君がいない夏(1)
大変、お姉ちゃんが帰ってきちゃった!逃げるようにして家を出たあきちゃんが、月並小学校で過ごすひと夏の物語。未だ失恋から立ち直れないあきちゃんに、新しい恋!? 一方、冴えない夏休みを過ごす吏一は……。
一体、何から話せばいいんだろう。
あまりにもたくさんのことがありすぎたんだ。
長くて短い夏休みに私が向き合っていたのは、先生が出したたくさんの課題と、魔法使いに関わるちょっとした問題。
それから、ある人との出会い。
早くおジイに聞いてほしくて、喫茶「またたび」に向かう足取りを急がせる。ああもう! セーラー服を着ていれば、もっと早く走れるのに。
緩いハーフパンツに、体の線が分かりにくい大きめのTシャツ。上からロングのパーカーベストを着てスニーカーで駆ける今の私は、ただの男の子だ。
もちろん、私がセーラー服を着ていない理由は「まだ学校が始まっていないから」じゃない。そんなの最初から、私にとっては関係ないってこと、説明するまでもないよね。
走りながら、思い出す。
この夏の間に、私と、私の周りの魔法使いたちに起きた物語を。
少しだけ長くなるけど、順番に話してもいいかな。
そう、お姉ちゃんが、家に帰ってきたところからだ。
八月に入ったら、私は毎年恒例のアルバイトに行くつもりだった。アルバイトって言っても、ただのお手伝いなんだけどね。
だから七月のうちに課題をなるべく終わらせておきたくて、英語のノートを開いた瞬間――つまり、佐々倉先生の恋人であり婚約者である三島女史を思い出してブルーの底に沈みかけた時だ。
「ただいまー」
聞き覚えのある声が、私の部屋の外、長い廊下を伝わって玄関から聞こえてくる。
すぐに分かった。
お姉ちゃんだ。
なんで? 帰ってくるの早すぎない? いつも八月に入ってからじゃないの?
「あら、綾。もう帰ったの?」
「授業、もうゼミだけだから。発表が終わったから戻ってきちゃった」
お母さんへの説明で事情は分かったけど、分かったところで私の状況は何も好転していない。
お姉ちゃんの声に聞き耳を立てながら革靴を手に掴む。
足音が徐々に近づいてくる。隣の部屋の前で止まり、扉を開く音がした。隣は、お姉ちゃんの部屋。
ほとんど準備を済ませていたリュックの中身を最終確認。足りない分は悪いけど後でお母さんに持ってきてもらおう。
英語のノートを閉じて勉強道具一式と一緒にリュックに詰め込む。窓を開けた。白く眩むような強い日差しが目を焼く。
帽子、
「ちょっと彰彦!?」
ダメだ、諦めよう。
ヒステリックな呼び声を合図に、私は飛ぶ。セーラー服のスカートをふわりと広がらせて。二階の部屋の窓から。
着地、成功。そのまま庭を駆け抜ける。背後でお姉ちゃんの高い声が聞こえた気がしたけれど、かまうもんか。
荷物の重さだって気にならない。セーラー服を着た私は、どこまでだって走れるんだから。
あ、しまった。お気に入りのリップを机の上に忘れてきちゃったよ。お姉ちゃんに見つからないといいな。
それだけを願って、私は逃げたんだ。
「あ! あきちゃんだー!」
私よりもずっと小さな影が、太陽の下を全力で駆けてくる。両手を広げて。元気いっぱいの声でその愛称を呼ばれると、お姉ちゃんから逃げてきた緊張感とか罪悪感とかが少しだけとける。
そのまま抱きついてくるのかと思って待っていたら、目の前で急停止した少年は、あろうことか私のスカートに手をかけて、
「えいっ」
「きゃあああ!? 直登、君!?」
慌てて押さえたけれど、遅かった。やばい。今のは絶対見えた。やだ、恥ずかしすぎる!
だって、トランクスなんだよ!?
だけど直登君はけらけら笑ってた。いたずら成功に満足して。
直登君にとってはスカートの中身なんかどうでもよかったみたい。スカートめくりっていう行為そのものが、きっと楽しいんだ。
「もう! こーら! 去年はこんなことしなかったのに」
拳を握ってパンチの真似をすると、直登君はさらに嬉しそうな顔をして走って逃げていく。
追いかけようと踏み出した足を、優しく止める声があった。
「あきちゃん?」
振り向いた私は、みすずさんと、もう一人、麦藁帽子をかぶった女の子を見つける。直登君よりも背の高い、線の細い女の子。
隣のみすずさんは、少しだけ不思議そうな顔をして私を見ていた。私が、ここにいるから。
「こんにちは……あの、ごめんなさい。少し、早いんですけど」
本当なら、ここには八月から来るはずだったのだ。
荷物を持つ手に力を込めて、みすずさんの顔を見る。血色の良い、まん丸顔の笑い皺が深くなる。
「あら、大丈夫よ。あきちゃんが居てくれた方が助かるわぁ。さ、暑いからお入りなさいな」
そう言って、みすずさんは私を校舎に招き入れてくれた。
木造の、古くて小さな小学校校舎。
『月並小学校』
校舎の入り口にある木の板には、今はもう使われなくなって久しい学校名が、色褪せたまま残されている。
「あきちゃん、走ってきたの? 汗かいてるわ」
みすずさんに言われて初めて、私は額や首筋がベタベタすることに気づいた。
セーラー服を着ている間は全然、疲れなんて感じないんだけど、こういうのはどうしようもない。
「着替えてくるね」
セーラー服が汗くさくなるのはイヤだし。
リュックを持ったまま近くの教室を借りて着替えることにする。
小さな机が並ぶ教室。古い黒板。木の教卓。
どれも懐かしい。
私が通った小学校は、ここじゃない。電車通り沿いの隣町との境に、比較的新しい校舎の小学校がもう一つある。
この月並小学校は、私が小学生の頃にはもうとっくに廃校になっていた。だけど、夏休みになると私は毎年ここに来る。私だけじゃない。魔法使いの子供たちが。昔は、お姉ちゃんも一緒に来てたんだよ。
さっさと着替えてしまおうと、リボンをほどいて裾を首元までたくしあげる。同じタイミングで、立て付けの悪い扉が、きしむ音とともに開かれた。
ヒッと変な声が出る。
「あ、悪い」
すぐに扉は閉められたけれど、一瞬だけ見えたのは大人の男の人で。
「び、びっくりしたぁ……」
心臓がドキドキゆってる。
別に、見られて困るわけじゃないんだけど。女の子じゃないんだから……ううん、変な目では見られるだろうから、困ると言えば困るのかな。
ゆっくりと息を吐く。頭の中が冷えていく。
変な目で見られるのは、イヤだ。
幸いにも私の周りの大人たちはわりと理解をしてくれていて、おジイもみすずさんも、またたびのマスターも、私を変な目では見ない。
お父さんとお母さんは見て見ぬフリをする。理解はしてないと思うけど、それはそれでありがたいからいいんだ。
やっと心臓が落ち着いてきて、着替えを終えた私は教室の外に出る。
さっきの男の人は誰だったんだろう。
みすずさんと直登君、麦わら帽子の女の子の三人はとなりの教室にいた。
「みすずさん、誰か来てたの? 男の人」
「え、ええ。あきちゃんも会ったの?」
「会ったというか、見たというか……」
見られたというか……。
「大丈夫よ。きっともう、来ないわ」
私はそんなに不安そうな顔をしていたのかな。
みすずさんが、そんな風に言う。だけどその顔はちょっとだけ寂しそうだった。
「さ、今から直登君と美佳ちゃんに魔法使いの話をするんだけどあきちゃんも聞く?」
「聞きたい!」
みすずさんが話を意図的に変えたのは分かった。分かったけど、わざわざ追求する気はない。
魔法使いの話も聞きたいしね。
夏休みにここに来るたび、何度も聞いた話。月並町の魔法使いの物語。
直登君と私、それから、美佳ちゃんが机を並べて座った。
教壇に立つみすずさんは、先生みたいにみんなの顔を見回して、にっこり笑う。みすずさんは昔、本当に先生だったんだよ。だから今だって、授業はお手のもの。
「はい、授業を始めましょうかね。今日はね、音楽に愛された魔法使いのお話よ」
「私、その話知らない」
「それじゃちょうどいいわね。月並町にはみんなが思っているよりたくさんの魔法使いがいるのよ」
みすずさんやおジイはとっても顔が広い。だから私も何人かの魔法使いの話を聞いたことがあったんだけど、そんなのはほんの一部の話みたい。
そういえば、吏一君のことも全然知らなかったもんね。
「せんせーい、はやく話してよー」
待ちきれなくなった直登君が先を急かす。
「舞台は魔法使いの町、月並町。時は、今から何十年も前ね。私はまだ学生だった。同級生にとても綺麗な女の子がいたの。だけど、その子は生まれつき話すことができなかった。手話って分かるかしら」
コクリ、と首を縦に振る。となりの美佳ちゃんと直登君も神妙な顔で頷いた。
「私と彼女のやりとりはいつも、手話か筆談だった。仲良しだったわ。彼女は博識でね、いろんなことを教えてくれたの。それに、歌がとても上手だった」
「さっきしゃべれないって言ったじゃん!」
直登君が大きな声を上げる。
「そうね。それは本当。でも、彼女は歌えたの。マイクを通すと……」
「あっ! マイクが、魔法の道具なの?」
「あきちゃん、正解」
「そんくらいおれだってわかったもん!」
拗ねてしまったとなりの直登君に、ごめんねと小さく舌を出す。
「月並町の魔法使いは、みんな魔法の道具を持ってるものね。私たちはきっと、魔法使いというよりも道具使いなの。相性の良い道具を使って、少しだけ、ほかの人にはできないことができてしまう。超能力者って言う人もいるけど……」
みすずさんはそこで、少し苦笑いをして見せる。
「どうして私たちが『魔法使い』なのか、わかるかしら?」
「えーと、んーと……」
直登君が一生懸命考えているから、私は答えを黙っておく。知ってるんだけどね。
「……おじいちゃんが、言ったから?」
遠慮がちな細い声は、私のとなりから。美佳ちゃんの声だった。初めて聞いた。
「なんでさきに言っちゃうんだよ! おれだってわかってたのにー」
再び出番を奪われた直登君が口を尖らせる。
「直登君が答える番もあるから大丈夫。ね? 美佳ちゃんの言ったとおり、魔法使いって呼ぶことに決めた人がいたの。それまではみんな、好き勝手に呼んでたわ。超能力者や超人、奇跡の人、神様だなんて言い出す人もいたけど、大半の月並町の人たちはそんなに大層なものじゃなくて、ただ、少し不思議な力があるだけだと思ってたのね」
みすずさんはそこで一度、言葉を切った。
私の力は、おジイや吏一君の力に比べたらきっと、周りの人に気づかれにくい。だって、運動神経が良いとか体が疲れないとか、運動が得意な人や体力がある人にとっては当たり前のことなんだ。
もしかしたら、セーラー服を着た私はオリンピック選手よりも速く走れるかもしれない(試したことはないけど)。
だけど光よりも速く走れるわけじゃない。
ただ、人を少しだけ追い越したところにいるだけ。
確かに、超能力者や超人って言うとカッコ良すぎて引け目を感じちゃうし、奇跡な人だなんて大袈裟だ。神様なんて言われた日には勘弁してって言いたくなっちゃう。
私は魔法使い。たった一つだけ、魔法が使える魔法使い。魔法の杖を振る代わりに、セーラー服を着るの。
「ねぇみすずさん、おジイってもしかして偉い人なの?」
私は聞いてみた。宮司の家と同じで、おジイの家もかなりの旧家だけど、私は実はおジイのことをあまり知らない。でも、おジイが「魔法使い」って言い出したらみんなもそれに従ってことは、きっと、相当偉い人なんだろうなぁって。
そこまで口に出して説明しなくても、みすずさんには私の聞きたかったことの意味が分かったみたい。
「偉い、のもあるんでしょうけど、あの人の家がちょうど、みんなのお世話をする当番の年だったから、町中に伝えやすかったのもあるんでしょうね」
「でもやっぱり変なのー。まほーつかいはほうきにのって空とんだり、杖ふってじゅもん言うんだぜ。そんでわるいヤツをやっつけるんだ!」
直登君が語るのは、物語の中の魔法使いのイメージ。
うん、そうなんだよね。
私も、魔法使いって言ったらやっぱり、猫やコウモリなんかの使い魔を連れて、黒いローブを身につけて、魔法の呪文を唱えれば、病気を治したり変身したり、人を殺すこともできたり、そういうイメージなんだ。
「そうねぇ……でも実は、いたのよ。あの頃、とっても名物になっていた魔法使いがいたの。魔法の杖を持った、おばあさんが」
「杖?」
「そう、本当に魔法使いが持つような杖。おばあさんはね、その杖で月並町の宝を見つけだしたのよ。まるでおとぎ話の中の魔女みたいに、杖を振ってね。あの人がいなかったら、魔法使いっていう呼び方は定着しなかったかもしれないわ」
「おたから!?」
直登君は急に目を輝かせてそわそわし始める。
「そう、お宝。なんだかわかるかしら? ヒントはこれ」
みすず先生は後ろを向いて、黒板に赤いチョークでマークを一つ描いた。
「あー! はいはいはい! おれ知ってる!」
「はい、直登君」
「おんせん! 月並温泉だっ」
「正解。よくできました」
やっと答えを言えた直登君がとてもうれしそうに胸を張る。
おめでとう、と笑った私は、本当にちゃんと笑えてたかな。
先生が、いつも向けてくれるような優しい笑顔で。
まさか、赤いチョークを見ただけでこんなに悲しい気持ちになるなんて思わなかった。
みすず先生の授業が終わって、私は一人で校舎を抜け出した。学校にいるのがちょっとだけつらい。黒板を見るだけで、廊下を歩くだけで、教科書を見るだけで先生のことを思い出してしまう。
夏休みに入ってから折角、忘れかけてたのにな。
月並町を囲む山の一角にある月並小学校。校舎の裏手に続く森の奥へ、分け入っていく。
森の奥に流れている川へと、涼しさを求めて歩いた。セーラー服を着てないからサンダルを履いた足はすぐに疲れるし、ハーフパンツから出た素足は草が当たって痛いし、息もすぐに上がって、ああもう最悪だ。
長い前髪だけは分けてピンで留めていたけど、額に浮いた汗が頬を伝って落ちてくる。
辿り着くまで思ったより時間がかかった。川の傍は、水があるおかげか空気が澄んでいて、穏やかな流れの縁に腰掛け、迷わずサンダルを脱ぐ。
「つめた……」
ゆっくり、ひんやりとした水に足を浸ける。木陰に吹く風も汗を乾かしてくれる。
暑さにほてった体が徐々に落ち着いていくのと同時に、だんだん頭も冷えてきて、思い出すのは先生のこと。
折角、学校から出てきたのにダメだった。一人になったら、余計に思い出しちゃう。
先生の顔、声、チョークを持つ手、後ろ姿、少しだけ群青色に見える目。
想っても、しょうがないってわかってるのにな。
想像の中で笑う先生の隣に、三島先生の姿が勝手に浮かんでくる。振られたときは自分が振られたっていうことだけでいっぱいいっぱいで、三島先生のこと、あんまり気にならなかったのに。
今さら、悲しい。
私がただ先生を見てることしかできなかった間に、二人は、付き合ってたんだ。
こういう気分、なんていうか知ってるよ。
「……みじめ」
口に出したら余計に。
しかもしかも! あの時たぶん、三島先生は知ってた。私が告白しようとしてたこと、わかってて、私と先生を二人きりにしてくれたんだ。
敵に塩を送られるってこういうことなのかしら。
悲しいのか悔しいのか、よくわかんない。たぶん両方。
どうせ誰もいないから、頬を伝った涙もそのままで。うつむいて瞬きしたら、川の水の中に静かに落ちて混じり合う。
後から後から、こぼれ落ちてくる。
もう、こんな思い全部流れ出してしまえばいいのに。持ち続けておくのも、拾い集めるのも、しんどいや。
蝉の鳴き声がうるさいから、安心して嗚咽を漏らす。家だと声を上げて泣くことはできなかったから。
蝉の声と私の泣き声と、川を流れる水音、風が揺らす木々の葉音。
不意に混じる、カシャッ――機械音。
私はびっくりして、声も、涙も止まっちゃった。今日は驚いてばっかり。
音のしたほうを見ると、いつの間にきたんだろう。男の子が一人立っていた。カメラを構えて。
「邪魔してごめん。でも、君を撮ったわけじゃないから安心して」
重たそうな一眼レフカメラに隠れていた顔を見せて、人懐っこく笑う。見たことない顔だった。同い年か、少し上くらいかな。
私はまだ心臓が縮こまったままで、上手く答えることができない。
「気にせず続きをどうぞ。泣いてていいよ」
カメラ少年は悪びれもせずにそんなことを言うもんだから、さすがの私もカチンときてしまう。
気にせずって……。
「泣けるわけない」
「ああ、そう? じゃあ、お詫びに胸を貸そうか」
思わず抗議した私に向かって、少年はさらりと提案して両手を広げる。
ええっ? って、なるでしょう。だって、意味が分かんない。
呆れて返す言葉が見つからない。
それなのに、
「顔、真っ赤」
少年はにやっと人の悪い笑みを浮かべた。からかわれたんだ。
「んなっ……これはっ暑いんだよ!」
腹が立ったので、川に浸けていた足を思いっきり蹴り上げて水しぶきを上げてやる。セーラー服を着ていない私の蹴りなんて大したことなかったんだけど。
「わっ……それは反則だろ。カメラが壊れる。折角いい泣き顔が撮れたのに」
「え? やっぱり撮って……!?」
そんなのって恥ずかしすぎる!
文句を言おうとした私の言葉を遮って、彼は笑う。
「冗談だよ。先生のこと、好きなの? 失恋でもした?」
またからかわれた。だけどそのことよりも、核心を突く質問が続けざまに飛んできたほうが大問題だ。
「なんで知って――!?」
「口から出てた。先生、先生、って」
うわあああ恥ずかしい! もう嫌だ。穴を掘って埋まってしまいたい。
初対面の人に泣き顔を見られて、失恋さえもあっさりバレて、今日は厄日に違いない。そうに決まってる。
思わず覆った目元が、まだ熱い。だけど、涙はもうすっかり渇いていた。さっきまで、二度と止まらないんじゃないかってくらい溢れてたのに。
「良かったら、話してみる?」
「へ!? なんで?」
となりの岩に腰掛けながら、彼は気安く提案する。
「話したら楽になることもあるじゃん」
「でも、初対面なのに……」
はじめましての挨拶代わりにそんなデリケートな話をできるほど、私の神経は図太くないのだ。
知り合い相手でも、話をしたのはおジイ一人だけだっていうのに。しかも、おジイは根ほり葉ほり聞いたりしないから、失恋したっていう結果報告しか伝えていない。
おジイは黙って私の頭を皺くちゃの手で撫でてくれた。そのときも涙腺がやばかったんだけど、「またたび」にはほかにもお客さんが居たから、ぐっと堪えたんだよ。
だから、私がほかに話をできる相手がいるとしたら――吏一君。
普通にしてるときはキリっとかっこいい顔が、私の頭の中で優しく笑う。
いつだって、吏一君は優しかった。会ったばかりの私の恋に、嫌な顔一つせずに協力してくれて。
結局、吏一君にはあれっきり会わないまま、ここに来ちゃったな。
学校の友達はもちろん、私が先生を好きだったことなんて知らないし――むしろ隠してきたことだ。言えるわけがない。
「初対面のほうが話しやすいことだってあるよ」
私の心の中を見透かすようなタイミングで、目の前の少年が語りかける。妙に落ち着いた声で。
「そう、なのかな……」
そうなのかもしれない。私の場合は、特に。
彰彦を知っている相手には、話せない。あきちゃんを知っている人でなければ。
隣の少年を見る。思いのほか近い距離で、黒目がちな両眼とかち合う。
私が迷っていることも、わかったみたい。
「今、話せないってことはさ、まだ消化しきれてないんだよ。話しながら整理する方法もあるんだけど、まだそこまでいってないだけ」
「話せるようになる?」
「なるよ。今は悲しくて辛いばっかりでも、ちゃんと気持ちの整理がつく日が必ずくるよ」
「いつ?」
「それはさ、人によって違うからなんとも言えないけど。君の場合は――ね、名前、何ていうの?」
「あ……」
尋ねられて初めて、不安になった。
どうしよう。
今の私は、セーラー服を着ていない。
少しだけしてたメイクだってきっと、涙で落ちてしまった。
今の自分は、果たして女なのか男なのか。
相手には一体どう見えているのか。
どうしよう。
わからない。
「……あ、きって、呼ばれる」
「アキ?」
うつむき加減で告げた名前は、相手の耳にちゃんと届いたみたい。男でも女でも大丈夫な愛称で良かった。
「そ、そっちは?」
「じゃあ、俺はコウ」
「……コウ、君」
じゃあって何よ。と思ったけど、黙っておく。私の名前につっこまれても困るしね。
相変わらずの蝉の大合唱に混じって、それほど遠くない場所からチャイムの音が聞こえてくる。古い拡声器みたいな割れた素朴な音。月並小学校のチャイムだ。普段は使われてないんだけど、みすずさんがいる間だけは鳴るようにしてあるんだって。
それを合図にするみたいに、コウ君が立ち上がる。背、思ったより高いな。私が座ってるんだから見上げるのは当たり前なんだけど、全体的に細いせいかな。縦にひょろ長い。着る人を選びそうな派手なチェックの細身のパンツは、不思議とよく似合ってた。
「八月中は時々この辺で写真撮ってるから」
私の顔をのぞき込んでくるコウ君の口元が一瞬だけにやっと笑みの形を作る。目の前で、声には出さずに口だけが動いて。
――また会いたいな、アキちゃん。
たぶん、そう言ったんだと思う。私の勘違いじゃなければ。
コウ君は身を翻して、私が来た道とは反対方向へと足を向けた。一度だけ、振り返ってカメラを構える。みっともない顔を慌てて隠そうとしたけど遅かった。シャッター音一つ。
「今度会う時には、失恋話ができるようになってるといいね」
「もう!」
木立の中に消えていく後ろ姿に怒鳴ってみたけど、本当はそんなに怒ってなかった。
だって、コウ君と話してる間は、先生のことも苦しい気持ちも泣くことも忘れてたんだ。
「よし!」
少しだけ気持ちが上向いたのは、きっとコウ君のおかげ。不思議ね。初対面なのに、なんだかずっと前から知ってる友人みたい。
立ち上がって伸びをしたら、ちょうど、木々の間から月並小学校の屋根が見えた。
帰ろう。
水に浸けていた足を大きく振って、水気を飛ばす。サンダルを履き直して、一歩を踏み出したところで気づいた。
そういえばコウ君、私のことアキちゃんって呼んでたな。
セーラー服を着てなくても、女の子に見えるんだ。
うれしい、のかな。
またわからなくなりそうだったから、今はとりあえず考えるのを放棄した。