君がいない夏(2)
大学二年生の夏休みなんて、遊ぶためにあるようなもんだ。
同級生が海だ花火だ祭りだと滑り込みセーフで手に入れたカノジョたちと遊び呆ける中、俺の夏休みといえば、最悪だ。
スタートは悪くなかった。テストが終わった直後は明けコンと称した飲み会がいくつかあったし、大学の友人と海にも行ったし、それほど寂しい日を過ごしたわけではない。
ただ、お盆に入ると県外組はそろって帰省。後半になってからはバイトが一人辞めたせいでクソ店長に鬼のようなシフトを組まれていた。「どうせヒマなんだろう?」と鼻を鳴らした川岸が恨めしい。
というわけで、暑さもうだる八月後半、貴重な大学二年生の夏休みの真っ直中に、俺はバイト先「ムーン&リバー」でせっせとアイスコーヒーを運んでいた。
あれほど閑古鳥の鳴いていた店内も、夏休みに入ってからは「忙しい」と言えるほどに客足が増えている。良いことだ。良いことだが、もう少しバイトの人数を増やしてくれ。
狭い店なので基本的にバイトは二人で回るが、これが九連勤になると文句の一つも言いたくなる。
そのくせ今日は店長の川岸は欠勤だった。おい。
一番客の多い魔のおやつタイムを過ぎて店内が落ち着いてきたころ、階段を上ってくる足音が一つ。
扉の開く音に、手に持っていた伝票から顔を上げる。長い髪を下ろした、オフモードの彰子さんがいた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。いつ来ても、君はいるのね」
感心しているのか呆れているのか、なんとも言えない顔をして彰子さんは呟く。たぶん、バイトばかりしている可哀想な奴だと思われているに違いない。
彰子さんは時々こうやって客として店に来てくれる。どうやらここのアイスコーヒーが気に入ったらしい。
「俺だって、せっかくの夏休みがこれでいいのかと思ってはいるんですけどね」
「あれから『あきちゃん』には会えたの?」
いつものカウンター席に腰掛けながら、彰子さんはさらりとその名を口にする。
「彰子さん、お願いだからそんなにあっさり地雷踏まないで」
「あら、ごめんなさい」
お詫びのつもりだろうか、コーヒーをケーキ付きで注文した彰子さんは静かに笑った。夏休み前にプロポーズをされて結婚式の日取りも決めたばかりの彼女は、会うたびに綺麗になっていく。
あきちゃんのことが好きな俺でさえ、うっかりすると見惚れてしまうほどに。
「夏休み中はずっといないらしくて」
「どこに行ってるの?」
「それもわからないんですけど……」
我ながら情けない答えだ。好きな女の子のことを、俺は一つも知らない。
「ぼやぼやしてたらほかの男にとられちゃうわよ」
彰子さんは容赦なく地雷源に踏み込んでくる。これだから気の強い年上女は苦手なんだって。
「あきちゃんはそんな子じゃありません。佐々倉先生に失恋したばっかだし」
「あら、失恋したばかりだからこそ、よ。弱ってる時に優しくされたら、そんなつもりなくったってうれしいし、好意だって持っちゃうかもしれないわ」
そうですよね。ってあっさり論破。ダメだ。口では勝てる気がしねぇ。
でもそれでいくと、あの日失恋したあきちゃんをその直後に慰めたのは俺だ。泣いてるあきちゃんの細い肩を抱きしめて――は無理だったので、肩に手を添えただけ。
「でも、あきちゃんは佐々倉先生のことすごい好きでしたよ」
ささやかな反撃を試みる。
だけど、彰子さんはレアチーズケーキをパクリと一口食べてから、にっこり笑った。
「そりゃあイイ男だもの。しょうがないわよ」
幸せの絶頂にいる彼女には隙などどこにもなかった。
むしろ、そのノロケにダメージを受けたのは俺のほう。
「幸せそうで何よりです」
「ありがとう。吏一君も、頑張ってね」
何をどう頑張ればいいんだろうか。
彰子さんは、きっと頑張ったんだ。
逆プロポーズをして佐々倉先生をその気にさせた。
あきちゃんも頑張ったけど、彰子さんの頑張りのほうが上だったのかもしれない。
俺は、頑張ればなんとかなると思えるほど楽観的な性格をしていない。だけど彰子さんが言うと、不思議と嫌な感じはしなかった。
「頑張ります」
「何を?」
「え?」
まさかそこを聞かれるとは思わなくて驚いた俺に、彰子さんはいたずらっぽく笑って、
「側に居てあげてね。本当に困ってる時に……助けてほしい時に側に居てくれる男は絶対に特別な存在になるから」
彰子さんの言葉は力強い。たぶん、彼女自身の実感がこもっているからだ。詳しいことは聞かなかったけど、彰子さんの特別な存在になった男が誰のことかは、言わなくてもわかるよな。
コーヒーを飲み終えた彰子さんは、またね、と店を後にする。手を振って見送った後、思わずため息が漏れた。
店にかかるカレンダーの、八月の残り日数を数える。あきちゃんの夏休みが終わるまで、あと十日余り。
八月が終わったら、すぐに会いに行こう。決めた。そんで、デートに誘う。
密かに決意して、カウンターテーブルに残った皿とグラスを片づけていると、先ほど閉まったばかりの扉が再び音を立てた。
「やあ、働いてる?」
暢気に顔を覗かせたのは川岸で。その童顔は笑うとますます幼く見える。しかしこんなんでも店長だ。
「てめぇが働かせてんだろ」
「正解」
ふざけた調子で答える川岸は、暑そうに額の汗をぬぐいながらカウンター席に腰掛けた。さっきまで彰子さんが座っていたイスだ。
「吏一、コーヒー一杯」
「は? 客面する気かよ」
面倒くさいけどこんな使えない店長の注文にもちゃんと応えてやる俺はやさしいと思う。
コーヒーを準備する手を動かしながら、川岸の顔を見る。手をパタパタとうちわ代わりに動かす男は、喉元を晒して暑さと戦っている。
「その傷、どうしたんだ?」
顎の下辺りから顔の輪郭に沿って右へと数センチ、絆創膏が見えて、尋ねてみた。
「ああこれ? 彼女に、ちょっと」
絆創膏に手を触れながら、川岸が殴りたくなるような答えを返す。川岸にでさえ彼女がいるなんて。
「今日もよろしくしてたってわけかよ」
「童貞の嫉妬は見苦しいな」
「童貞じゃねえっ」
声をひそめながら反論した俺の目の前に、川岸はいきなり一枚のコースターを取り出して見せる。
「なんだこれ」
「今日は仕事だったんだよ。本店でこれの打ち合わせ。明日からこのコースター使うから」
「ふーん」
そんなのは別にどうでもいい。だけど何かが引っかかって、俺はそのコースターを受け取って見てみる。
鮮やかなスカイブルーの空に浮かぶ雲。丸い円を縁取るように金に近いオレンジ色の文字が描いてある。
――Are you a wizard ?
これと同じものをどこかで見た。わりと最近の話だ。どこだったっけ。
「コーヒーまだ?」
俺の思考をさえぎるようにして、川岸が催促する。
コースターをひとまず脇に置いて、カップソーサーを川岸の目の前へ。白い湯気が揺れるホットコーヒーを見て、川岸は心底嫌そうな顔をした。