見つめる。
だから、彼女がどうやら職員室に呼ばれたらしいとわかったときには、三ッ山家の権力で全職員を解雇してやろうかと思ったぐらいだ。しかし、ほかならぬナノカ自身が、それを望まないだろう。
それでも、教室から飛び出すぐらいのことは、しても良いはずだ。
いままでの小亜羅には、いくら担任の教師が来ていないといっても、始業ベルが鳴ってから教室を出るなどと、考えられないことだった。
しかし、いまは違った。
愛の力だ。
「ナノカちゃん……!」
焦る気持ちを抑えて、廊下を駆ける。
愛しの彼女は、どこにいるのだろう。まだ職員室に監禁されているのだろうか。だとすれば、自分が救い出さなければ。
縦に巻いた長い黒髪をなびかせて、階段を駆け下りる。
そうして、一階へと続く踊り場で、意中の人との再会を果たした。
「ナノカちゃん!」
勢いのままに名を呼んで、それから急に恥ずかしくなる。
身をよじり、頬を染めた。
「あの……、お、お久しぶりね」
緊張で、少しだけ声が震えた。ナノカは目を見開いて、すぐに小亜羅に飛びついた。
「こあらちゃん! 久しぶりだね! ねえ、あたしたち、同じクラスなんだって! また一緒にいられるね!」
笑顔全開だ。小亜羅は思わず胸を押さえる。
動悸、息切れ。鼻出血までしそうだ。
「……三ッ山財閥の令嬢が、この野蛮な転校生とお知り合いなんですか?」
一緒に階段をのぼってきたらしい男子生徒が、冷淡にいう。
小亜羅はまったく躊躇せず、男子生徒を睨みつけた。
同じクラスの羽島万太。成績優秀な生徒会長。家が貧乏らしく、学費と寮費を免除されている。その代わりといわんばかりに、学校での雑務をなんでもこなし、融通の利かない姿は「校長のイヌ」と囁かれる。
「近くてよ! もっと離れなさい!」
ぴしりといってやると、羽島万太は気分を害したようだった。眉をひそめ、ナノカから一歩分離れつつも、なにかいいたげだ。
「思っていることは、はっきりいったらどうかしら。男としてみっともないわ」
そこへさらにたたみかける。羽島万太の眉間の皺が深くなる。
「では、はっきりいうがね。もうホームルームも始まっているんだ。三ッ山さんは、どうしてここへ?」
しかし、こたえたのは担任の竹ノ内だった。白髪交じりのナイスガイと評判が高いが、小亜羅はそうは思わない。小亜羅にとっては、可もなく不可もなくといったところの、数学教師だ。
小亜羅はやっと、状況を思い出した。ナノカは竹ノ内と、ついでに羽島万太と、教室へ向かっているところだったのだ。感動のあまり飛びついてしまったが、あまり淑女らしい行動とはいえない。
「もうしわけありません、先生。わたくし、どうしても野中さんに早くお会いしたくて」
非を認め、素直に謝罪する。しかし、竹ノ内は怒っているという様子ではなかった。
「いや、まあ、それはいいんだが……」
「あたしとこあらちゃんは、幼稚園のころからすごく仲が良くて、引っ越しちゃってからもずっと手紙のやりとりをしてたんですよ。ねー!」
ナノカが小亜羅の両手をとり、「ねー!」のタイミングで身体全体を傾ける。
小亜羅は鼻を押さえた。
「もう、ナノカちゃんったら……!」
エキサイティングゲージ上昇中。その様子を胡散臭げに羽島万太が見ていたので、小亜羅は慌てて口の中で咳払いをした。取り乱してはいけない。
「つまり二人は、幼なじみということなのかな。では、聞くが……」
竹ノ内は、声をひそめた。
「野中さんのあの……超人さというのは、昔からなのか?」
一瞬、場の空気が冷えた。
羽島万太が、ふっと目線を外し、遠くを見る。トラウマにでもなったのだろうか。小亜羅にしてみれば、間近で見ることができて羨ましい限りなのだが。
「あたし、なんであんなことできたかわかんないんだよねー」
ナノカだけはお構いなしに、春の空気をまとっている。
では、覚えていないのだろうか──? 小亜羅は小首をかしげた。
おそらく、そうなのだろう。彼女が花ノ宮町にいたのは、五歳までだ。当時から天真爛漫を絵に描いたような少女だった。つまり、思慮深さとはどちらかというと無縁の。
覚えていないとしても、おかしくはない。
「ナノカちゃんは、ヒーローなんです」
教師に話しているというのに、野中さんと改まって呼ぶことも忘れ、小亜羅は熱を持った口調で断言した。
「幼いころ、わたくしは引っ込み思案で、よく男の子たちにからかわれていました。でもいつだって、ナノカちゃんがわたくしを助けてくれました。わたくしだけじゃなくて、この町で困っている人がいたら、いつだって飛び出していって、だれだって助けちゃう、そんな女の子でした」
そうだったっけと、脳天気にナノカがハテナマークを飛ばしている。小亜羅は、そうよとうなずいて、光の宿った強い瞳で、竹ノ内を見た。
「ナノカちゃんは、ヒーローだもの。超人的なのは、あたりまえです!」
断言した。
「いや……そういうことじゃ……そういうことか? いやいや……んん?」
竹ノ内が額を押さえる。
「というより、そもそも、ヒーローというのは女性に対して使わないでしょう」
メガネを上げながら、冷静に羽島万太がつっこむ。
「うるさくてよ、イヌ」
「イヌ!」
羽島万太がのけぞった。小亜羅はふふんと目を細める。彼のことは好きでも嫌いでもなかったが、今日最初にナノカと接触したという一点において、小亜羅のなかで一気に敵にランク付けされたのだ。
「説明しよう!」
突然、声が響き渡った。
それはまったく、あまりにも突然だった。小亜羅は周囲を見る。広くもない踊り場にいるのは、小亜羅とナノカ、竹ノ内と羽島万太の三人だけだ。
では上からか──見上げると、なかなか現れない転入生のことが気になったのか、2―Aの面々が集まってきていた。野中ナノカの超人さを目撃していた生徒も多いだろう、気になるのも当然だ。
しかし、彼らも声の主がだれなのかと視線を動かしている。
「下か!」
同じことを考えたのか、羽島万太が階段から身を乗り出す。
小亜羅も同じようにのぞき込み──
絶句した。
見知った顔が、白衣をはためかせ、拡声器を片手に、階段を駆け上ってきていた。
「お兄ちゃん?」
ナノカが驚いている。だがもっと派手に驚いても良いだろうと小亜羅は思う。
仕事は!
小亜羅は心中でつっこんだ。ナノカの家族事情はすべて把握している。野中ヒロシは花ノ宮大学に研究員として勤務しているはずだ。この時間にここにいていい人物ではない。
周囲の目など一切気にもとめず、野中ヒロシは踊り場へ到着すると、窓を開け放った。わざわざそこに左足を乗せ、右手を腰にあて、左手で拡声器を口にあてる。顔はぐるりとギャラリー目線。
「ナノカは幼きあの日、ナゾ仮面と契約をした。それにより、野中ナノカは、花ノ宮町にいる間だけ、超人的なパワーを発揮することが可能となった。この地を離れて十二年、もはやあの力は失われたかに思えたが、そうではなかった! つまりナノカは、花ノ宮町限定、美少女ヒーローだったのだ──!」
右手で白衣のポケットをまさぐり、小型音楽プレイヤーを取り出す。スイッチを入れた。
ジャジャジャジャ、ジャジャジャジャ、ジャンジャン、チャララー。
ヒーロー、ヒーロー、美少女ヒーロー!
美少女ヒーロー、ナ、ノ、カ!
テンションの高い曲が流れる。
本人が歌っているのは明らかだった。
「これが、変態……!」
羽島万太が未知との遭遇に息をのんでいる。
「いやあ、ナノカがこっちに住むっていうからさ、一応イロイロ用意してたんだ。無駄にならなくてよかったよ。ささ、ナノカ、コスチュームだぞー」
「お兄ちゃんったら、仕事はどうしたの! あたしのあとつけてたんしょ!」
ナノカは一応怒ってはいるようだったが、その程度では足りないのではないだろうかと小亜羅は思う。そして同時に、野中ヒロシの差し出したレースだらけのミニスカコスチュームについては、実の良い仕事だとも思う。
「お久しぶりです、お兄様」
小亜羅はスカートの両端を持ち上げて、丁寧に一礼した。この兄に対してなら、ある程度の耐性がある。十二年前よりよほどパワーアップしてはいるが、基本は変わっていない。つまり変態だという事実は揺らいでいない。
また、彼には感謝の念もあった。兄ヒロシが花ノ宮大学に勤務することが決まったからこそ、転勤を繰り返す親元を離れ、ナノカもこの町に住むことができるようになったのだ。
「やや、小亜羅ちゃんじゃないか! いやー、理想的に成長したなー、かわいいなー。いいぞ、美少女ヒーロー親友ポジション、しかもお金持ち、完璧だな!」
ビシッ、と親指を立てる。鼻息が荒い。小亜羅は少し目線を外した。わかっていても引く。
「ええと……つまり、野中さんの保護者の方ですね?」
竹ノ内が、冷静にいう。白い歯を見せて、ヒロシがうなずいた。
「もちろんですとも、先生!」
「詳しいお話は、また放課後に伺いますので、とりあえずここは……」
「おい、なんだあれ」
にわかに、上階がざわめいた。
すっかりギャラリーと化していた2―Aの生徒が、窓から空を見上げている。野中ヒロシが足をかけている方向とは、反対側──グラウンドの方だ。
「なになに?」
ナノカが階段を駆け上がる。羽島万太は、どうせくだらないことでしょうといわんばかりに、眉間に皺を寄せただけだ。
「おい、もうとっくにチャイムが鳴っているだろう。早く教室に……」
竹ノ内が担任としてごくあたりまえのことを口にする。しかし数人の生徒が、それを遮った。
「先生、空に城が……」
「あの城、なんですか?」
口々にそんなことをいう。返事を期待しているわけではないようだった。とにかく見たほうが早いとばかりに、空を指す。
「……城?」
羽島万太が、メガネを押さえた。
「城」
小亜羅も、つぶやく。
顔を合わせるようなことはしなかったが、二人は急いで階段を上った。クラスメイトたちの隙間から、空を見上げる。
「お城だ! しかもファンタジーなやつ!」
興奮した様子で、ナノカが叫んだ。
空には、いかにも中世を思わせるヨーロッパ調の城が、どんと浮かんでいた。