セーラー服を脱がさないで(5)
初めて好きになった人は、近所に住むお兄ちゃんだった。毎日好き好きって言ってたんだけど、お兄ちゃんは引っ越していなくなっちゃった。
小学校の時に好きになった子にはバレンタインにチョコを渡したけど、何も言えなかった。
中学生。メアドを交換できただけで嬉しかった。他愛のないメールのやりとりで精一杯。
生まれて初めてだよ。
本当の告白は。
「佐々倉先生」
先生を呼ぶ。
「はい」
真っ直ぐに私を見て、返事をしてくれる。
急に、怖くなった。
もう、私の気持ちなんて、全部バレてるのにね。結末まで全部、決まってるのにね。
でも怖いんだよ。何が怖いのかうまく説明できないけど、でもたぶん、それは私だからだ。ほかの女の子なら、きっとこんな気持ちにはならない。私が、魔法使いじゃなかったら、きっと。
「先生は、たぶん、私の事なんか知らないと思います」
だから最初に、予防線を引く。
さっき、先生は私の事を自分の生徒だと言ってくれた。見知らぬ私の事を。
逃げ道を用意したらちょっとだけ、冷静になれたんだと思う。覚悟が決まったから。
そのとき、初めて気づいたんだ。
いつの間にか、雨が降り出している。
良かった。これなら、泣いてもバレないや。
「私は、先生のこと……ずっと、ずっと見てました。遅くまで授業の準備してる事も知ってるし、ホームルームでちゃんと一人一人の顔を見て話してくれる事も知ってます。入学式前から、クラスメート全員の名前と顔を覚えてくれてることも……。先生が、ちゃんと見てくれてること、私は知っています。私は、そういう先生が、大好きなんです」
声が震える。
鼻の奥がちょっとだけ、つんとする。
先生。
顔を上げればすぐそこにある先生の目。少しだけ群青色をした、大好きな先生の目が私を見てくれている。今だけは、私のことだけを。それなのに、私はその目をまともに見ることができなくて、代わりに、先生の唇を見ていた。そこから紡がれるだろう言葉に怯えながら。
雨に濡れて寒そうな青い唇は少しだけ震えていた。だけど、私の言葉を聞くうちに、少しずつ赤みを取り戻していって。
あ、ちゃんと伝わったんだなって分かった。私の気持ち。
「ありがとう。うれしいよ」
困ってしまうんじゃないかな。そう思ったのに、先生はこれでもかってくらい笑顔で、応えてくれて――もう、十分です。
でも、ごめん。って、後に続く言葉を私はちゃんと知っているから。
「先生、これからも、私の先生でいてください」
顔を上げることなんて、もうできなかった。
嘘だよ。本当は、私だけの先生になってほしい。
「もちろん。俺はずっと、ずっとみんなの先生でいるよ」
先生の声はやさしくて、とろけてしまいそうで、だけど、私だけの先生じゃないんだなぁ。
そう思ったら、今さらみたいに悲しくなって。
とっくに知ってたのに。最初から、失恋するって決まってたのに。いつの間にか、気持ちを伝えるだけじゃ満足できなくなってたんだ。
これ以上悲しくなる前に、私は先生に頭を下げて、吏一君のところに逃げるようにして走った。どん、ってぶつかるようにして足を止めた私を吏一君はちゃんと受け止めてくれて。
「もういいの?」
やさしい吏一君の言葉に頷いた。
その後のことは、よく覚えていない。
たぶん、吏一くんが送ってくれたんだろうけど。泣きじゃくってる私はとても面倒くさかっただろうな。
今度、ごめんとありがとうを言わないと。
家に帰って濡れたセーラー服を脱ぐと、どっと疲れが押し押せてきた。
家族と顔を合わせるのが嫌で、シャワーも浴びずにベッドに潜り込む。
寝る直前に、三島先生のことを思い出した。
三島彰子。隣のクラスの担任で、英語の先生。
不思議なことに、三島先生を羨ましいとか憎いとかは一切思えなかった。そもそも私は、三島先生と戦ってさえいないのだ。
戦おうと思えば、できたのかな。違う。争える位置にすらいない。
そっか、佐々倉先生と三島先生は結婚するんだな。
それは遠い遠い世界の出来事のようで、私のなかに上手く収まってくれない。収まりきれなかった分は目尻から溢れて涙になる。泣いて、泣いて、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまった。
翌朝の私の顔は酷いことになっていた。
それでも私は、今日も制服を着て学校に行かないといけない。
泣きはらした目を長い前髪で隠すようにして、うつむいて、できるだけ人に顔を見られないようにして。
当たり前だけど、先生は何も変わっていなかった。殴られた頬は少しだけ腫れていたけど、出席を取る声はいつもどおり優しい。私の名前を呼ぶときも。
返事をする私の声は、震えてはいなかっただろうか。
「宮司」
ホームルームが終わって、先生が私を呼んだ。心臓が飛び出るかと思った。な、なんで?
「大丈夫か? 声枯れてたけど、風邪か?」
あ、いつもの先生だ。
やさしくて、生徒のことちゃんと見てて、目立たない私のことだって、ちゃんと。
泣いたからだ、なんて言えるはずもなくて、私は頷いてそういうことにする。
「昨日雨だったからな、外で濡れたか?」
先生だって、濡れたじゃない。
「しんどくなったら保健室行けよ?」
「……はい」
私のかすれた声を、先生はちゃんと拾ってくれる。
先生、やっぱり好きです。
この笑顔が、私だけに向けられるものじゃないと知っていても。
少しくらい、私の事を考えてくれましたか?
一瞬でも、三島先生の事を忘れてしまうくらい。
「せんせーい、女子着替えますよー。クラスマッチ始まっちゃう」
「あ、そうか。悪い。宮司も出よう。女子に怒られるぞ」
先生の笑顔を独り占めする暇もなく、私は体操服の入った袋を掴んで廊下に飛び出した。
隣のクラスに移動して、体操服に着替えるためにシャツと学ランのズボンを脱ぐ。
真っ白い体には筋肉なんかなくて、そこらの女の子よりよっぽど細くて、だからみんな気づかない。
セーラー服を着た私が、男だってことには。
「彰彦。先生に何言われてたんだ?」
「風邪ひいてんのかって……」
「ひいてんの?」
「ひいてるって言ったらクラスマッチ休めるかな。サッカー嫌い」
「おいおい、人数ギリギリなんだから出ろよ。そりゃ彰彦の運動オンチはひでーけど」
否定はしない。彼らの言うとおり、クラスメートの前で私はただの鈍くさい男子高校生。
その実、セーラー服を着たときだけ最強になれる魔法使いだなんて、誰が思う?
そんなことは知らなくていい。魔法使いは、自分の力を隠しておくものだ。
セーラー服を着て体育に出てもいいなら、いくらでもシュートを決めるんだけど。
そんな台詞を飲み込んで、体操服に袖を通した。
私の恋の物語は、これでおしまい。
上手くいかないことは最初から分かってた。たまたま、先生の書いた名前の「彰」って文字が私の名前と一緒だったから、たったそれだけのことに、ほんの少し夢を見ていたんだ。
私が本当に「あきちゃん」だったら良かったのかな。
それでも先生にはもう、別の「彰ちゃん」が居たから、結果は一緒だったのかもしれない。
先生はあれから、黒板に名前を書かなくなった。正確には、赤チョークを使わなくなった。
赤チョークをどうしても使わなきゃいけない時でも、自分の魔法の力に振り回されることがなくなった。コントロールは、自覚することである程度できるようになる。
吏一君のおかげだね。
そうそう、吏一君にはまだ、私が本当は男の子だってこと言ってないんだ。
言わなきゃいけないかな、やっぱり。
吏一君は、怒るかな。軽蔑するかな。
拒否されるのは怖いし、失恋したばかりの私には、ちょっとだけしんどい。
告白したことを後悔はしてないよ。
吏一君の言うとおりだった。
告白して良かった、とはまだ思えないけど、いつかは――例えば次に私の物語が始まる頃には、そんな風に思えるようになってたら、いいな。
だから、あともう少しだけ、お願い。セーラー服を脱がさないで、「魔法使いのあきちゃん」で居させてほしいの。