魔法使いなんていない(10)
屋上に取り残された私は、青柳紀元の顔をにらみつけながら、何かいい方法がないか頭をフル回転させていた。助けにきたのはいいけど、実際、私は吏一君やこの目の前の男と話をして、説得するってことしか考えていなくて。
ばかだ。それでどうにかなるだろうって本気で思ってたんだ。吏一君はとっくに覚悟を固めていたのに……。
私は、いったい何をしにきたんだろう。
「宮司家のところは確か、成人した長女と高校生の弟の二人姉弟ではなかったかな」
青柳紀元は口元に意味ありげな笑みを浮かべて、わざとらしく首をかしげてみせる。この人は意地悪な大人だ。おジイやみすずさんみたいにやさしく見守ってくれる人じゃない。
「だったら何」
「いやなに、そういう奇妙な魔法でも、私のもとでならば上手く活用する道があるかもしれない、と思ってね。君も、新沼君と一緒に来たらいい。私のもとで、働かないか」
「結構です!」
「君は私を極悪人か何かだと誤解しているようだが、決して悪いようにはしないよ」
青柳紀元はにっこりと糸のような目を細めて言う。多聞お兄ちゃんと血がつながっていることは疑いようもない、同じ顔で。
「自分の息子さえ都合よく利用するような人のことなんか、信用できません」
きっぱりと私が告げた瞬間、何か、ぷつっと糸の切れるような音がした。
「息子……? 私の、息子……」
青柳紀元の表情が変わった。まるで、忘れていた記憶を今やっと思い出したとでもいうように、しずかに、ゆっくりと目を見開いていく。
「ああ、そうだ。そうだった。多聞がいるじゃないか」
どうして忘れていたんだろう。紀元はほとんど独り言のように呟いて、「あいつがいれば何の問題もないというのに……君は、多聞の魔法を知っているか?」
私が首を横に振るまえに、紀元は一人で話し始めた。
「あれの魔法はすばらしいよ。椅子に座るだけで、前に座っていた者が何を考えていたか手にとるようにわかるんだ。とても重宝したよ。特に商談ではね。椅子に座らせれば相手の手の内がすべてわかってしまうのだからな。私の力とあれの力を合わせれば、魔法使いをあぶりだすことも可能だ。すべての椅子に座らせなくとも、私があれの力を増幅させれば椅子の背に触れるだけで必要な情報を抽出することができる。準備はすべて整っていたというのに、どうして――」
どうして、この人はそんなにも必要としていた多聞お兄ちゃんのことを忘れていたんだろう。思い出したことを、確かめるように言葉を紡ぐ。魔法のことをこんなにもぺらぺらと喋ってしまうのは危険なことだ。しかし青柳紀元には止められないようだった。むしろ、自分の息子の魔法が誇らしく、だからこそ喋らずにはいられないようで。それなのに、今の今まで忘れていたのはいったいどうしたことだろう。
その問いの答えは、屋上の扉が開いて、戻ってきた吏一君とスキンヘッドの男が知っていた。
「準備はできたぜ」
「それより三島。多聞の件はどうなっている。まだ見つからないのか」
思い出したばかりの自分の息子の名前を出して、青柳紀元は問う。スキンヘッドは小さく舌打ちして、自分の上司であるはずの青柳紀元には聞こえない程度の声でぼそりと呟いた。
「思い出しちまったのか」
吏一君も事態をきちんと把握しているみたいで、あまり表情を変えないまま青柳紀元に向かって言い放つ。
「多聞がいなくても俺がいれば問題ないだろ?」
「それとこれとは話が別だ。あれの能力は君とはまた別の部分で利用できる」
利用。自分の息子を道具のようにしか思っていない言葉。多聞お兄ちゃんのことを愛していたら、出てくるはずのない酷薄な台詞。多聞お兄ちゃんが、吏一君に全部を押しつけて自分だけ逃げようとしたのはずるいと思う。でも、こんな父親だったら、逃げ出したくなって当然だ。
「ふざけんな!」
ほとんど衝動的に私のなかの魔法がカッと燃え上がるのがわかった。気がついたら青柳紀元との距離が、拳が届くほどに縮まっていて、頭の中が真っ白に――
「あきちゃん待って……!」
握りしめた拳の威力がとっさに緩んだのは、吏一君の声が聞こえたからだ。吏一君が止めてくれていなかったら、たぶん、もっと酷いことになっていた。
屋上に倒れている青柳紀元と、じん、と熱をもつ自分の拳。
やってしまったんだ。
前に、先生を助けようとしたときもこんな感じだった。何かを考えるよりも先に体が動いていて、自分が自分じゃないみたいになってた。そう、まるで魔法にかかったみたいに勝手に――。
「あきちゃん、あきちゃん! 大丈夫?」
となりからする声に顔をあげたら、吏一君がいた。
「あ……どうしよう。どうしようっ吏一君!」
私は本当に吏一君に頼ってばかりでどうしようもない。助けにきたはずなのに、これじゃあ何しにきたのか本当にわからない。
「心配しなくても大丈夫だよ。むしろ手間がはぶけたんじゃねぇかな」
吏一君が、ぽん、てやさしく私の頭に手をのせて安心させてくれる。でも、どういう意味だろう。
「三島さんがなんとかしてくれる。あの人の魔法見てろよ。相当笑えるぜ」
「笑えるの……?」
ますます意味がわからないんだけど。私が首を傾げても、吏一君は笑うだけだ。
「おい、聞こえてんだよ。ちょっと手伝え」
倒れている青柳紀元のそばに屈んだ三島さんは吏一君を手招きする。そして反対側の手に持っていたのは……紙コップ?
糸でつながれた二つの紙コップのうち片方を吏一君にわたして、青柳紀元の耳元に固定するよう指示を出す。ええと、まさかと思うんですが、でもこれってあれにしか見えないわけで。つまり、小さいころに作って遊んだことのある、糸電話……?
「で、なにをこいつに信じさせる? どんな嘘でも吹き込んでやるぜ」
三島さんは青柳紀元から一メートルほど離れたところにしゃがんで紙コップから伸びた糸をぴんと張った状態で、吏一君に尋ねた。あ、わかった。
「そういう魔法なの?」
何も答えない三島さんの代わりに、吏一君が頷いて教えてくれる。
「この人の魔法って二種類あるんだよ。嘘を見破るのと、嘘を本当だと信じ込ませるのと。多聞が姿を消したあと、この人がずっと多聞なんかいないって紀元に信じこませてたってわけ」
「完全に信じ込ませることはできないけどな。さっきみたいに何かの拍子に嘘が見破られることがある。多聞のことを思い出したのもこれが初めてってわけじゃない。そのたびに俺が魔法をかけ直してやってんだ」
三島さんは面白くなさそうに教えてくれる。そうか、この人は多聞お兄ちゃんの味方なんだ。
「多聞お兄ちゃんの友達なの?」
「ただの腐れ縁だ」
吐き捨てるように言ってから、紙コップを口に当てたスキンヘッドは魔法の呪文を口にする。
「青柳多聞はいない」
とてもシュールな光景だった。青柳紀元には何も変化がないように見えるけど、これが魔法だって言われたら私は信じるしかない。
次にかける魔法の言葉を促されて、吏一君が答えた。
「『魔法使いなんていない』」
「広いな。そういう嘘はすぐばれるぞ」
「そうしないと意味がない。俺や多聞が助かってもこいつはまたほかの魔法使いを探すだけだろ。魔法なんかないって思わせたほうがてっとり早い。それに、ジイさんと多聞がまだ何か手を打とうとしてるから、一年保てばオッケーじゃねぇかな」
「なるほど。多聞のやつもいつまでも隠れてばかりじゃいられないって言ってたな。俺も一生嘘をつき続けるわけにはいかねぇし」
「おジイのことはどうするの?」
二人で勝手に話が進んでいくので、細かいところはあとから説明してもらうことにして、私はどうしても気になることだけしゃがみ込んで聞いてみた。
「それはあきちゃんがなんとかしてくれるんじゃねぇの? さっき啖呵切ってたじゃん」
「えっ」
うぅ、確かにそんなことも言っちゃったけど、実際なにか手があるかといったら、何もないのだ。
「冗談だよ。たぶんそれは大丈夫。ジイさんのパソコンのウィルスを駆除すれば」
「ほんと!?」
「たぶんな。そういやあれやったのってお前じゃないんあろ? リョウさんにもできるとは思えねぇし、青柳紀元の部下のほかの奴がやったってこと?」
「いや、あれは恐らく社内の人間じゃない。社長は俺のこともどっかで疑ってるみたいでな。たぶん外部の人間を使ってるんだと思う」
自分にわかるのはそれくらいだと三島さんは首を横に振った。そして再び紙コップを持ち直し、嘘をつく。
「魔法使いなんていない」
吏一君を救ってくれる、魔法。
この人が味方で良かった。多聞お兄ちゃんの側に、こんな心強い人がいて良かった。
私、この人のこと完全に敵だと思ってたんだよね。
「あの、ごめんなさい。蹴ったり殴ったりして」
恐る恐る近づいて頭を下げてみる。三島さんはとても微妙そうな顔で手をひらりと振った。
「いいって。女の子にやられる俺が弱いってだけだ。後は適当にやっとくから、こいつが目ぇ覚ます前に帰りな」
それは私の魔法のせいなんです、とは教えてあげられなかった。私も魔法使いだから。
三島さんに後のことを任せ、私と吏一君は二人で頭を下げてその場を後にした。
なんだかたくさん話したいことがあったのに、エレベーターに乗ったら安心して気が抜けちゃった。でも、これだけは言っておかなくちゃ。
「吏一君。私になにか言うことがあるんじゃない?」
じっと恨みがましく見上げてみる。だって私一人、なんにも教えてもらえずに心配ばかりしてたんだ。おジイや私のためだって分かってたけど、でも、これくらいの意地悪は許してくれるでしょう。
「……メールも電話も無視しててごめん」
「そうじゃなくて!」
「あーごめん、わかってる。わかってるからその手は振り上げないでくれる?」
思わず拳を握り締めていたらしい。両手を押さえつけられて、これじゃ私はただの癇癪持ちの子どもだ。べつにわがままを言いたいわけじゃないのにな。だいたい、吏一君を殴ったりするわけないじゃない。
「なんにも説明しなくてごめん。心配かけたくなかったんだけど、でも、来てくれて嬉しかった。ありがとう。あきちゃんのおかげで助かったよ」
「ほんとう?」
「うん、三島さんが協力してくれたのはあきちゃんのおかげ。あそこであきちゃんが来てくれなかったらあの人のもう一つの魔法に気づかなかったかもしれない」
だから、ありがとう。ってもう一度言った吏一君は、ぽんってほんの少しだけ頭を撫でてご褒美をくれた。私でもちょっとは吏一君の役に立てたんだ。
よかった。本当に、よかった。
おジイが目覚めたら今度こそ聞いてもらうんだ。私と吏一君の話を。夏休みが終わってから、たった十日間のうちに起きた、短くて長い話を。
マンションを出たら、堂本さんはちゃんと車で待ってくれていた。初対面の堂本さんと吏一君はお互い相手を探るみたいにして挨拶を交わして、
「で、王子様救出は上手くいったってわけだ」
いつもどおりに茶化す堂本さんには軽くパンチをお見舞いしておく。
青柳紀元は魔法使いの存在を忘れているはず、という結果の部分だけを伝え、細かい説明はまた今度と約束して、私は吏一君の車で送ってもらうことにした。本当は堂本さんの車に乗って、説明しながら帰ればよかったんだろうけど、正直なところ、もうすこしだけ、吏一君と一緒にいたかったんだ。