君には言えない(2)
珍しくバイトのない平日の夕方。寂れかけた駅前の商店街を歩きながら、ずり落ちてきた眼鏡のブリッジを指で押し上げる。眼鏡屋で調整してもらったほうがいいのかもしれない。
眼鏡をかけて外出するのは久しぶりだ。元々の視力はそれほど悪いわけではない。運転するのに支障があるからコンタクトレンズをしているだけで、日常生活ならば裸眼でも問題はない。それでも、眼鏡を使わないようにしていたのは、魔法のせいだ。
ふと、二年前、同じようにこの道を、眼鏡をかけて歩いていたときのことを思い出す。
高校三年生の秋だった。周りは完全に受験モードで、これまで遊んでいた分のツケがあった俺は、必死で勉強していた。昔の仲間とは完全に手を切った。とは言っても、今さら真面目ぶったところで、クラスの中に居場所はない。授業が終われば塾に向かい、家に帰ればまた勉強。そうまでして行きたい大学などなかったが、できるかぎり良い学校に入れればそれでよかったのだ。そうすることでしか、失った信用を取り戻す術はないと思っていた。
模試の前に徹夜が続いたある日のこと、下校途中にすれ違う人々の周りに奇妙なもやが見えることに気づいた。蜃気楼のようなものもあれば、はっきりと色付いた膜のようにも見える人もいる。まとわりつくもやは、何かのエネルギーのようにも感じられて不気味だった。
きっと寝不足のせいだ。そう言い聞かせながら、見ないフリをした。
だけどある日、真っ赤なもやの塊が道の向こうから歩いてくるのを見たとき、俺は逃げ出した。その場にいてはいけない、と本能が警告を発したのだ。
今でも覚えている、あまりにもまがまがしく気持ちが悪い赤。身の毛のよだつ感覚という感覚とはああいうことを言うのだと実感した。だけど、それを発していた人物の顔や体つき、性別すら俺は覚えていない。とてもではないが直視できなかった。
全力疾走で家に戻り自分の部屋に駆け込むと、ひどい吐き気がおそってきた。あれは一体なんだ。自分は頭がおかしくなったんじゃないか。狂ってしまったんじゃないか。考えるのは恐ろしかったが、考えずにはいられない。
数日間、学校を休んだ。ようやく平常を取り戻して外に出られるようになってからも、いつまたあの赤に出会うのではないかと思うと気が気ではなかった。
毎日びくびくしながら、通学路である商店街を歩いていた。あの日も、秋風の心地よい日だった。よく覚えている。前方から、やわらかな光がゆっくりと近づいてくる。引き寄せられるように俺は歩みを進める。怖いとは思わなかった。
その光を発している人物が、よく知っている近所のジイさんだということに気づいて驚いた。
ジイさんは俺の視線を受けて、少しばかり怪訝そうな顔で立ち止まり、声をかけてきたのだ。
「おう、どうしたんじゃ、吏一。また学校サボっとるんかか?」
「ちげーよ……。つか、なんだよ……なんで光ってんだよ……」
今思い返せば、俺は相当まいっていたのだと思う。ジイさん相手でなければ確実に不審者扱いされていた台詞だ。
ただ、この時の俺にはなぜか確信があった。ジイさんは自分が光を発していることを自覚している、と。
「ほう、面白いものが見えるようじゃな。学校サボっとる罰じゃ。ついて来い」
「サボってねぇーよ」
そうして俺は、赤い屋根の喫茶店に連れて来られた。
魔法使いの話をすぐに鵜呑みにしたわけではない。だけど、ジイさんに話したことで楽になったんだと思う。真実かどうかはこの時点ではどうでもよかった。
魔法使いをとりまく光は、眼鏡をしたときにだけ見えるのだとわかってからは単純だった。
「コンタクトレンズにすればいい」とジイさんはこともなげに言ったのだ。自分の魔法を無理に使いこなそうとか、押さえ込もうとか考えなくていい。上手につき合えばいい、と。
実際、JYMの一員としてジイさんに呼び出されることがなければ俺は自分の魔法のことなど普段の生活では忘れてしまえる。
そういう意味では、実生活の中で常に魔法がつきまとう多聞やあきちゃんの気持ちなど到底わからない。
それに、俺はもう、魔法使いではないかもしれない――。
赤い屋根を一度見上げてから、扉を押しあける。レトロな鈴の音が鳴り、マスターが愛想のいい髭面を向けてきた。
「おや、珍しい。今日は眼鏡なんだね」
「ああ、うん。ちょっと」
マスターの周辺には何も見えない。いつもどおりだ。
「ジイさん、いるか?」
いつものデスクトップパソコンの特等席に目を向けると、禿頭がひょこっと画面の脇から覗いた。
「吏一、どうしたんじゃ?」
「おう。俺さ、魔法が使えなくなったかもしれない」
あれほど強烈な光を放っていたジイさんの周りにも何もみえないことを確認して、俺は軽く肩をすくめてみせた。口に出してみたら、意外と自分がへこんでいることに気づいてしまう。
商店街を歩いてくる間もずっと眼鏡をかけていたが、光や色の見える魔法使いは一人もいなかったのだ。
ジイさんは一瞬、眼鏡の奥で難しそうに目を細めてみせたが、大して驚いた様子はなかった。
「ふーむ、謎じゃな」
「俺の魔法をあきちゃんがもってったってことは、ないよな……」
「あの子は昨日もセーラー服を着て元気にしとったよ」
ジイさんが首を横に振って断言する。一番心配していた可能性がなくなって、俺は心底ほっとしていた。
「もしかしたら、青柳紀元に力を一時的に増幅されたせいで反動がきとるのかもしれん。ま、しばらく様子見じゃな」
「ジイさんでもわかんねぇか。別にあってもなくても困るもんじゃねーけど」
話がひと段落したところで、マスターがアイスコーヒーを運んできてくれた。これ以上はうだうだ言っても始まらないか、と諦めてストローに口をつけたところで、ドアベルが鳴った。
「こんにちはー。あれ、吏一君!」
セーラー服姿のあきちゃんは外の熱気をまとったままのわずかに上気した顔を、すぐに笑顔に変える。あきちゃんとここで顔を合わせるのは、考えてみると夏休み前以来だ。
「今日は眼鏡なんだね」
「ああ、魔法がなくなったみたいで」
俺の言葉がうまく伝わらなかったのか、あきちゃんは一瞬戸惑いを見せる。そして不安げに首を傾げた。先ほどジイさんとの間で交わしたばかりのやりとりを掻い摘んで話すと、やっと強張っていた顔を緩めてくれて。
「魔法がないならないで不便はねぇし、今はどうにもできねぇから」
さらっと言ってしまえば、自分自身の中でも、しょうがないと割り切れた気がした。あきちゃんも気を取り直して、こちらに顔を向ける。
「そっか。……あ、この間は文化祭きてくれてありがとう」
「や、なんか急に押し掛けてごめん」
「こっちこそちゃんと対応できなくてごめんね!」
俺のとなりに腰掛けたあきちゃんはすまなさそうに眉尻を下げる。彼女のメイド姿を思い出して、頬が緩んだ。写真くらい撮っておくんだったな。
「忙しそうだったし。すごい人気だったもんな、メイド喫茶」
「ほう、あきちゃんもメイドじゃったんか?」
年甲斐もなく口を挟んできたのはジイさんだ。
「見たかったのかよ」
「冥土の土産にのう」
「おジイ!」
「そりゃ死んでも死にきれないな。かわいかったのに」
「そうじゃろうそうじゃろう」
孫を見るように目を細めるジイさんの真正面で、あきちゃんの頬はさらに赤みを増していた。
しばらく話し込んだ後、俺はそろそろと言って立ち上がる。ジイさんへの用事はすんだ。さよならを言いかけたところで、あきちゃんが何か言いたげな視線を寄越す。
「どうかした?」
「吏一君、私も途中まで一緒に帰っていい?」
「ああ、じゃあ近くに車置いてるし、送るよ」
内心でガッツポーズしたことは否定しない。俺もあきちゃんに話したいことがあったんだ。
「あの、バイト先の店長さん……あの人とあまり関わらないほうがいいと思う」
助手席に乗り込むなりあきちゃんが口にしたのは、川岸のことだった。好きな女の子がほかの男のことを話題にするのを聞いて、気分がよくなる男はいない。ただ、あきちゃんがどういう意味で川岸の名を出したのかは分からなくて、車を発進させずに尋ね返す。
「川岸? あーこの間の悪かったな。でもあいつ別に悪い奴じゃないよ。多少軽いところあるけど」
「でも……」
少し待ってみたが、あきちゃんからそれ以上の言葉は出てこない。とりあえず、車をゆっくりと発進させる。運転をしながら盗み見る横顔は、迷っているようにも困っているようにも見えた。
「あいつに何かされた?」
まさか、とイヤな想像が頭の隅をかすめる。川岸は悪い奴ではないが、女の子に対して軽いところがある。彼女もころころ変わっているし、たぶん、手を出すのも早い。まさか人の好きな子にまでちょっかい出すほど最低な男だとは思いたくないが……。
あきちゃんに手を出したなら殴るくらいじゃすまさねぇ。
「ううん、そういうわけじゃなくて……ごめん。変なこと言って」
「いや、何か心配なことがあるなら言ってくれたほうがいいよ。言いにくいなら無理に言わなくてもいいし、俺じゃなくても、ジイさんや里中さんもいるんだし」
「うん。ありがとう」
あきちゃんは笑ったけれど、その笑顔はどこかぎこちない。もしかしたら本当に、俺には言いにくいけれど、何か心配事があるのかもしれない。
「女の子にはいろいろ言いにくい悩みとかあるんだから、察してよ。それが無理ならせめて気を使ってよ」とは元カノの弁だ。気を使うのは疲れるし御免だが、好きな子に元気になってほしいと思うのは当たり前のことで。
「あのさ今度、気分転換に映画でも行かない? 今なにか観たいのある?」
気分転換は単に口実みたいなものだけど、このタイミングを逃す手はない。
あきちゃんは思ったより乗り気で、ぱっと顔を輝かせた。
「映画! ちょうど観に行きたいのあるんだけど、この間のと同じ監督で、リバイバル上映してるの。恋愛映画だけど、いい?」
「もちろん」
正直言って恋愛映画は眠たくなるから苦手だ。だからといって、嫌だと言ってチャンスを不意にするほど馬鹿ではない。
「上映時間調べとく。また後でメールするよ」
「今度は爆弾魔がいない時にしようね」
軽口を叩けるくらいに元気を取り戻したあきちゃんの笑顔に、俺も自然と頬がゆるむ。ついさっきまで、魔法が使えずへこんでいたことなど俺はすっかり忘れ去っていた。