セーラー服を脱がさないで(3)
吏一君は、嘘が下手。
喫茶またたびで向かい合わせに座って、私は吏一君から昨夜の報告を聞いた。
吏一君には、二つのことが分かったんだって。
一つ目は、先生の魔法のこと。
先生は、赤色のチョークを持つと、心の声が漏れてしまう。
だから、黒板に「彰子」って書いちゃったんだ。赤色のチョークを持っている時に「彰子」のことを考えていたから。
しばらく赤チョークを使わないようにって吏一君が先生に言ってくれたから、きっともう、大丈夫。魔法使いは、道具が手元になければ魔法を使えない。
二つ目は、先生には「彰子」という妹がいて、最近悪い男と付き合っているようなのでそれが心配だということ。心配だったから、授業中もつい妹の事を考えてしまったんだって。
「吏一君、それ、先生本人から聞いたの?」
「そうだよ」
「嘘つき」
吏一君が一瞬目を見開いて固まった。
どれが本当でどれが嘘なのかは分からない。だけど、全部が本当じゃないってことは私には分かっちゃった。女の感ってやつかな。なんてね。
吏一君は困ってた。たぶん、本当のことを言おうかどうか迷ってる。先生に口止めされたのか、私に知らせるべきじゃないことなのか。両方かもしれない。
「覚悟はしてるよ」
最初から、障害のある恋だから。実る可能性のほうが低いってこと、私はちゃんと知ってて好きになったんだ。
だから、傷つく覚悟はちゃんとしてるんだよ。
眉間にしわを寄せた吏一君が考え込むように黙ってしまったので、私は待った。マスターの入れてくれたコーヒーを飲みながら。
ああ、苦いな。砂糖を入れたいな。
だけど、苦いのもおいしいって思うんだよ。私だって。
ストローで氷をかき混ぜて、カランカラン。良い音。
その音に目を覚ましたみたいに、やっと、吏一君が顔を上げる。
真っ直ぐにこちらを見つめる吏一君の涼やかな目は、夏がよく似合う気がした。
「あきちゃん、先生に告白しに行こう」
吏一君、何を言い出すの?
急に、夏ばてになったような疲労感。まだ、倒れちゃいけないのに。今日でテストがやっと終わって、明日はクラスマッチなんだよ。
現実逃避する思考。だけど吏一君は逃げることを許してくれない。
「先生のこと好きなんだろ? どうせもうすぐ夏休みだから、気まずい思いで授業受けなくても良いし」
「何それ。振られること、決まってるみたい」
「あれ、上手くいくって思ってたの?」
意地悪だ。
上手くいくなんて思ってない。思ってないけど、仮定と決定は違う。
「覚悟してるんじゃなかったの?」
吏一君は、意地悪だ。
私の覚悟が口先だけだってことを見抜いてる。
返す言葉が見つからなくて、誤魔化すようにしてストローを吸う。
ああ、もう。
我慢できずに、アイスコーヒーにガムシロップを二つ投入した。
やっぱり、苦い。
「あきちゃん。俺から聞くより、先生から直接聞いたほうがいいんじゃないの」
でろでろに甘くなったコーヒーに、ちょっとだけ口をつける。
私はまだ迷っていた。
「今夜、先生んちに行こう」
「え!?」
突然すぎるよ吏一君。
「時間がないんだ」
だけどその声が真剣で、やさしかったから、私は嫌とは言えなかった。言う隙がなかった。
考える時間はまだあるから、と夜にまた会うことを約束して、吏一君はバイトに行ってしまったのだ。
「どうしよう……ねぇ、おジイ」
くるりと振り向けばいつものデスクトップ席におジイが一人、画面と睨めっこをしている。
「心配せんでも、あきちゃんは可愛い。自信を持てばいいんじゃよ」
「そういう問題じゃないと思うんだけどな」
可愛いは否定せずにありがたく受け取るけど。
「そういう問題じゃよ。自分に自信を持って当たって砕けてくればええ」
「おジイまで!」
失恋することを最初からわかっていて伝える思いに、意味なんてあるのかしら。
「それって自己満足なんじゃないの?」
「それはわからんよ。自己満足でしたことが誰かのためになることもある。逆も然りじゃ」
「先生次第ってこと?」
おジイは軽く頷いた。
「わしは吏一がわざわざ告白してみろと言うことには何か意味があると思っとるよ。あれはあまり人にどうこうせいとは言わん子じゃ」
吏一君の目を思い出す。先生とは違う。くっきりとした涼しげな二重。
先生の目はどちらかというとぼやっとして重たげだ。だけど笑った顔がすごくやさしくて、大好き。
「私、先生に好きって……伝えたいのかな」
見ているだけで十分で。ただ、苦しんでいる先生のことを助けたかっただけで。
「あきちゃんの好きにしたらいいんじゃよ」
それがわからないから困ってるんだよ、おジイ。
吏一君は考える時間をくれた。吏一君のバイトは八時まで。まだ十分に時間はある。
教科書とノートを広げて明日の英語のテスト勉強を始めてみたけれど、こんな状態で集中できるはずがなかった。考えなくちゃ。
私が先生と出会ったのは、入学式の日だった。
一目惚れだったんだ。
入学式が終わって、みんなが教室でホームルームが始まるのを待っているときに、私はなぜか一人、教室に戻れなくなっていた。恥ずかしい話なんだけど、迷子になっちゃって。
先生を廊下で見つけたのは本当に運が良かった。
「あのっ教室、教室ってどこですか?」
私は半ばパニックになっていて、自分が何年何組かもまともに伝えられない。なのに、先生は私を安心させるように、にっこり笑って、
「俺も今から行くところだから、ついておいで」
「え、え?」
先生が私の担任だってことも、すでにクラスの生徒全員の顔と名前を覚えているってことも、私は教室に無事に戻って席に着けてからやっと、理解した。
その後も、先生はいつもやさしくて、笑顔が素敵で、ちょっとだけ頼りない時もあるけど、毎日顔を見るたびに、先生に惹かれていく自分がいた。好きだなぁって自覚するのに、そんなに時間はかからなかったよ。
「考えてもわからんことはたくさんあるんじゃよ」
おジイの言葉はいつも正しい。
結局、英語の長文問題を解き終えても、先生に告白するべきか、答えは得られなかった。
バイトを終えた吏一君が戻ってきても、まだ。決まらない。決められない。
私の気持ちは、その程度だったってことなのかな。
「吏一君は、どうして私が先生に告白したほうがいいって思うの?」
「あきちゃんに後悔してほしくないから」
「逆に、告白して、後悔しちゃったら……?」
私が後悔するかどうかなんて、吏一君に分かるのかしら。そんな、ちょっとした反抗心みたいなものも混じっていた。
「それって、先生が酷い振り方した時だろ? あの先生があきちゃんを傷つけるような振り方すると思うの?」
吏一君がちょっと怒ったような顔で言う。
困ったな。吏一君の言うとおりなんだもの。先生が、酷いことなんて言うはずがない。告白したことを後悔させるような振り方をするはずがない。
「吏一君のほうが先生のことよくわかってるみたい」
吏一君は不本意そうな顔をしたけど、私はちょっとだけ悔しい。
「でも、私、振られるんだよ……」
最初から諦めているはずなのに、振られるのは怖いなんておかしな話だ。だけど躊躇ってしまう。わざわざ自分で崖に突っ込んでいくような勇気は私にはない。
「あきちゃん。振られる機会もないまま諦める恋の方が、苦しいんだよ」
「え……?」
吏一君の言葉の意味を掴みかねて、
「好きって事を伝えられないから、振られる事もできない。振られてないから、諦めたくても諦めきれない。がんじがらめになるよ」
「それって……」
真っ直ぐに私を見る吏一君の目は怖いくらいに真剣で。
聞けなかった。
それって、吏一君自身の話なの?
「ごめん。変なこと言った」
表情を緩めた吏一君が視線を外す。
「後悔、するかな」
「わからない。俺は、あきちゃんには後悔をしてほしくない。だけど強制はできないから、あきちゃんは今の自分の気持ちに正直に従ったらいいと思う」
自分の気持ち。
気がついたら、セーラー服の裾をぎゅっと掴んでいた。
「私ね、先生のこと見てただけなんだよ。本当に。遠くから。それで、満足してたんだよ」
話しながら、もうそれが過去形になっていることに私は気付いていた。
「でも、先生が魔法使いかもしれないって思って……」
急に、距離が近くなった気がした。もっと近づけるかもしれないと、期待してしまった。
生徒と先生ではなく、魔法使いと魔法使いなのだと、同じ存在なのだと。
本当は、先生の事を心配していたわけじゃなくって、好きな人との共通点を見つけて単純に喜んでいただけなのかもしれない。
でもね、苦しんでいる先生を見てられなくって、助けてあげたいって思ったのも、本当なんだよ。
好きな人、だから。
「私、先生には笑っていてほしいな」
「こんな可愛い子に好きって言われて、喜ばない男はいないよ」
「本当? 困らないかな、先生」
「困るのはモテる奴の特権だな。あきちゃんがどれだけ先生のことが好きで、どれだけ先生がいい男か教えてやればいい。そうすれば、先生はしばらくあきちゃんの事が忘れられなくなる」
「しばらく、なんだね」
「残念だけど」
吏一君は正直だ。
一つも期待を抱かせないまま、私の背中を押すんだ。
「あきちゃんのことをずっと考えてくれる男が欲しかったら――まずは先生への恋を終わらせないと」
おどけた調子で付け足された言葉は、振られる私には何の慰めにもならない。
でも、決めたよ。
後悔しないほうを、選んでみようかなって。
一瞬でもいい。先生の頭のなかを、「彰子」じゃなくて「あきちゃん」でいっぱいにしてやれたら、それもいいかなって。
「お願い、吏一君。私を先生のところに連れて行って?」
おジイやマスターに見送られて、私は再び吏一君の車に乗り込んだ。
さあ、ここからがクライマックス。私のどきどき告白タイム。どうか上手くいきますように、祈ってくれたら嬉しいな。