セーラー服を脱がさないで(2)
俺はジイさんには逆らえない。
べつにジイさんが強い魔法使いだからとかそんなんじゃなくて、単純に借りがあるのだ。
よくある話だが、俺が昔いわゆるやんちゃをやって、親からも友達からも見離されていたとき、ジイさんだけは俺のことを見捨てずにいてくれた。それで俺は大学に行けるほどまともに戻れたわけで。
ジイさんがいなかったら俺の人生は全く別のものになっていただろう。
だから、ジイさんの頼みならば断る理由がなかった。それに、運がいいことに助手席に乗る女子高生は結構可愛い。彼女が通う隣町の高校まで、電車よりも車の方が早いからと助手席に乗せて――いや、べつに変なことをしようなんて気はさらさらない。俺はジイさんを裏切ることだけはしたくないから。
「名前なんていうの?」
緊張しているのか、表情の硬い彼女の横顔をちらりと盗み見てから、俺はなるべく優しく聞こえるような口調で話しかけた。
「……おジイたちは、あきちゃんって呼ぶよ」
答えには、言葉を選ぶような妙な間があった。どことなく、フルネームは?とは聞きにくい雰囲気だ。警戒されているのか、あるいは名前を知られたくない理由が何かあるのか。俺の考え過ぎか。
ジイさんの周りは大抵、なにかしら複雑な事情を抱えている人が多いから、俺はあまり気にしないことにした。
「あきちゃん、先生が魔法使いだって思ってんだって?」
隣の少女が無言で頷く。癖のあるショートカットの毛先が、ふわりと小さく揺れた。
「俺、まだ魔法使いのことよくわかんねぇんだけど、あきちゃんもそうなの?」
俺が魔法使いになったのは、実はほんの3年前のことだ。魔法使いになるっつっても、別に何か修行をしたわけじゃない。呪文を覚えたわけでも、箒で空を飛べるようになったわけでも。
魔法使いになるには、何かきっかけが必要らしい。俺の場合は、大学受験のストレスだったようだ。たぶん。おそらく、そうじゃないかと思っている。
「分かるんでしょ?」
あきちゃんは、思いのほか挑戦的な口調で返してきた。
「いや、眼鏡かけねぇとわかんねーんだ。あきちゃんはいつから?」
「小学校6年生のとき。……吏一君、ねぇ、どんな魔法が使えるか、とかも分かっちゃうの?」
「人の魔法のこと、あんまり聞いちゃいけないんだってジイさんは言ってたよ」
あきちゃんはこちらを振り向いた。斜めに流した前髪の隙間から、ぱっちりとした大きな目が見つめているのを俺は運転に集中しているフリをして気付かないように努めた。
魔法使いは、自分の魔法のことをあまり人に喋ってはいけない。ジイさんから教わったことだ。多くを知られると悪用される可能性も出てくるから、なるべく知られずにいるならそれが一番いいんだと。
年寄りの言うことは聞いておくにかぎる。まぁ、あきちゃんみたいな子に教えたって害になるとは思えないけど。
「拗ねるなよ。あきちゃんだって、俺が聞いても自分の魔法のこと言わないだろ」
「吏一君、彼女いるの?」
突然話をころっと変えた彼女に、俺は一瞬ついていけなかった。女の子ってわかんねぇな。
「もしいたら、いくらジイさんの頼みでも女子高生を助手席に乗せて不用意に走ったりしてません」
残念ながら。
「そっか、そうだよね」
「こら、納得するな」
「もったいないね。吏一君かっこいいのに」
あきちゃんは慣れてきたのか、急に素直になった。そうだろう、と答えかけた俺を無視して、彼女はほかの誰かを思い出したらしい。
「先生の方が、かっこいいけどね」
その言い方がちょっと誇らしげで、いじらしくて、なぜか俺の方が照れる。
そんじゃまぁ、俺よりかっこいいという先生の顔を拝みに行きますかね。
国道をひたすら西へ。
隣町へと抜け、途中で県道に逸れて川沿いを北上すると、あきちゃんの通う高校はすぐだ。
結論から言うと、あきちゃんの好きな先生はそれほどイケメンってわけではなかった。正直、俺の方が勝ってる。
社会科準備室の窓から俺とあきちゃんは不審者よろしく中をのぞき込み、先生の顔を拝見することに成功したわけだが。
先生はまだ二十五歳だというのにもう少し老けて見えた。あきちゃん曰く、本当はもっとカッコイイのだそうだ。ただ、ここ数週間でずいぶんと老け込んでしまったのだと。
「悩んでるんだよ、先生は。自分が変なんじゃないかって」
ああ、そうか。その気持ちは分かるよ。
魔法使いならば、きっと誰もが一度は通る道だ。俺だってジイさんがいなければ、受験ノイローゼで自分の頭がおかしくなっちまったんだと思って狂っていただろう。
「吏一君、先生を助けてあげて。魔法使いだってことが分かれば、救ってあげられるかもしれない」
あきちゃんが期待のまなざしを俺に向けてくる。まったく、恋する女の子の視線はなんでこんなにもキラキラと曇りないのだろう。
「任せなさい」
頼もしい返事とともに、俺は胸ポケットから眼鏡を取り出した。
俺の魔法は、これがないと始まらない。
スクエアタイプの黒ぶち眼鏡には度が入っていない。だけど、かけると少しだけ、世界が変わった。
彩度の落ちた世界の中、見えないものが見えてくる。
先生の周りには、ぼんやりと赤い色が泳いでいた。
正解。
「魔法使いだ」
見分け方はわりと簡単だ。普通の人間の周りには、なにも色がない。
「本当に!? 先生、魔法使いなの!?」
少しだけ声を大きくしたあきちゃんの方を見ると、彼女の周りにも色が見えた。彼女のそれは、海の色だった。
「間違いないよ。色が薄いから、たぶん最近なったばかりだと思う」
何にって、魔法使いに、だ。
「何があったんだろ……」
魔法使いになるには何かきっかけがあったはずだ。あきちゃんは、先生がなんの魔法を使えるのか、ということよりもそちらのほうに興味があるようだった。いいけどね。
「あなたたち、何かご用かしら?」
後ろから、不意に割って入ったのは少し強めの女性の声。
「あなた、卒業生?」
私服で茶髪の俺をじろじろと見て、教師なのだろう――女は容赦なく問いかける。俺は上手い答えを探しながら、隣のあきちゃんに目を向けた。教師もつられるようにしてあきちゃんへと視線を移す。
「あら、あなた、学年章がついてないわね。何年生?」
「一年生です」
「何組?」
「二組です」
「本当? 二組なら受け持ちクラスだから大体の子の顔はわかるはずなんだけど……」
女教師は怪訝そうに眉をひそめている。あきちゃんの顔をじっと見ようと距離を詰めたが、あきちゃんはさっと俺の背中に隠れるようにして俯いた。
「吏一君」
あきちゃんが俺の服の裾を引っ張る。助けろ、という意味なのかと思ったが、違った。
何が起こったのか、俺はよく理解しないままに物凄い力で引っ張られて、走り出していた。
前を行くあきちゃんが俺の手を取って走っている。あきちゃんの細い手は思ったよりも頼もしく、しっかりとしていた。ていうか、握力が強すぎて痛い。そして驚くほどに、足が速い。
俺は情けないことに彼女に引っ張られるままだ。
女教師など当然ついて来られるはずもなく、あっという間にまいて学校の外に出てしまった。
「あき、あきちゃんっ!ちょっ、ストップ、止まって!」
俺、もうダメ。息も絶え絶えに訴えるとあきちゃんはようやく止まってくれた。死ぬかと思った。俺は必死で息を整えているというのに、あきちゃんはけろっとした顔をしている。
「あきちゃんて……陸上部、とか?」
「違うよ」
あっさりと首を横に振って否定するあきちゃん。じゃあこの違いはなんだ。これが10代の力か。
これだけ足が速かったら、相当いいところまでいけるんじゃあ……。もったいないなと思うと同時に、高校時代に部活動などやろうともしなかった自分が言えることではないなと思い直した。
それよりも、
「あきちゃん、べつに逃げなくても、適当に誤魔化せばよかったんじゃないの? あきちゃんはちゃんと生徒なんだしさ」
「……うん、そうだね。ごめんね、吏一君。私、全然頭回らなかった」
どこか自嘲気味のあきちゃんは、話をそらすように息をつく。
「あーあ。先生、やっぱり魔法使いだったんだね」
「どうすんの?」
あきちゃんは乱れた髪の毛を手櫛で整えながら振り向いて、ちょっと困ったような顔をした。
「先生に、魔法使いだってこと言うの?」
重ねて問う。
「……うーん、吏一君、お願いがあるんだけど」
そう言って、可愛らしく小首を傾げるあきちゃんのお願いを、俺は断ることなどできるはずもなく……。
翌日、俺は再び先生に会いに来ることになる。今度は一人で、だったが。
仕事を終えて帰宅する先生の後をつけるのは難しくはなかった。先生の自家用車はよく目立つ緑色をしていたし、国道に出るまで道は一本だ。月並町に入ってほどなくして、先生はアパートの下に車を止めた。
さて、どうするか。
近くのコンビニに車を止め、牛乳とあんパンを調達。一回やってみたかったんだよな、張り込み。
あきちゃんのお願いはこうだった。できるかぎり先生を助けたいが、自分の存在は知られたくない。だから代わりに、俺になんとかしてほしいと。
要は丸投げだ。
そのいじらしいお願いを二つ返事で引き受けてしまった自分も自分だが。
あんパンを牛乳で流し込んで、一息つく。時刻は九時を少し回ったところだ。
「そろそろ行くか」
あれこれと作戦を練ってみたものの、見知らぬ自分が先生に接近する良い方法など残念ながら何も思いつかなかった。正攻法しかない。
佐々倉と表札のかかった扉のチャイムを鳴らす。
「ごめんくださーい」
なるべく不審者にならないよう、明るい声で呼びかける。心の準備はしていたはずだった。
しかし、
「はーい」
応えたのは高い声。
同時に、扉から顔を覗かせた女の顔に、俺は用意していた台詞をすべて忘れた。
「あら、あなた!」
「……」
「夕方学校にいた子よね?」
「……すみません」
強い口調と視線に反射的に謝ってしまう。そもそも教師という人種は苦手だ。それが気の強そうな女教師ならば、なおさらだ。
落ち着こう。ここは佐々倉先生のアパートだ。それは間違いない。
ではなぜ、先ほど学校で会った女教師がここにいるのか。
答えはひとつしかない。
「ここ、佐々倉先生んちですよね」
「……佐々倉は、少し外出してるわ。あなた、一体どういう……」
「あ、俺、佐々倉先生……佐々倉先輩の、後輩です。後輩。今日学校に行ったのも先輩に用があったからで……一緒に居た子は親戚なんですけど、実はあの子、佐々倉先輩のファンなんですよ。恥ずかしがって逃げちゃってすみません」
一気に喋ってから、勢いよく頭を下げた。嘘は得意ではない。すぐ顔に出てしまう。頭を下げたおかげで表情も隠れたのが幸いだった。
「……そう、なんだ。じゃあ、あがって待ってなさいな。すぐ戻ってくると思うから」
「えっいや、そんな、夜遅いですし出直してきます!」
「わざわざ訪ねてきてくれたんでしょう? 悪いじゃない。いいから入って。ほら、早く」
教師というのはなぜやたらと世話焼きな上に人の意志を無視しがちなのだろう。偏見たっぷりなのは認めるが、だから、苦手なんだ。
上手く断れずに部屋にあがるはめになった俺は、コーヒーまで出されてしまった。逃げるに逃げられない。
先生が帰ってきたら、嘘は一発でバレてしまう。
先生の部屋は男の一人暮らしの割にはきれいに片づいていて、目の前にいるこの女教師がこまめに訪れているんだろうという気がした。
あきちゃんが知ったら、悲しむだろうなぁ。
先生のことを好きだという彼女の思いを知ったその日に、本人よりも先にその思いが叶わないことを知ってしまうとは……。
ま、教師と生徒なんて現実的にないよな。
女子高生が担任教師に抱く恋心など、憧れに毛が生えた程度のものだろうと俺は思っている。
コーヒーを入れてくれた女教師は、ローテーブルを挟んで俺の向かい側に座った。部屋でくつろいでいるからか、昼間ほどの威圧感はない。
「あの、佐々倉先輩と……付き合ってるんですよね」
一応確認しておく。
「え、ええ……親戚の子には内緒ね。て言ってももうすぐバレちゃうんだけど」
少し照れたようにはにかんだ女教師は、年下好みな俺でもちょっと可愛いと思ってしまった。
「結婚するんですか?」
「うん」
あきちゃん、失恋確定。
「おめでとうございます」
「ありがとう……」
「……どうかしました?」
「えっ?」
「気がかりなことがあるんじゃないですか? 佐々倉先輩、最近元気ないんですよね。それとなんか関係あります?」
一か八か、カマをかけてみる。そろそろ先生が帰ってくるんじゃないかと気が気ではないが、問いかけはほどよく確信を突いたようだ。
「そうねぇ……元気ないというか、様子は変ね。生徒の話だと、黒板に時々、彰子って、書くらしいのよね。本人は何も話してくれないけど、ね」
女はそこで一度言葉を切った。黒板に女性の名前の件は、俺もあきちゃんから聞いて知っている。それが先生の魔法なのかどうかは、まだ分からないが。
「プロポーズの後くらいなのよね。おかしくなったの……本当は、結婚したくないのかしら」
笑い飛ばすようにして言った言葉は、妙に痛い。
「でも、結婚したくなかったらプロポーズなんてしないと思いますけど」
「違うわよ……」
「え?」
「プロポーズしたのは、わ・た・し!」
「ええっ?」
「女からなんて、やっぱりするもんじゃないわねー」
サバサバと言ってのけた彼女は、横を向いてふっと息を吐いた。そんな自分を諦めてるみたいに。
「や……あの、なんかすみません」
気まずい。逃げ帰りたい衝動をかろうじて押しとどめながら、俺はふとテーブルの上に眼鏡が転がっているのを見つけた。フレームのないタイプの。
「これ、佐々倉先輩のですか?」
不自然にならないようにそれを取り上げて、眺めてみるフリなんかしたりして。
彼女は頷いて肯定する。
好都合だ。
「先輩、目ぇ悪かったんですね」
知らなかったなーなんて言いながら、自分の眼鏡を外して、先生のものに掛け替えた。
ぼんやりとした視界は、色を変える。
「外ではコンタクトなの。かけるのは家と休日だけよ」
答える彼女の顔が、先ほどよりも可愛く見えるのは先生の眼鏡というフィルターを通して見ているせいだと分かっていても、少しだけドキドキして困った。
「……なるほどね」
人の眼鏡をかけると、俺はほんの少しだけ、その眼鏡の持ち主のことが見えてしまう。
先生の眼鏡で、見えたことは三つだ。
一つは、先生の魔法がどういう魔法なのかってこと。
「先輩に、伝えてあげてください。授業で赤チョークは使わないほうがいいってことを。たぶん、それで悩みの一つは解決しますよ」
魔法使いには、魔法を使うための道具が必要になる。俺の場合は眼鏡。おジイの場合はパソコン。あきちゃんのは知らないけど、彼女には彼女の道具があるはずだ。
先生の場合は、赤色のチョークだ。それを使って黒板に文字を書くとき、先生の魔法は発動する。
「どういう意味なの?」
「騙されたと思って、しばらく試してもらえば分かります」
分かったこと二つ目。先生の悩みはもう一つある。たぶんそっちが、先生が魔法使いになるきっかけだろう。
「先輩、結構言いたいこと言えない人でしょ」
俺は正直、先生のことなんてよく知らない。あきちゃんの恋するフィルターのかかった情報と窓から顔を見た程度で。だけど眼鏡をかけると分かった気になれるから本当に不思議だ。魔法ってそういうもんなんだろうけど。
「あなたに言いたいことがあるみたいですよ。ちゃんと聞いてあげてくださいね」
「言いたいことって、何?」
俺がそれを伝えるのはあまりにも無粋だろう。
「……何してんだ」
割り入った声は、掠れていた。
たぶん、困惑と怒りで。
まずい。
「先輩! 待ってましたよー。でも俺、用事は済んだんでもう帰りますね」
眼鏡を外した俺は立ち上がり、玄関へと続く廊下に立ちすくんでいる先生へと大股に近づいた。
先生が何かを言う前に、その肩を軽く叩いて、
「男ならビシッと決めろよ、佐々倉先生」
先生だけに聞こえる声でハッパをかける。俺も案外お節介だな。
「――じゃあね、彰子さん」
先生の眼鏡のおかげで名前を知ることができた女教師にだけ挨拶を残して。
不意をつかれた先生が我に返る前に、俺は逃げるようにしてその場を離れた。
もう一つ、3つ目の分かったことがあるのだが、それはもう俺の手には余る問題だ。そこまで世話焼きにはなれない。
その後、二人がどんな会話を交わしたのか俺は知らない。
二人には二人の物語があって、そこには俺は含まれない。今回はたまたま片足を突っ込んでしまったが、これ以上は野暮ってもんだろう。
俺の物語はまた別のところにあって、それを続けるためには一つの問題をクリアしなければいけない。
――さて、このことをなんて言ってあきちゃんに伝えよう。