scene_11 「ヒーローになりたい」
小亜羅が泣いている。
幼い小亜羅が、声を殺して、泣いている。
泣かないでといっても、泣きやまなかった。
遊ぼうよといっても、だめだった。
小亜羅はいじめられていた。
家が金持ちだというだけで、持っているものがほかの子よりも高級だというだけで、毎日の送り迎えがリムジンだというだけで、いじめられていた。
子どもたちだけではない、その保護者たちからも、特別な目を向けられていた。
同じ場所に立つことを、許されていなかった。
どれほど悲しかったことだろう。
「あたし、こあらちゃんを助けたい!」
出会ったころ、ナノカはまだ三歳だった。それでも強く、そう願った。
兄といつも見るアニメや、特撮番組のヒーローのように。町の平和を守り、人々を笑顔にする、それと同じように。
「ヒーローみたいに、こあらちゃんを笑顔にするの!」
それが、一番最初だ。
それからナノカの夢は、ヒーローになった。
友だちになろうと、何度もアタックした。初めて小亜羅が笑ってくれた日、ナノカは四歳になっていた。
自らの力で叶えた夢は、いつしか形を変えていったけれど、決して消えることはなかった。
いまでも、同じだ。
ヒーローになりたい。
小亜羅を、助けたい。
*
「あたし、燃えてるよ」
ナノカは拳を握りしめ、つぶやいていた。隣では万太が腕を組んでうなっている。どうすればいいんだ、これは絶体絶命だと、ぶつぶつつぶやいているのがまる聞こえだ。
それでも気を遣っているのか、ずばりナノカにはいってこない。
とはいえ、さすがのナノカも、理解していた。
ヒーローとしての力を失ってしまった。
それは、事実だ。感覚としてわかった。もう自分には、あの力はない。
しかしそんなことは、いまのナノカにとって、ほとんど関係のないことだった。
「お城に行く」
力強く、決意を告げる。
格好良くいいきったのだが、大げさに驚いて、万太はまったく見当ちがいなことをいい出した。
「竹ノ内先生は……たしか妻子持ちで、大変な愛妻家、娘さんはそれはもうかわいらしく、将来はパパと結婚するのといわれたのだと、嬉しそうに話していました」
「……なにそれー」
とたんに気分が萎える。唇をとがらせ、反論した。
「ちがうでしょ、失恋すればいいってことじゃないんじゃないかな! あたしいま真剣なの、燃えてるの! お城に行くよ! 絶対に行く!」
「どうやって行くんですか!」
万太も気が焦っているのだろう、大声で切り返してくる。
しかしナノカは、それ以上に声を張り上げた。
「どうやってでも、行くんだよ!」
万太が黙る。ナノカは彼のメガネ──の奥の目を見つめて、ゆっくりといった。
「思い出したの、あたし、どうしてヒーローになりたかったのか。力はなくなっちゃったけど、心は取り戻したの。だからあたし、いま、ヒーローなんだよ」
「いや、いやいやいや」
万太が右手を突き出す。落ち着け、のポーズ。
ナノカは落ち着いていた。ナノカには、万太がなにをためらっているのかがわからなかった。
「だいじょうぶだよ。あたし、行けると思うな」
「行けないでしょう! いまここから飛び降りることもできなかったじゃないですか。いったいどうやって空にある城に……そもそも、ヒーローとしての力があったとしても、行けたかどうか」
「うーん」
なるほど。首を右に左にかたむけて、頭を悩ませる。
いわれてみれば、もっともだった。ヒーローだからといって空が飛べるわけではなかったし、ましてやいまはヒーローとしての力もない。
「なんでそういう現実的なこと、いうかなー」
「むしろ感謝していただきたいですね。もうちょっと、いまの状況を考えてください」
「むーん」
ほんの少し前までは、城にだってどこにだって行けるという気持ちだったのに、だんだんと「不可能」という言葉がのしかかってくる。
ナノカは急いで首を振った。
ちがう、そうではない。
それでは本当に、行けなくなってしまう。
「じゃあちゃんと、考える。そんで、現実見るよ」
ナノカは万太に向かって、親指を立てた。自信たっぷりに、深くうなずく。
「だから、行ってくる!」
まだ制服のままだったが、そんなことはお構いなしだ。ナノカは革靴に足をつっこみ、玄関から飛び出した。
「ち……ちょっと待ってください! 鍵! 電気と、ガスの元栓は……ああもうっ」
うしろから声が飛んでくる。もちろん、そんなことにかまっている場合でもない。
ナノカの目指す場所は、城だ。だがその前に、行くべきところがあった。
いまはもう、超人的な速さで走ることはできないが、それでもすぐにたどり着くだろう。幼いころから通い慣れた場所、それに昨日も行ったばかりだ。
「僕も行きます!」
随分遅れて、万太が追ってくる。ナノカはついてくるなというつもりもなく、また待ってやる気もなかった。景色の流れが、遅い。これが普通なのだと、認識する。
十分近く走っただろうか。ナノカはやっと、見慣れたその場所に、たどり着いた。
公園だ。
住宅街のなかに、ぽつんとひとつ。広くもない狭くもない、手頃なサイズだ。象の滑り台、シーソー、砂場、鉄棒……いまは、遊ぶ子どもの姿はない。
「こ、ここは……?」
肩で息をして、追いついてきた万太がいう。
「ナゾ仮面が出没する場所だよ」
「ナゾ仮面が?」
万太からそういわれると、どこかおかしいような気がする。正式にはなんという名前だっただろうか。昨日教わったばかりだ。少し考えて、思い出す。
息を吸い込んだ。
昨日のような大声は出ない。それでも、できるかぎりの声を、張り上げる。
「J・Jさん────!」
昨日とは比べものにならない、昨日があったぶんだけ余計に頼りない声だった。それでもナノカは、何度も、息を吸い込んだ。
「J・Jさーん! J・J──! ナゾ仮面──!」
腹の奥から、喉をからして、呼びかける。きっと聞こえるはずだ。遠くに出かけていないかぎり。
「J・J、というんですね。呼んで……どうするつもりですか」
ナノカのもくろみに気づいたのだろう。万太の声が怒気を帯びる。
ナノカはそれでも、やめるわけにはいかなかった。何度も何度も、呼び続ける。
「J・Jさん! 出ないと仮面をちょん切るぞ──!」
「ナノカさん、まさか……」
万太がナノカの肩をつかむ。ナノカは振り向いて、そして小さく声をあげた。
万太の向こう側、十二年前と、そして昨日と同じように黒い仮面をつけた燕尾服の男が、まるでずっとそこにいたような顔をして、紙袋を片手に立っていた。
「まったく、品のない呼び方を」
不快そうに、そんなことをいう。ナノカは思わず飛びつきたくなったが、間に万太がいるのでぐっと堪える。
そして、気づいた。J・Jの持っている紙袋。
「キムラだ!」
状況も忘れ、叫ぶ。彼が持っていたのは、ナノカ御用達、愛するレーズンバターサンドの洋菓子屋、キムラの紙袋だったのだ。
「まさか……レーズンバターサンド?」
昨日食べたばかりのあの味が、口のなかに広がる。食べたい。ああ食べたい。
「そう、君が教えてくれた十二年前から、ちょっとしたお気に入りでね。この界隈のものは制覇したが、ここが一番おいしい。別格だ」
「わかる、わかるよ! キムラのレーズンバターサンドは最高だよね! それ、ネットで注文できるんだよ。あたし引っ越しちゃってからも、よくお取り寄せしてたんだー」
「ほう、お取り寄せ」
「……ナノカさん」
しびれを切らしたように、万太が咳払いをする。そうだった、それどころじゃなかったと、ナノカは改めてJ・Jを見据えた。
相変わらず、胡散臭い。胡散臭さをわざわざ表現しているとしか思えない。
「そのかっこうで、キムラまでお買い物に……?」
「ナノカさん!」
しかし気になった。答えてくれないかなと待ってみるが、J・Jがそれについて返答する様子はない。
ナノカはあきらめることにする。もちろん、要件はそんなことではないのだ。
「今日は、お願いがあって呼んだの」
そう切り出すと、仮面の奥で、J・Jはおもしそうに目を細めた。
「ほう。せっかく心を取り戻したのに、また私と契約を?」
ずばりと、いい当てられた。
わかるの、と尋ねようかとも思ったが、やめた。このナゾ仮面を、自分の尺度で測ってはいけない。おそらく人間ですらない。
なんといわれようと、ナノカの決意は揺るがなかった。もう決めているのだ。
「いいとも、聞こうではないか。今度は、なにになりたいのかな、お嬢ちゃん?」
挑発的なものいいだ。しかしナノカは、ひるまなかった。
万太がなにかいいたげにこちらを見ているのがわかったが、目を合わせるわけにはいかない。目が合ってしまったら、きっと止められる。
深呼吸をする。
十二年前よりも大きな、たしかな気持ちで、その言葉を舌に乗せた。
「ヒーローになりたい」
J・Jがかすかに眉を上げた。万太は驚いている様子はない。それどころか、やっぱりなというような様子で息をつき、ナノカとJ・Jの間から一歩場所を空けた。もう好きにしろということなのだろうか。
「それは、願ってもないな。二度目の心は絶品だ。ただ……野中ナノカ、同じ願いを二度ともなると、今度はそう簡単に心は元に戻らない。もしかしたら一生、戻らないかもしれないが?」
一生──しかしその言葉も、ナノカの決意を変えることはなかった。
真偽の問題ではなかった。もしかしたらナノカの楽観性がそうさせたのかもしれない。どちらにしろそれは、いまのナノカにとって、それほど重要なことではない。
ナノカはきっぱりと、首を縦に振った。
「いいよ。いらない」
「ナノカさん! よく考えてください、もし一生戻らなかったら……」
「いいの」
万太に向かって、微笑む。根拠はまったくなかったが、それでも自信があった。
それは、いつかきっと。
いまではなくても、だいじょうぶだ。
「恋とかそういうのは、もっと大人になってからでいいの。あたし、いまはもっと大事なものがあるから。だからお願い、ナゾ仮面」
「J・Jだ」
「ええと、お願いします、J・Jさん」
ナノカは頭を下げた。ツインテールもいっしょに垂れ下がる。
「大人になってからって……だから一生かもしれないといま……」
万太が慌てたようになにかをいっているが、聞こえない。聞かない。聞いたところで、変わらない。
ナノカは頭を上げなかった。
イエスといってもらえるまでは、動けない。もう自分には、この方法しか思いつかないのだ。
「いいだろう」
いつかのように、静かに、J・Jがいった。
「え、いいの?」
勢いよく顔を上げる。J・Jは静かに笑んでいた。
「もちろん。これは取引だ。私としては美味な心がいただけるのだからね、断る理由はないんだよ」
ナノカの目が輝いていく。ヒーローになれるのだ。もう一度──今度こそ、本当の意味で。
「じゃあじゃあ、いますぐに……──」
お願い、といおうとしたのだが、万太はそれを遮った。
「待ってください」
メガネを光らせ、万太はナノカとJ・Jの間に割り込んでいた。静止させるように右手を突き出し、左手でメガネを押さえる。
「もう、邪魔しないでよー」
「邪魔はしません。ですが、順序というものがあります」
ぴしりとナノカを制して、万太はJ・Jを睨みつけた。
「そもそもあなたは、何者なんですか」
「またその質問か」
J・Jが肩をすくめる。昨日とまったく同じように、気取った調子で答えた。
「私は美しき闇商人だ。それ以上でも、以下でもない」
「あなたはなぜここに、いるんですか」
万太がたたみかけると、興味深そうに腕を組んだ。
「……ふむ。とある家に封印されていたが、十二年前に、解放されたのさ。ある目的でね」
さらりと答える。そんなことも答えてくれるのかと、ナノカは驚くとともに感心する。
「さあ、そこをどいてもらおうか。私はお嬢ちゃんと、取り引きがあるんだ」
しかし万太は、動かなかった。J・Jを見据える。
「条件があります」
有無をいわせぬ、強い口調だ。
まだなにかあるのかと、ナノカはいっそ呆れる。ナノカとしては一刻も早くヒーローになって、空へ行きたいのに。
それでももう、万太に対しては、一定以上の信頼感があった。彼のいうことならばまちがいないはずだと、黙って見守る。
J・Jは、顎を挙げ、万太を見下ろした。彼はこのやりとりを楽しんでいるようだった。
「条件とは?」
万太は目線を逸らさずに、対等な位置から、それを突きつける。
「悪将軍の失っている心がなんなのかを、教えてください。それともう一つ──僕たちをあの城まで、送っていただきたい」
「ほう」
J・Jの声質が、変わった。
怒り、ではない。商人としての血でもうずくのだろうか。まるで楽しくて仕方がない、というような声。
「見返りは?」
続けて、問う。
ナノカも、万太を見た。なにをいいだすのだろう。
J・Jは、商人だ。対価を要求してくるはずだ。
もしも万太が、自分の心を差し出すようなことがあったら──考えただけで、ぞっとした。ナノカは慌てて、手を挙げていた。
「ハイ! ええと……な、なにが欲しい?」
発言したわりには、ノープランだ。万太の冷たい目が突き刺さる。馬鹿ですかといっているのがわかる。
しかしJ・Jは、肩を揺らした。楽しそうに笑い出す。
「商人に向かって、そんなことをいうもんじゃない。本当に、まったく、おもしろいお嬢ちゃんだ。そうだね……なら、対価として、教えてもらおうかな」
ナノカと万太に、緊張が走る。反比例するように悠然と微笑んで、J・Jは問いを投げた。
「君がいった、『もっと大事なもの』というのは、なんなのかな?」
ナノカは目をまたたかせる。そんなことでいいのだろうか。
いまのナノカにとって、恋心よりも、大事なもの。
そんなものは、決まっていた。
ずっと守りたいと思っていたもの。そしておそらく、守ってあげられていなかったもの。
愛、こそ、正義。
幼いころからの信念は、そのままに。
「友だち!」
はっきりと、答える。
J・Jは、驚いたようだった。長い間を挟んで、それから静かに、笑う。
「なるほどね。もう気づいているだろうに、お友達か」
J・Jは肩を揺らした。おもしろがっているのはたしかなようだったが、かすかな優しさが滲んでいることに、ナノカは気づいた。
もしかしたら、それほど悪いひとではないのかもしれない。万太のいっていたことが、頭をよぎる。
あれはゴーストという生命体である以上避けられようのない性質だ──ナノカがゴーストの所行を悪さと表現したら、そう反論していた。もしかしたらJ・Jも、そういうことなのではないだろうか。
「気に入ったよ、野中ナノカ。行動は破天荒で想像がつかない、口を開けばまるで馬鹿なようだが、信念がある……十二年間変わらなかったというのは、貴重だ。そして極めつけが、レーズンバターサンド」
極めつけなんだ──! でもわかる!
ナノカは誇らしげに、Vサインをした。キムラ最高。
「そんなに気に入ったなら、もうひとつのおすすめ、教えてあげるよ。お城から、帰ってきたらね」
「いいだろう。私も君たちの結末には、興味がある」
J・Jの目が、光り出す。
「お友達を、後悔させてあげるといい──」
最後の言葉は、万太に向けていったようだった。万太がはっとして、弾かれたようにJ・Jを見る。ナノカにはいまいちなんのことだかわからない。
J・Jの白いグローブをつけた手が、ナノカの胸元に伸びていく。
「契約成立だ」
ナノカの胸から、いつか見たよりも大きく育った光が、浮かび上がる。J・Jがそれを口に入れると同時に、視界が光に覆われた。
「特別大サービスだよ」
光のなかで、声が響く。
「なになに……──っ?」
ナノカは思わず、万太の腕をつかんだ。万太はこの状況でも、メガネを押さえている。
足が、宙に浮いていた。見えない力に、押し上げられていく。最初はゆっくり、徐々に加速していき、とうとうジェットコースターなみのスピードで、突き上げられる。
叫ぶ間もないほどの、一瞬だった。
着地はひどく優しく、まるで壊れ物を扱うように──ナノカと万太の二人は、あっというまに城へとたどり着いていた。