セーラー服を脱がさないで(6)
相変わらず客のいないカフェバー「ムーン&リバー」のカウンターの内側で、コップをひたすら綺麗に磨くだけの単純作業に飽きてきた頃だった。
彼女が、やって来たのは。
「見つけた。新沼吏一君」
聞き覚えのある声で名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。入り口に立つ女が、きりっとした強い目で、俺を真っ直ぐに見つめていた。
え、なんで。
驚く俺を余所に、彼女は強めの口調で続ける。
「吏一君は、魔法使いでしょう?」
閑古鳥の鳴いている店で良かったと心底思った。タイミングの良いことに、川岸も買い出しに出かけている。
「そんな突然、意味不明なこと言われても……どうしたんですか、彰子さん」
あきちゃんの失恋相手である佐々倉先生の婚約者――あの日、あきちゃんに告白の機会を与えてくれた女教師。その凛とした面差しを見返して名前を呼んだ。
すでに少々気圧され気味なのは仕方がない。だって、年上の女はいつだってしたたかで、恐ろしい。
「心配しなくてもいいわよ。私も月並町の人間だもの。魔法使いのことは知ってるわ。佐々倉もそうだとは全然知らなかったけど」
彰子さんは何の躊躇いもなく「魔法使い」という言葉を使う。そうか、彼女も。
俺は眼鏡を掛けるべきか迷った。が、すぐにそんな必要はないことに気づく。学校に行った時と、先生の部屋に行った時。もう二度も、俺は彼女を眼鏡のレンズ越しに見ているんだから。魔法使いだったなら、その時に気付いているはずだ。
「彰子さんの『家』は、そういう『家』なんですか?」
ここで言う家は、普通の家とは大分ニュアンスが違う。月並町の旧家の中には、いくつか魔法使いを排出しやすい家柄というやつがあるらしい。
「うちは分家だから、最近は少ないけどね。今生きている中だと祖母と兄くらいだし」
げ。あのスキンヘッドも魔法使いなのか。
「ちなみにどんな……?」
「それは秘密。あまり言うなって言われてるから」
さすがは魔法使いの家だ。その辺りの教育はしっかりしている。
「ねぇ、座ってもいいかしら」
俺の目の前のカウンター席を示す彰子さんの申し出など断れるはずがない。注文までされてしまってはなおさらだ。
大事なお客様にアイスカフェオレをお出しし、店の中で二人っきり、改めて相対する。
「内緒話をするには良い店ね」
「客がいないってはっきり言ってくれていいんですよ」
改めて店内を見渡しても、彰子さんの視界の中に入るのはバイトの俺一人だけ。
「こんなお店あるの、知らなかったな。いつできたの?」
「五月くらいに……って、そういえばなんで俺の名前とこの場所!」
そうだ。魔法使いを知っていたことはともかく、彼女と俺のつながりなど佐々倉先生とあきちゃんを通したものでしかなくて。
「吏一君。昔、結構悪いことしてたでしょ」
ピシリ、指摘する声に容赦がないのは彼女が教師だからだろう。どうしてそれを、と尋ねる前に彼女は教えてくれる。
「あの時、兄と一緒にいた、兄の腰巾着みたいな子がね。ちょっと小柄の。浅井君って言って、やっぱり昔ヤンチャしてた子で……彼が君のこと知ってたの」
「浅井? 浅井……リョウさん?」
ぽんと頭の隅に浮かんだのは、それなりに世話になっていた兄貴分の顔で。
なんてこった。世間は狭いと言うけれど、月並町の中はもっと狭い。
「浅井君に君を探してもらったのはね、一言お礼を言いたくて」
椅子に座った彰子さんが顔をしっかりと上げて俺を見つめる。あれ、座っただけなのにな。視線の高さが明らかに違うからだろうか。威圧感がなくなっている。女ってのは本当によく分からない。
「佐々倉の悩みは解決したみたいだし、プロポーズもしてもらえたし……兄貴はもう少し時間がかかりそうだけど」
「あれって、いわゆるシスコン……?」
「正しく、そうよ」
彰子さんは心底面倒くさそうに答えた。ため息が重い。
妹の婚約者を脅すような兄貴だ。これまでの彰子さんの苦労と、これから先の佐々倉先生の受難は眼鏡をかけなくとも想像できる。
「頑張ってください」
「ええ。本当に、色々とありがとう」
礼を言うとすっきりしたのか、彼女はようやくストローに口を付けた。
べつに、礼を言われるようなことはしていない。俺はただジイさんとあきちゃんに頼まれただけで、最終的にはあきちゃんの失恋の手伝いをしただけだ。
彰子さんのカフェオレが見る見るうちに減っていく。その勢いが、不意に止まった。
「ん、でもあなた、佐々倉の後輩っていうのは嘘だったんでしょう? どうして助けてくれたの?」
「あーそれはですね」
話せば長くなる。さて、どこからどこまで話すべきだろう。嘘は得意ではないし、ついてもバレそうな気がする。
結局、あきちゃんが大好きな先生の挙動がおかしいのを心配していて、俺は彼女に惚れていたから協力した、という、大分端折ってはいるが嘘偽りのない事実を話した。
彰子さんは特に疑うわけでもなく聞いてくれていたが、残り少なくなったカフェオレをずずっと吸って、首を傾げる。
「変ねぇ。あの、あきちゃんって子、やっぱり私一度も見たことがないのよ。しかも佐々倉のクラスの生徒でしょう? 私も英語の担当持ってるから顔を見たら絶対に分かるはずなのに」
「え……?」
「フルネームは?」
「……知らない」
そうだ。俺はあきちゃんのことを何も知らない。最初に名前を聞いた時、彼女は「あきちゃん」としか名乗らなかった。学校で彰子さんに見つかったときも彼女は、一目散に逃げる道を選んだ。
それはつまり、本当は、あの学校の生徒ではなかったから? 調べられたらバレてしまうと分かっていたから?
だけど、あきちゃんはいつもあの学校のセーラー服を着ていた。だから俺は、あきちゃんが先生の生徒だということを全く疑わなくて。
ぐるぐると思考する。頭を使うのは苦手なんだ。
考えたって答えが出てくるとも思えなくて、困った時のスマートフォンを取り出した。あきちゃんの番号……それすらも知らないなんて、鈍くさすぎるだろう俺。
「そうだ、ジイさんだ」
時刻はまだ四時を回ったばかり。今ならジイさんはまたたびにいる。あのデスクトップパソコンの前に。案の定、スカイプでコールするとすぐに応答した。
『なんじゃらほい』
俺の焦りを知ってか知らずか、ジイさんの脳天気な声が聞こえてくる。
「ジイさん、あきちゃんそこにいるか?」
『おらんよ。夏休み中はずっと親戚の家でバイトしとる』
「マジかよ。どこで? つか、あきちゃんの連絡先教えてくれ!」
『吏一……あまりがっつくと嫌われるぞ』
「放っとけ! だってあの子、何者だよ。名前は? 本当の学校は? 魔法だって、今まで見たことない力だったぜ」
彼女の背負った、眩むような強烈な青。それはそのまま、彼女の魔法の強さを表している。ああ、そうか。あきちゃんの色が強すぎて、あの時、彰子の兄の魔法はちっとも見えなかったのか。
まぁそんなこと、今はどうでもいい。
彼女は一体、何者なんだ。
『あきちゃんは、魔法使いじゃよ』
「だからっ」
『あの子は、魔法使いでいる間が、セーラー服を着ている間だけが、唯一本当の自分で居られる時間なんじゃよ。お前にそれを邪魔する権利があるか?』
「なんだよ、それ」
『大丈夫じゃ。時が来ればあきちゃんはきちんと話してくれるじゃろう。そういう子じゃよ、あの子は』
カランカラン、と氷をかき混ぜる音がした。彰子さんが訝しげにこちらを見ている。
「ジイさん、俺から聞いたらあきちゃんは困るかな」
『そうじゃな……くれぐれも早まったことをするんじゃないぞ、吏一。何事もタイミングが大事じゃ。特に恋愛事はな』
「んなもんジイさんに言われなくても分かってんだよ!」
スカイプの通話を終了する。
カフェオレを飲み終えた彰子さんが、くすくすと笑っていた。
結局、俺が主役に躍り出る物語はもう少し先の話になりそうだ。
魔法使いあきちゃん。彼女が何者であっても、俺が彼女に惚れてる事実は変わらない。
俺は待つよ。ジイさんの言うタイミングとやらが来る瞬間を。
できればなるべく早くその時が来ればいい。
彼女がセーラー服を脱ぎ捨てて、魔法使いじゃなくなったとしても、大丈夫だと思える日が、早く来ればいい。
俺とあきちゃんの話は、今回はこれで本当に終わりだ。
魔法使いの話はまだまだ続くんだが、俺は魔法使いである前に勤勉な大学生で、高校生が夏休みに突入した今、前期のテストが間近に迫っている。
正直、魔法使いのごたごたに首を突っ込んでいる暇がない。
そう、ごたごただ。
佐々倉先生みたいに持っていても何の役にも立ちそうにない魔法もあれば、存在そのものが犯罪になりそうな、とんでもない魔法を使える奴もいる。
俺はまだ気づいていない。
俺がテストに苦しんでいる間に、それは少しずつ始まっていた。
やがて巻き込まれていく、月並町の魔法使いを巡る物語。
だけどそれはもう少し後の、目と鼻の先の、また、別の話だ。
月並町シリーズの第一話「セーラー服を脱がさないで」は一応ここで終わりです。
ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
次の話にいつ入れるのか分かりませんが、少し充電期間を置いて、あきちゃんや吏一はもちろん、ほかの魔法使いたちのことも書いていけたらいいなぁと思ってます。
ジャンルに分ければ現代ファンタジーなんでしょうけど、どっちかというと、描きたい部分は今回で言えばあきちゃんの恋愛と吏一の片思いがメインで、不思議な力を持っていることは実はそんなに重要じゃないのかな、という気がします。
いや、登場人物にとっては大変なことなんでしょうけど。
たまたま魔法が使えた。ただそれだけのことで。根本的には普通の人と何にも変わらないのよ、と。セーラー服着たりし
てますけど。
ま、のんびりやっていきます。
では、また次の物語でお会いできたら幸い。