魔法使いなんていない(5)
ぼんやりとした視界にまず入ってきたのは、見慣れないむきだしのコンクリートの天井だった。仰向けに転がっていた身を起こそうとすると、鳩尾と背中が悲鳴を上げる。くっそ、思いっきり殴る蹴るしやがって。
硬く冷たい床に手をついてようやく体を起こして辺りを見回すと、十畳程度のなんてことはない部屋だった。家具らしきものは一つもない。フローリングの床に俺が一人で転がっていただけだ。
ベランダへと続く窓から強い西日が射しこんでいる。腕時計に目を落とし、時間を確認する。午後四時すぎ――ジイさんの家を出てから一時間も経っていない。
ポケットに入れていたスマートフォンの存在を確認して少し安心した。通信手段をうばわれてないってことは、俺はべつに誘拐されたわけではないらしい。成人男をつかまえて誘拐というのも変な話だが、意識を奪われている間に勝手にこんな場所に運ばれたという一連の流れだけを見れば立派な拉致である。俺んち身代金払えるような家じゃねえんだけどな。
幸か不幸か、身代金目的でないことだけは確かだ。なぜわかるかって。そりゃ、こんなことをした張本人がそう言ってたからだ。青柳の目的は金じゃない。俺自身だってな。
順を追って話そうか。俺がみすずさんの制止を聞かずにジイさんの家を飛び出して、病院へと車を走らせているところからだ。
住宅街の一本道を制限速度オーバーで走り抜ける途中、着信音が鳴った。あきちゃんかもしれない、と画面を確認しようとして、使わない灰皿に固定したスマートフォンへと手を伸ばす。一瞬、前方から目を話した隙に、左後方から出てきたバイクが目の前でUターン。とっさに踏んだブレーキの音が耳をつんざく。バイクのブレーキ音も混ざっていたのかもしれない。車のナンバープレートとバイクのタイヤが接触するスレスレのところで、
「……っぶね」
危うく事故になってしまうところだ。なんて馬鹿なことをするバイク野郎だとフロントガラス越しに乗り手を確認すると、ちょうどフルフェイスのヘルメットを脱いだ男と目が合った。男はそのままバイクを降りて、運転席の窓ガラスを叩く。
俺はそいつの顔を知っていた。痩せた体にくすんだ金髪頭、眼光の強い目は昔から変わらない。
「車から降りろ、吏一」
「リョウ、さん……なんの真似っすか。俺いま急いでるんで」
窓を開けたのが最初の失敗だったのだろう。窓の隙間から手をつっこんだ浅井リョウは、ロックを勝手に解除してドアを開く。降りろ、と同じことを二度は言わずに、顎でしゃくって促した。状況はまったく飲みこめないが、こういうときのリョウさんには逆らわない方がいいと知っていたから、俺は渋々と――念のため、スマホをズボンの後ろポケットに突っ込んでから――外に出る。
「何の用ですか」
俺が車から降りた途端、リョウさんはにやりと機嫌のいい笑みを見せる。これはあまりよくない兆候だ。リョウさんは面倒見のいい先輩だったが、たまに有無を言わせぬ無茶振りをしてくることがある。案の定、
「ちょっと協力してくんね? お前を必要としてる人がいるんだわ」
「いや、ケンカはもう何年もやってないですし、急いでるんでまた今度ってことで」
とにかく逃げようと運転席のドアに手をかけようとした時だ。
「ちげーよ、吏一。これはビジネスの話だぜ。青柳さんがお前をほしがってる」
リョウさんの口から思わぬ名前が飛び出して、俺は困惑する。逃げる手を止めて振り返ると、彼はさらにたたみ掛けるように言った。
「あの写真見ただろ? 交渉しようって言ってんだぜ」
写真。泣いているあきちゃんの写真。ジイさんのパソコンに送られてきたウイルス付きの添付写真。
「テメェがあきちゃんを……ッ!?」
胸ぐらをつかもうと繰り出した手よりも、リョウさんの足のほうが早かった。腹部に硬いブーツの爪先を抉るようにぶち込まれて、痛みよりもショックに声が出なくなる。
「暴力はよくないぜ、吏一」
どっちが、と文句を言う前に今度は背中に重い一撃を食らい、俺の意識はそこで途切れた。
最初は脅して大人しくさせて連れてくるつもりだったのかもしれない。そんな回りくどい真似、リョウさんはきっと途中で面倒くさくなったのだろう。喧嘩っ早い先輩の思考は容易に予想できる。
あきちゃんは無事だろうか。青柳多聞が彼女に手を出すなら――思い出す狐のような面に沸き上がる腹立たしさをぶつけるように、ぐっと拳に力を入れて部屋の白い壁を殴りつけた。
ともかく、彼女を脅しの材料にしてくるなら、俺が大人しくしているかぎりはきっと無事だろう。リョウさんは無茶苦茶する人だが、理に適わない事はたぶんしない。
それよりも今は、スマホの着信履歴に残る名前のほうが気になった。車を運転しているときに鳴った電話だ。残念ながら発信元はあきちゃんではなかったが、このタイミングで連絡があることを不審に思う程度には関係者だ。リョウさんと青柳家がつながっているのならば彼女もきっと、無関係ではないのだろう。
玄関につながる扉の向こうに誰もいないのを確認してから、電話をかけ直す。今のうちに部屋から逃げ出す手もあったが、どうせ今ここから逃げてもリョウさんはまた来るだろうし、俺が逃げることであきちゃんをわざわざ危険にさらすこともない。呼び出しコールは一回でつながった。
『もしもし吏一君!? 大丈夫!?』
出るなりものすごい勢いで安否を確認する声は、彰子さんのものだった。
「一応大丈夫ですけど、なんで? 彰子さん何か知ってんの?」
『一応? 大丈夫ならいいんだけどね、うちの兄が吏一君と、あのセーラー服の子のこと探ってるみたいだったから、ちょっと気になって。最初は佐々倉絡みかと思ったんだけどそうじゃないみたいなのよね。青柳家ってわかる? 三島はそこの分家に当たるんだけど、本家の指示で動いてるみたいで。私も詳しいことは分からないけど、変なことになる前に一応知らせておこうと思って』
なるほど。そういうことか。確かに「三島」の名前は里中さんの見せてくれた系図のなかにもあった。
「ありがとう、彰子さん」
でも、もう遅いみたいだ。
玄関のほうからドアの開く音が聞こえた。足音は二つ。ほどなく俺のいる部屋の扉が開いて、一度見たら忘れられないスキンヘッドがその姿を現す。彰子さん曰く金魚のフンである浅井リョウを後ろに従えて。
「悪いが電話を切ってくれるか?」
スキンヘッド、もとい彰子さんの兄貴は意外にも紳士的な態度で俺に命じた。切らなければ後ろに控えるリョウさんが迷わず飛び出してきそうではあったが。言われた通りにしてスマホを後ろポケットにねじ込む。彰子さんに今の三島兄の声が聞こえていれば、勘の良い彼女のことだ。何が起こったか察してくれるだろう。
「リョウが手荒な事をしたようですまなかったな。こっちとしてはきちんと話をした上で納得してもらってから着いてきてもらうつもりだったんだが」
「脅して納得させんなら同じことだろ」
あきちゃんやジイさんを盾にとっておいて、何が話をした上で、だ。殴られて気を失っているうちに拉致されるのと何が違うんだ。俺の反論に、三島兄は冷静だった。
「そう取ってもらってもかまわない。――挨拶が遅れたが、俺は三島大貴。青柳の代理で話をさせてもらう。正式な仕事の依頼だ。そう悪い話ではないと思うがな。堂本の長老にとっても、君自身にとっても」
「だったらなんでジイさんをあんな目に遭わせんだ?」
「あの人はこちらの話を一切聞かずに妨害するからだ。本当は、やろうとしていることは非常に似ている。ただ、こちらは月並町のすべての魔法使いのためにビジネス化しようとしているだけだってのに、どうも金儲けが気に入らないらしい」
仕方がなかった、と言う三島大貴の表情はサングラスをかけているせいで読みとりにくかったが、大袈裟に眉を顰めたことだけはわかった。
「堂本の長老に直接手をくだしたのは俺ではないが、君の協力が確認できればすぐに目を覚ますと聞いている」
俺が納得のいかない顔をしていたからだろう。三島はそう付け加えると、それで、と本題に入ろうとする。
「待てよ。青柳家がジイさんを眠らせるように指示したのは間違いないんだな。写真は? ジイさんのところに送られてきた写真は誰が撮ったんだ?」
サングラスの向こう側の三島の表情はやはり読めない。首を横に振って肩をすくめただけで。
「俺は知らない。べつの者が関与しているということしか聞かされていない。悪いな」
淀みのない返答に、嘘をついたり隠しだてをしている様子はなかった。そもそも今さら嘘をつくメリットがあるとも思えない。あきちゃんを泣かしたやつはまた別にいるってことか。
「話を進めさせてもらうぞ。君には、アオヤギグループが立ちあげる月並町雇用活性化事業に協力してほしい。早い話が魔法使いの派遣会社だ。魔法使いであれば誰でも登録して働ける体制をつくる。それぞれの力を最大限に活かせる場面で、最大限に使うことができる。もちろん、力量と仕事内容に見合った報酬を出す。ボランティアで爆破予告現場に行くなんてバカな真似はもうしなくてもいい」
嫌味を含んだ言葉に、頭に血がのぼりかける。しばらく黙って聞いていようと思っていたのだが、つい口が出てしまう。
「やっぱりあれもてめぇらの仕掛けかよ」
「そうだ。君の魔法が本物かどうか確かめさせてもらうために打った作戦だ。君のことは前から目をつけてたんだが、どういう力を使うのか確証はなかったからな。魔法使いを見つけられる力がある君なら、月並町内のすべての魔法使いを見つけ出してスカウトすることができる」
「無理だな。いつも見えるわけじゃねぇし、人が多すぎると見えにくいし、ある程度距離が近くねぇと見えねぇし。町ん中いちいち探して歩けってのかよ。面倒くせぇ」
「そうか? 何キロ離れたところにいても大勢の一般人の中から数人の魔法使いを見つけ出せるようになれば問題ないだろう。すぐにそうなる」
吐き捨てるように言った言葉を、三島はいとも簡単に否定してみせる。確かな自信とともに。
「信じられないか? 青柳はそういう力を持っている。魔法の力を最大限に引き出す力を。誰の魔法でも、だ。『それぞれの力を最大限に活かせる場面で、最大限に使うことができる』と言ったのは正しくそのままの意味だ」
魔法の力を増幅させる。言葉として理解はできても、具体的に力を使っている場面は想像しにくかった。あきちゃんの力を最大限に引き出したら、あれよりさらに強くなるってことか?
「賛同する魔法使いはもう何人か集まっている。彼らだけで事業を立ち上げてもいいが、どうせならば使える力は多いほうがいいだろう。人材集めに協力してくれないか。もちろん、学生の間は学業に専念してもらってかまわない。大学卒業後はアオヤギグループの傘下企業に正社員として採用する用意もある」
この就職難の時代に地元大企業への入社切符までつけようというわけだ。なるほど。悪くはない。もとよりジイさんとあきちゃんを人質にとられている身だ。選択権はないのだろう。何より、これまで大して役に立たないと思ってきた自分の魔法を活かす場所がそこに用意されている。俺自身のメリットも、大義名分も、わざわざ用意してくれちゃって有り難いことこの上ないな、まったく。
だけどな、
「断る」
きっぱりと言い切る返答に、三島の眉毛が大きく動いた。
「つっても断らせてくれないんだろうな。あきちゃんとジイさんのことがあるもんな」
「わかってるじゃないか」
「どうせほかの魔法使いにも選択肢なんかハナから与えないつもりだろ? 派遣会社だなんて言っといて、俺の力で魔法使い探し出して、そいつの力があんたらにとって利用価値が高けりゃ今みたいに説得するんだろ? 無理矢理に登録させて働かせるんだろ? そいつは魔法使いを駒として使うためだけの管理システムだ。ジイさんとやろうとしてることは同じっつってたけどな、ジイさんが目指してたのはそんなんじゃねぇよ!」
ジイさんならば決して彼らの意見に賛同しないだろう。金儲けが気にくわないとかそんな理由じゃない。理念が、決定的に違うのだ。
――魔法使いはひっそりと暮らしていくべきだ。しかしわれわれの力が誰かの役に立つのならば、その力の行使を決して惜しみはしない。
JYMにはジイさんの理念があった。
魔法の力は決して万能ではない。マイナスに働くことだって少なくない。たとえば今すぐに魔法が使えなくなったって俺は困らないし、むしろ大歓迎だ(運転中にサングラスをかけられるようになるし、コンタクトを入れなくても眼鏡をかければ済むようになる)。力があるせいで、困ったり悩んだりする人だっている。佐々倉先生だってそうだ。彼は自分が魔法使いだってことを知らないが、対処に悩んでいた。そういう魔法使いを知っているから、ジイさんはJYMを立ち上げたんだ。誰かのために力を使えるなら、魔法使いでいることも悪くない、とみんなが思えるうように。里中さんのように、力を持ってしまった子供たちが上手く魔法と付き合えるようにサポートを買って出る人もいる。俺も、自分のできる範囲で――あきちゃんの恋を手伝ったりとかそんな程度だけどな――魔法を使ってきた。
「せっかく手に入れた力だ。どうせなら大きなことに使いたいと思わないのか?」
「力を使いたい奴ばかりじゃないだろ。あんたはなりたくて魔法使いになったのか?」
三島兄は何も言い返してこなかった。相変わらずサングラスで隠れた両目からは何の感情も読みとれない。ただ、リョウさんが遅々として進まない話し合いに苛立っていることは非常にわかりやすかった。立ったままで貧乏ゆすりとは器用なことだ。
この人はたぶん二、三発殴ってさっさと言うことをきかせればいいとか思ってるんだろうな。殴られるのはご免なので、俺は話を先に進めることにした。こちらが何を言ってもどうせ俺の力を利用したいんだろう。あちらさんは。
「いいよ、もう。三島さんは代理人なんだろ? 俺が多聞と直接話をつける」
こんな周りくどいことをしなくてもいいじゃないか。本人と話して説得できるかどうかはわからないが、俺は賛同しないってことをバシッと言ってやる。それでも向こうがあきちゃんやジイさんに何かするっていうならその時は……そこまでは正直まだ考えてねぇけど。
てっきりダメだと言われるのかと思ったが、二人とも妙な表情のまま返す言葉を忘れたように、口をぽかんと開けて固まっている。驚いて、声が出ないと言った風だ。
「……多聞だと? 多聞ってまさか……吏一っお前、青柳多聞を知ってんのか!?」
リョウさんがこの部屋に入って初めて口を開いた。信じられない、と言いたげに。どういうことだと尋ねかけた俺よりも先にスキンヘッドが口を割りこませた。
「多聞は関係ない。お前が協力すればそれでいい」
「え、でも多聞がいるなら話が変わってくるんじゃないッスか?」
「いいから黙ってろ!」
スキンヘッドの一喝に、リョウさんがしゅんと大人しくなる。なんだ? どういう意味だ、このやりとり。こいつらのボスは青柳多聞ではないのか。
完成間近だと思っていたジグソーパズルを途中で引っ繰り返された気分だ。わかったつもりでいた謎が、一回転して戻ってきた。もしかして俺は、何か大変な読み間違えをしてるんじゃないのか。
それ以降、俺が何を言っても、青柳多聞に関する質問は三島にすべて無視された。
「今度俺たちの雇い主に会わせよう。実際に力を開放されてみればきっと気が変わる」
次の約束を勝手に取りつけられてから、俺は解放された。
外に出てみると、そこは町を囲む山の中腹に建設されたばかりのマンションだった。当然ながら青柳のグループ会社が不動産業として手掛けている物件だ。やたらと広い駐車場に停められていた俺の車は、きっとリョウさんが運んだのだろう。駐車の仕方が乱暴だったから絶対そうだ。
青柳多聞に会わなければ。
その前に里中さんに連絡するのが先か(きっと心配している)。彰子さんにももう一度電話するべきだろう(三島大貴について何か聞けるかもしれない)。
あきちゃんには――泣きそうな声で俺に助けを求めてきた彼女の顔を思い出して、なにも告げないことに決めた。