scene_13 「大好き」
小亜羅の両手から、風が繰り出される。
まるで意志を持っているかのように、真っ直ぐに。恐ろしいほどの風の音がその威力を物語っていたが、ナノカは身じろぎしなかった。
避ける気はなかった。
目を閉じることもない。
ただ正面から、受ける。
「────っ!」
衝撃に、一瞬だけ目を細めた。風の塊はナノカに襲いかかり、そのまま身体を攫う。自覚のないままに吹き飛ばされ、背中に衝撃が走る。石の壁に打ちつけられたのだ。ナノカは身体をくの字にして、それでも倒れない。
口のなかに、血の味が広がった。咳き込むと、鮮血が飛び出す。
拭って、ほんの一瞬もうろうとした意識を引き戻すために、急いで首を左右に振った。
これぐらいなら、耐えられる。
まだまだ、だいじょうぶだ。
「ナノカちゃんったら」
風をまとった小亜羅が、悲しそうな顔をしていた。
「避けたほうがいいと思うわ。ケガをしてしまうじゃない」
いつもどおりの、小亜羅だ。ごく心配そうに、そんなことをいってくる。
ナノカは、唇を噛んだ。
小亜羅が変わってしまったとは思わない。友だちでなくなってしまったとも思わない。
ただ、いまの彼女の行動の責任は、自分にあることを知っていた。
ナノカのせいだ。
「ごめんね」
小亜羅に会ったら最初にいおうと思っていた言葉だった。なにをいっているかわからないというように、小亜羅が不思議そうな顔をする。
「ごめんね?」
「うん。ごめんね。あたしのためでしょう、こあらちゃん。あたしがヒーローだから、あたしのために、悪将軍になってくれたんでしょう」
ナノカは、あたしのせい、といういいかたはしなかった。
あたしのため。
小亜羅の眉が、かすかに怒りの形に動く。
「そうよ、あたりまえだわ。ナノカちゃんのためよ。でもごめんねっていわれるのは、なんだかちがう気がするわ。ナノカちゃんのためだけど、わたしのためでもあるの。だってわたしは、ナノカちゃんが大好きなの。知ってるでしょう?」
音もなく、床に足をつける。
ゆっくりとナノカに歩み寄り、小亜羅は白い手を持ち上げた。
ナノカの頬に触れる。
ナノカは動かない。これは、小亜羅の手だ。動く理由がない。
「ナノカちゃんの、ぜんぶが好きなの。ぜんぶ見たいの。もっと見せて。泣いてもいいのよ。怒ってもいいのよ」
もう片方の手を、うしろに引く。
なにをされるのか、ナノカはわかった。けれど、それだけだった。ぐっと身体に力を込める。
「────っ」
悲鳴を押し殺した。
見た目からは想像できないほどの力で、小亜羅の細い腕は、ナノカのみぞおちを殴りつけていた。
遅れて、口から血がこぼれる。
「赤で彩られた姿も、本当に綺麗」
心から嬉しそうに、小亜羅がつぶやく。
ナノカの目に映る小亜羅の姿が、とうとう滲んだ。
涙が溢れてくる。
泣いてはいけないと思っていたのに、堪えられない。ぼろりと一粒が血の中に落ちて、ナノカは悔しさに顔を歪める。
「こあらちゃん、あたしこあらちゃんを助けたい。ねえ、新しいノート、一緒に買いに行こうよ。かわいいお店教えてよ。寄り道して、甘いもの食べて、たくさんおしゃべりしようよ」
言葉にしてしまえば余計に、涙が止まらなくなった。ここまでやったのだ。いってもむだだということはわかっていた。
小亜羅が喜びに頬を紅潮させる。なぜそんな顔をするのだろうと、ナノカの悲しさは増していく。
しかし本当は、わかっていた。
これではだめなのだ。
友だちなのだから。このままで、いいはずがない。
「……つくづく、馬鹿ですか、本当に!」
小亜羅の身体が、突然ナノカの視界から外れた。
倒れ、気を失っているとばかり思っていた万太が、小亜羅に体当たりしたのだ。ダメージにこそなっていないだろうが、小亜羅はよろめき、おそろしいほどの形相で万太を睨みつける。
「この……イヌ! なんの権利があって、邪魔をするの!」
「権利などなくても、邪魔はできますよ。そこの頭の回転の遅いヒーローに時間をあげるぐらい、僕にもできるでしょうからね。──ナノカさん」
なぜか、万太はすでに満身創痍だ。メガネが歪んでいる。ここにたどり着くまで万太のことをお構いなしに暴れてきたので、なぜかもなにもないのだが、ナノカは原因不明ということにしておく。
「いいですか、あとのことは、終わってから考えればいい。頭を使うことは僕にまかせて、あなたはあなたの心に正直に……──馬鹿は馬鹿なりに、猪突猛進してください。なんのために、ここに来たんですか」
「万太くん……」
ナノカは、うなずいた。
考えていなかったわけではない。結論は出ていた。やるべきことも、できることも、知っていた。
「説得できないなら、しようがないよね」
「説得?」
小亜羅が首をかしげる。説得された覚えなどないといいたげだ。ナノカはいわれたとおり、細かいことは考えないことにした。首を何度も振る。
ゆっくりと息を吸い込んで、倍の時間をかけて、吐きだしていく。
力がみなぎってきていた。
本当の意味で、ヒーローになる。
小亜羅を、助けるために。
「やっつけるよ、悪将軍! それでそれが終わったら、一緒に帰るの、こあらちゃんと!」
両の拳を握りしめ、構える。
相手がだれであろうと──愛する友人だからこそ、やらなくてはならない。
「だから、拳で、語り合おう!」
ナノカは床を蹴った。小亜羅が目を見開き、風の力で身を翻す。
「素敵──! そうよ、ナノカちゃん! 見たかったの、その姿、本当にかっこいいんだもの!」
「あーたたたたたたたっ!」
目にもとまらぬ速さで拳を繰り出していく。しかし風を味方につけている小亜羅には、当たらない。彼女には避けようという意識すらないように思われた。ほんの少しの挙動、しかしどうしても、当たらないのだ。
「これが、ラスボス……! なんか卑怯くさい!」
「あら、そうでなくてはいけないわ。ヒーローだから勝ってあたりまえというわけではないじゃない? それこそ卑怯だわ」
「むむーっ」
ナノカは歯噛みする。たしかにそのとおりだ。
あとは髪が金色になって逆立つしか勝ち目はないかもしれない──ちらりとそんなことを思うが、しかし考えるのはやめた。
とにかく、突き進む。
それしかない。
「実現させてやろうじゃないの、勝ってあたりまえ──!」
ナノカは小亜羅に背を向けた。壁に向かって突進する。途中、倒れ伏している花ノ宮高校の人々は器用に避けつつ──まれに踏みつつ──壁の直前で跳躍する。
「壁登りぃい!」
いってみて、やってみた。登れた。
「説明しよう! ナノカのヒーローとしての資質を持ってすれば、壁を登ることなど、お茶の子さいさいなのだ──!」
ものすごく遠いところで、ヒロシが解説しているが、あまり聞こえてこない。
「なんでもありですか!」
下のほうで、万太が正しいつっこみ。
「壁を登って、どうするの。わたしは空を飛べるのよ。忘れたの?」
「そういう問題じゃないんだよ!」
ナノカは叫んだ。
天井すれすれまでのぼりきって、両足を曲げる。自分の足には強力なバネが入っているのだと信じて疑わず、飛び上がる。
「上からのほうが、カッコイイでしょ! 縦、一文字切り──!」
手套を上から構えて、落下する。予想していたといわんばかりに小亜羅がひらりと身をかわすが、さすがのナノカもそれぐらい予想していた。
「──と見せかけて、横、一文字切りぃ!」
構えを垂直に変えて、鋭く切りつける。
小亜羅は遠い。悠然と避けている──かのようだった。
ナノカの手から、衝撃波が生まれていた。
まるでレーザービームのように、城の壁をえぐるようにして、ナノカの手が描いたとおりの軌跡を焼き尽くしていく。その軌道上にいた小亜羅も、さすがに避けることはできなかった。
「きゃあ────っ!」
ダイナミックに、直撃する。
小亜羅の身体が浮き上がり、落ちていく。まるでスローモーションのように。
「ちょ……ちょっとちょっと、それはちょっと……!」
万太が一昔前の芸人のような声をあげているが、ナノカは無視。ストンと着地してすぐに、もう一度飛び上がった。今度は斜め四十五度、のけぞる小亜羅に向かって飛びかかる。
「ブレストォ、ファイア────!」
胸を張り、ファイアーといいながら両手でタックル。まるで力の塊のようなナノカに押されるようにして、小亜羅は当然のようにそのまま吹っ飛ばされた。壁に激突し、石の壁に亀裂が走る。
「説明しよう!」
特等席で、ヒロシが声をあげていた。
「卑怯臭いのだ!」
「そんなことないもん!」
ナノカはとりあえず反論しておく。卑怯臭いなどと、そんなことはない。とんでもない濡れ衣だ。
小亜羅を助けたい。
助けるためならば、全力で、やっつける。
「猪突猛進……しろとはいいましたけども……!」
万太がうちひしがれている。しかしそれも気にせず、ナノカは力なく倒れてしまった小亜羅を見下ろした。
「うう……」
髪が乱れ、口からは血が垂れている。
ナノカはしっかりと、その姿を見た。
目を逸らしてはいけない。自分がやったのだから。
正しいと信じていることが、ひとを傷つけていいことにはならないのだから。
「こあらちゃん」
そっと、呼びかける。
ナノカは小亜羅に、戻ってとか、思い出してとか、そんなことをいうつもりはなかった。
それは、ただの押しつけだ。
「まだまだ、これからだよ」
引き続き、ファイティングポーズ。小亜羅はよろよろと身体を起こした。
「強い……!」
呻きながら、立ち上がる。
ナノカは少しほっとして、それから左手を腰に当てた。右手で親指を立てて、突き出す。
「うん。あたし、ヒーローだから!」
それ以上でも、以下でもなく。
この状況ならば、無敵だという気がしていた。
「でも……でもね、ナノカちゃん。わたし、あなたの弱点、知ってるわ。ここがどこだか、知っているでしょう?」
よろめきながらもナノカとの距離を広げつつ、小亜羅がそんなことをいう。
もちろんと、ナノカはすぐにうなずいた。
「空の、お城だよね」
「ちがうわ。花ノ宮高校の上空──だったのよ」
「やはり……!」
万太が声をあげた。その鬼気迫る様子に、ナノカは思わず万太を見る。歪んだメガネを押さえて、万太は小亜羅を睨みつけるように見ていた。
「城を移動させることが、できるんですね?」
「そう、さすがね、生徒会長」
小亜羅は余裕の笑顔を浮かべた。
移動といわれて、ナノカもはっとする。
「花ノ宮高校はね、花ノ宮町の端っこにあるの。ほんの少し移動するだけで、もう花ノ宮町から外れることになる。もうすぐ、花ノ宮町を出るわ。意味、わかるでしょう? 花ノ宮町限定ヒーロー、ナノカちゃん?」
ナノカは理解した。
それは、城へ来てすぐに、万太からいわれたことだった。
城を動かすことができるかもしれない──その場合、最終的には、そういう戦略で来るだろうと。
だから、驚かなかった。
「わかった」
すぐに、覚悟を決めた。
決めていたことだ。
もしナノカが全力を尽くしても、小亜羅が悪将軍のままならば──失った心を取り戻すことが、不可能なようならば。
「あたしね、こあらちゃん。いろんなこと考えたの。この町に戻ってこられるって決まったときから」
ナノカは、全身の力を抜いた。もう、気を張っている必要はなかった。
「なあに? 感動的な場面よね。ちゃんと聞いてあげるわ。なにを考えていたの?」
小亜羅が優しく、促してくれる。
「どんな学校かなとか、どんな制服かなとか……こあらちゃんと同じクラスになれるかな、どんなふうに一緒にいられるかな──絶対楽しいに決まってる、とか、いろいろ」
ナノカは自分の両手を見た。それからヒロシを見て、万太を見て、最後にもう一度、小亜羅を見た。
「自分がヒーローになれるってことも忘れてたし、こんな城が出てくるとも思わなかったし……こうやって戦うことになるなんて、もちろん、思わなかったよ。最初は、なんでこんなことになっちゃったんだろうって思ったけど──でも、楽しかった。たぶんなにもない普通の高校生活より、楽しかったよ」
「あら」
小亜羅が笑う。いつものように小首をかしげるようにして、上品に。
「ナノカちゃんったら、まるでお別れの言葉みたいだわ。それではさようなら、と続くのかしら」
「うん、そう」
ナノカはいった。
最終手段だ。そのつもりだった。
「ありがとう、こあらちゃん」
嘘のない満面の笑みで、心からの言葉を告げる。
「大好き」
「……?」
小亜羅に背を向けて、ナノカは走り出した。城は動いているのだという。もうすぐ、花ノ宮町を出るのだと。
まだ間に合うだろうか。考えている余裕はない。
拳に力を込めて、構えながら走る。速度を上げていく。石の壁に向かって、拳を引く。最初にこの部屋に来たときのように──今度は、城の外に向かって。
「ナノカちゃん!」
なにをするつもりかわかったのだろう。小亜羅が叫ぶ。
しかしもちろん、止まるつもりはなかった。
ナノカは壁を殴りつけた。拳が壁を突き破る。そのまま崩れ始める瓦礫に、身を投じる。
簡単なことだ。
結局、最初に思ったとおりだった。
ヒーローがいたから、悪将軍が生まれた。
ナノカが、小亜羅を悪将軍にしてしまった。
それなら、ヒーローが──ナノカが、いなくなればいい。
ナノカは、空にダイブした。