scene_0 「魔法が使えるんだ」
燕尾服に黒い仮面。
見るからに怪しい男が、公園で一人遊ぶ少女に近づいていく。
「やあ、お嬢ちゃん。かわいいね」
少女は砂場に座り込んで、ファミリーレストランごっこをしている最中だった。お待たせしました、ハンバーグでございます。砂の塊を並べていく。
「お名前は、なんていうのかな」
少女は顔を上げた。男をじっと見つめ、はきはきと答える。
「あのね、おじちゃん。あたしとおじちゃんは、初めましてでしょ? ひとに名前を聞くときは、まず自分が名乗らないといけないんだよ」
目線を戻し、ハンバーグ作りを再開する。男は一瞬沈黙し、咳払いをした。
遠くを見て、目を細める。
「名、か……。そうだね。ではお兄さんのことは、美しき闇商人、J・Jと呼んでもらおうか」
さりげなく、お兄さんを強調した。少女は首をかしげる。
「うつくしきやみしょうにん、じぇいじぇい?」
大きな目を、何度もまたたかせた。
「うつくしいの?」
「……見てわかるだろう、お嬢ちゃん」
J・Jと名乗った仮面の男は、怒りを堪えるように、それでも甘い声を取り繕って、いう。
「とっても、美しいじゃないか」
「うつくしいって、キレイってことでしょ? おじちゃん、キレイじゃないじゃん。あ、でもその顔につけてるのは、ちょっとかっこいいね!」
少女は全力で正直だった。J・Jは少女に背を向けて、こめかみを押さえる。十数秒で復活すると、少女に向き直り、渾身の笑みを披露した。
「それで、お嬢ちゃん。お名前は?」
「あたしは、野中ナノカ。南花幼稚園真ん中組の五歳だよ。好きな食べ物はこしあんのおまんじゅうとレーズンバターサンドで、嫌いな食べ物は……」
「いや、いいよ、わかった」
少女、野中ナノカは唇をとがらせた。まだまだこれからだったのに。
J・Jは砂場の脇に膝をつき、ナノカの頭をそっと撫でる。
「お兄さんはね、魔法が使えるんだ。ナノカちゃん、君にはなりたいものがあるだろう。お兄さんの特別な魔法で、ナノカちゃんのなりたいものに、ならせてあげるよ」
「なりたいもの……!」
ナノカは、目を輝かせた。
なりたいものは、たくさんある。ファミリーレストランの綺麗な店員、優しい幼稚園の先生、おしゃれなママにだってなりたい。
しかしナノカは、なれるものとなれないものがあることを、知っていた。世の中にはフィクションがあるということを、理解している五歳児だった。
だからこそ、迷わなかった。
毎週日曜日の朝、兄と楽しみに見ているテレビアニメ。それに、兄がやっているゲームや、借りてくるDVDの世界。
本当の意味でなりたいものは、一つだけだ。
「あたし、この町の平和を守る、ヒーローになりたい!」
「いいだろう」
J・Jの黒い目が、仮面越しに光った。白いグローブをつけた手を、そっと差し伸べる。
「その代わり、心をひとつ、いただくよ」
その手が、ナノカの胸元をつかんだ。そこから薄暗い煙のようなものが生まれ、ナノカの小さな身体を浸食していく。じわりじわりと、まるで心臓そのものをえぐり出そうとするように。
やがて、ナノカの胸から、小さな光が飛び出した。それは輝きながら浮遊し、自らJ・Jの口の中に飛び込んでいく。
ごくりと音をたてて、J・Jは光を呑み込んだ。
「ああ、美味だ」
目を細め、満足そうに唇の両端を上げる。
ナノカは悲鳴をあげそうになったが、痛みはなかった。おそるおそる胸を押さえ、シャツをまくりあげて直に確認する。傷があるわけでもない。
「いまの、なに? なにをしたの?」
顔を上げ、ナノカは動きを止めた。
砂場の向こう、象の形の滑り台。シーソーと鉄棒。そこから先はもう道路で、住宅街が続く。
振り返ると、ベンチ。それだけだ。
たったいままでいたはずの男が、姿を消していた。
「……あれ?」
そんなはずはなかった。それとも、幻を見ていたのだろうか。遊んでいたつもりが、いつのまにか眠ってしまって、夢を見ていたのだろうか。
ナノカの名を呼んで、道の向こうから、兄が駆けてくる。手に提げているビニル袋には、兄とナノカ、二人分のあんまんが入っているはずだった。
ひとりで待っていたのはほんの少し、五分にも満たない間だ。
「──とても良い取り引きだったよ、野中ナノカ」
声だけが降りてきて、しかしそれもすぐに、風にかき消された。