君には言えない(6)
俺が綾に初めて会ったのは、大学に入学してすぐの頃、暇つぶしで参加したテニスサークルの新歓コンパだった。
三年生だった綾は当時そのテニスサークルの部長のことが好きだったらしく、隅っこの席から時折、特定の男に視線を投げかけながら、そのくせ話しかけられると動揺して赤くなる顔を酒のせいにしている姿がいじらしくて、妙に俺の記憶の中に残っていたから、次の週に授業で顔を合わせた時にはすぐに思い出した。
話しかけたのはたぶん、下心とかそんなんじゃない。ぱっちり二重に小顔でショートボブで華奢で身長も女の子にしては高めのすらりとした立ち姿で、確かに全体的に好みではあったけど、あのときはまだ、つき合いたいなどと考えていたわけではなかった。メアドを交換してデートに誘ったころにはあわよくば、とは思っていたけれど。
つき合ってくれ、と言ったのは俺からだ。考えてみると俺はいつも、自分から好きにならないとダメなタイプだった。
だから、バイト先の常連客にこっそりメアドを聞かれて、なんとなく親密になって、客足の途切れた店内で不意に
「新沼さんのこと、好きなんです」
そんな告白を受けても、心が動くことは残念ながらあまりない。
かわいいとは思うよ。でも、つき合っていくうちに好きになるとも思えない。だから返事はノーだ。
「吏一くーん、またふったのかい? 困るぜ、大事な常連客を減らしてもらっちゃあなー」
気まずい思いで客の会計を済ませた俺に、川岸がニヤニヤと笑いながら面倒くさい絡み方をしてくる。
「うるせー」
「おお怖ぇーな、元ヤンは。女の子の前じゃうまく隠してモテてるんだからいいよなー」
「騙してるみたいな言い方すんなよ」
昔のことは事実なので否定はしない。だけど、別に隠しているわけではない。言わないだけで。
「狙ってないからタチがわりーよ。お前、女の子の好きそうなところのちょうど真ん中いってんだよな。バランスがいいっつーか、顔はそこそこいいけど近寄りがたいほど美形ってわけじゃねぇし、客との距離感わかってっから必要以上になれなれしくしないところが真面目っぽく見えるし、かといって別に頭ガチガチに堅いわけでもねぇだろ? どうせちょっといいなーって思った子はつまみ食いくらいはしてんだろーし。 あーあ、本当は女子高生好きな変態だってことバラしてやりてぇよ」
「つまみ食いなんかしてねぇし、変態でもねぇ!」
否定すべきところを否定しながら、俺はあきちゃんのことを思い出していた。
あきちゃんは、俺のことをどう思ってるんだろう。泣いているところを慰めたことがある辺り、なれなれしいとは思われているかもしれない。顔は、佐々倉先生のような穏やかなぼんやりした系統がタイプなら、俺の顔は好みではないのかもしれない。
正直、あきちゃんはかなり俺の好みだ。
顔が小さくて目がぱっちり印象的で背は女の子にしては高めでスレンダーで髪の毛はショートカット。思い出しながら、ほとんどの特徴が綾にも当てはまることに気づいて、どうしようもなく呪いたくなった。
綾とあきちゃんは、似ている。姉妹なのだから当たり前だ。
だからって……出会った偶然もすげーけど、好きにならなくてもいいじゃないか。
思わず目を覆いたくなって持ち上げた指先に、眼鏡のフレームが当たる。かけ慣れていないと、つい忘れがちだ。
「さっき奥のテーブルの客、眼鏡も似合うってキャーキャー言ってたぞ。最近ずっと眼鏡なのはそういう層狙いなわけ?」
「ちげーよ。コンタクト買う金ねーんだ。バイト代早くくれよ」
再び茶々を入れる川岸に、言い返した俺の言葉は嘘ではない。コンタクトレンズが切れたから眼科に行きたいのだが、金と時間の関係で先伸ばしになっているのだ。
いつもだったら裸眼で乗りきってしまうところだが、今は魔法が使えないので、眼鏡をかけていられるというだけで。
「ふうん、眼鏡かけても平気なんだ?」
「え? そりゃコンタクトのが楽だけど」
妙にこちらをじろじろと見てくる川岸が気持ち悪い。何だよ、と眉を顰めると、へらっと笑って
「いや、別にー。俺も、吏一は眼鏡のほうが似合うなーと思って」
「気持ちわりーこと言うなよ」
女性客に言われるならともかく、川岸に言われても嬉しくともなんともなかった。
「まさか吏一も魔法使いだったなんてね。世間って狭い」
目の前の元彼女であきちゃんの姉でもある綾は、テーブルに肘をついてしみじみと呟く。
「月並町が狭いんだろ」
思わず反論した俺に、綾はちょっと眉を吊り上げて見せる。
「いや俺もまさか二人が昔付き合ってたなんて思ってもみなかったよ」
多聞がとりなすように会話に入り込んできた。妙にわざとらしく聞こえるのがまた腹が立つ。きっと面白がっているのだ。多聞は、俺があきちゃんのことを好きだと知っている。まさかそんなことまで綾に喋ってないだろうな、と一瞬心配になった。
「そんなに昔でもないけどね……」
「どうして別れたの? 浮気でもした?」
俺を指差してあらぬ疑いをかける糸目の男を睨みつけて、
「してねぇ! つか、んなこたどうでもいいんだよ」
俺達をわざわざ引き合わせた目的は別にあったはずだ。
「ああ、そうだった。今日は綾の魔法がなくなった時のことを教えてもらおうと思って。吏一も、経験者の話を聞いておくといい。魔法が使えなくなった者同士で共有できるものもあるはずだからね」
椅子屋は今日の会合の意図をそんな風に説明する。何か、回りくどいというか、建前くさいというか、嘘は言っていなくても、どこかに本音を隠しているように感じられるのは俺の気のせいだろうか。普段から胡散臭いせいで、何を言っても真実に聞こえないだけかもしれない。多聞の細い目からは何も読みとれなかった。
「魔法がなくなった時のことって言ってもなー……もう四年くらい前の話だよ?」
綾は多聞の嘘くささは気にならないのか、記憶を探るように天井に目を向ける。そんな仕草がますますあきちゃんと似ていて、つい視線をそらした。
「大学入って一人暮らし始めてから、初めて実家に帰った時だったかなぁ。たぶん吏一と付き合い始める直前くらい。クリーニングしてクローゼットに仕舞ってたはずのセーラー服がないことに気づいて、おかしいなって。お母さんに聞いても知らないって言うし、まさかだけど、あきひ……あきの部屋にあるのかもって思って部屋を開けたら、ちょうどあいつが私のセーラー服を着てたの」
思い出話をする綾の眉間にきつく皺が寄る。その頃のあきちゃんはまだ小学生。姉のセーラー服をこっそり着てみるなんて、微笑ましいじゃないか。
「綾の魔法がなくなったのはその時?」
「たぶんね。お母さんが魔法をとられたのは知ってたから、あとで思いだして着てみたら、全然力とか出なくて、走ってもすぐ息が切れるし、すぐわかったわ。私の魔法はあいつにとられたんだって」
「なるほど。で、綾ちゃんはどう思った? 魔法がなくなって」
多聞がテーブルの上に肘をついて、興味深げに尋ねる。答えを悩む沈黙の間に、綾はちらりと俺のほうを見た。
「どうって……魔法そのものはね、別に、もういらなかったから。だって、私は元々身体が弱かったでしょう? 吏一は知らないだろうけど、小学校も中学もあんまり行けなかったし、行事なんか一回も参加したことなかった」
悲しい記憶を淡々と話す潔さは彼女らしい。確かに、小さいころは身体が弱かったと何かの折に聞いたことはあったが、冗談だろうと思っていた。まさかそれほど深刻だったとは思わなかったのだ。大学で出会った彼女は、健康そのものだったから。
「高校に入ってからなの。セーラー服を着たら、元気に学校に行けるようになったの。セーラー服を着てる時はびっくりするくらい早く走れたし、風邪なんか一回も引かなかった。卒業してセーラー服を着なくなったらどうなるんだろうってそれだけが不安だったけど、いつの間にか、普通の人と変わらないくらい身体も丈夫になってた。だから――」
綾は言葉を探すように視線を宙に投げる。
「その時は結構ムカついてて、あいつのことも物凄い怒ったんだけど、よく考えたらもう魔法なくても大丈夫だったんだよね」
物凄い、を強調した辺り、きっと本当に物凄い剣幕で怒ったのだろう。綾が一度頭に血が上るとヒステリックになって人の話など聞く耳をもたなくなるのを俺は知っている。何度かやられた覚えがあるからだ。可哀想に。小学生のあきちゃんが気の毒になる。
「あきちゃんはどうやって綾ちゃんの魔法をとったんだろう」
考え込むように目を伏せていた多聞が、ゆっくりと口を開く。独白のように。
「きっと、何かトリガーがあったはずなんだ。あきちゃんは魔法をとろうなんて思ってなかっただろうけど、無意識にしろ、何かきっかけあったはず……普通に、ジイさんの使ってるパソコンをあきちゃんが触っても、魔法はあきちゃんのものにはならないだろう?」
多聞が顔を上げた時、俺の頭にひらめくものがあった。
たぶん、こいつが知りたいのはそれだ。あきちゃんが魔法をとるための、きっかけ。仕組みと言ってもいい。
仕組みを知ってどうするか。当然、多聞は自分の魔法をあきちゃんにとってほしいと思っている。
「うーん、きっかけ? 単純に近くにいたからって気もする。だって、あいつが一番最初にとったのはお母さんの魔法だよ。私とあいつは歳が離れてるせいもあるかもしれないけど、ほんと鬱陶しいくらい私の後ばっかりついてきてたし」
「それも一理あるかもしれないな」
綾の仮説を多聞はさらりと肯定する。それがまた裏に何か思惑を隠しているように見えて、俺はどこか探るように多聞を観察していた――ら、糸目がこちらにスッと視線を流し、
「吏一、何か言いたいことがあるなら言ってごらんよ」
「……別にねぇよ」
「正直者だから顔に出てる」
指摘されて、思わず頬を押さえた。そんなに出ているのだろうか。
「まじかよ」
「だから浮気もすぐバレるんだよ」
「バレてねぇし、つか、してねぇ!」
ダメだ。口でこいつに勝てる気がしない。綾がおかしそうに肩をゆする横で、俺は回りくどく考えるのをやめた。元々そういうのは得意じゃないんだ。
「あきちゃんに余計な手ぇ出すなよ。JYMでもそういう話だっただろ?」
「余計な手って? 吏一ほどじゃないと思うけどな」
「俺は関係ない。お前が、なんか企んでんじゃないかって話だよ」
うっかりすると、多聞のペースに引き込まれそうになる。しれっと混ぜっかえされるのを回避して、静かに問いただした。
「信用ないな。俺はあきちゃんのことも綾ちゃんのことも小さい頃からよく知ってるんだよ」
だから何かを企んだりしない。そう言いたいのか、多聞は綾のほうに視線を投げた。ほかにどう言って追及しようかと俺が迷っている間に、綾がさらりと、
「吏一って、あいつのこと好きなんだ」
とんでもない爆弾を落としていく。
「い、や……その、」
否定も肯定もできない俺を、元カノは嫌悪とも軽蔑とも違う、どちらかというと心配するような、なんとも言えない顔で見ていた。