君がいない夏(7)
英語は終わった。現国も。化学と数学はもう少し。あとは日本史が残ってる。だってプリント広げるたびに先生のこと思い出すんだもん。
夏休みももう終盤。宿題の追い込みに入らないといけないのに。
成績は悪くないよ。特別良いわけでもないけど、授業とテスト前の勉強をちゃんとやってるから、大丈夫。セーラー服を着て勉強すると集中力もアップするしね。
夏休み中はそれができなかったのはちょっと辛かったけど、だからって宿題ができないほどじゃない。
隣の直登君もやっぱり同じように、夏休み帳の最後の数ページに挑んでいる。
そういえば、美佳ちゃんは……?
みすずさんもいない。
あの台風の日の後、美佳ちゃんはずっと喋らない。もともと口数の多い子ではないけど。
チャイムの音が鳴る。
宿題の時間は終わり。
直登君が待ってましたとばかりに教室を飛び出して行く。このあとは、直登君がテレビゲームをしてもいい時間だ。
私は、いつもなら本を読んだり直登君と一緒にゲームしたりするんだけど、今日は約束の日だから。
久しぶりのセーラー服。襟を整えて、スカーフを緩めに結ぶ。背筋が伸びて気持ちがしゃきっとする。夏ばて気味でだるかった体が嘘みたいに軽くなる。
鏡の前でくるっと一回転。スカートがひらりと舞って、気分も上がった。
「よし!」
みすずさんたちに見つからないように、そっと校舎から出る。大丈夫かな。見つかってないかな。
校舎をちょっとだけ振り返ったら、二階の廊下の窓のところに、小さな人影が見えた。あれ、美佳ちゃん――?
なんであんなところに。
あ、こっちに気づかれた。
みすずさんに言っちゃうかな。お願い、黙ってて。人差し指を口元に立てて内緒の合図。
美佳ちゃんがどう受け取ったかはわからないけど、私はくるりと背を向けて裏手の森に入っていく。
セーラー服の足取りはとっても軽い。スカートを木に引っかけないようにそれだけ注意して、私は小走りに川を目指す。心臓がドキドキしてる。悔しいけど、認めたくないけど、すごく、ドキドキしてる。
そっか。私、コウ君に会うのが楽しみなんだ。コウ君は、『あきちゃん』として私が会える、数少ない同じ年頃の男の子。魔法使いだってことも、学校も抜きにして、話ができる男の子。今までにはいなかった。だからきっと、気になっちゃうんだ。
約束の川辺まであともう少し。ってところで、
「おい、ンな格好で何してんだ!」
呼び止める大きな声。
びっくりして足を止めた。
「堂本さん……」
「どこ行く気だ?」
怖い顔して、大股に歩いて距離を詰めてくる。
「……あなたには関係ないです」
「話聞いてたンじゃねーのか? 勝手なコトされるとこっちも困るンだよ」
話って、堂本さんとみすずさんが話してたこと?
魔法を使わない方がいいって。
「でもっ」
どうして使っちゃいけないのかを聞いたわけじゃない。だから、そんなに怒るほどダメなことだとは思わなかった。
「でもじゃねぇ! 帰るぞ。早くソレ脱げ」
「えっ!? うわっ離し……!」
堂本さんが強引に私の腕を引っ張る。強い。セーラー服を着てるのに、振りほどけない。
「離してって!」
「ウルセーな……」
私は踏ん張って耐えてみるけど、堂本さんのほうが力は上だった。なんなのこの人! おじさんのくせに!
ダメだ。引きずられる。
その時、パチリと乾いた音がした。
シャッター音?
「誰だ!?」
私の斜め後ろで草葉が音を立てる。逃げる足音。その方角に、堂本さんが怒鳴った。捕まれていた腕の力が緩む。その隙に、私は走った。
あの方角には、川がある。コウ君との約束の場所が。
嫌な感じだ。
立ち並ぶ木をぬって、逃げる黒いスーツの後ろ姿を捉える。
「おい! 深追いすンな!」
後ろから堂本さんの声がした。
大丈夫。追いつける。
だって、セーラー服を着てるんだもの。
あと数メートル。逃げる男の上着を掴まえる。男はあっさりと袖を引き抜いて、夏に着るには暑そうな黒スーツの重たい上着を捨てた。
「わっ!?」
捉えたと思って失速した私は、またわずかに引き離される。
それなら――
再び追いついて、今度は間髪入れずに足を振り上げた。直前で気づいたスーツの男が振り返る。顔を拝んでやろうと、キックを繰り出しながら注視する。だけど私の目に映ったのは、
「えっ?」
狐!? の、お面?
男の顔に張り付いた、糸のように目の細い狐の面。盆踊りでよく使ってるやつだ。
お面に気を取られたせいで、私の蹴りは男の下顎辺りをかろうじて掠めただけで、空を切った。
着地で体勢を崩す。ああもう! すぐに立ち上がろうとしたところで、男の手元で何かが光った。反射的に目を閉じる。男が手に持っていたインスタントカメラのフラッシュだと気づいた頃にはもう、男との距離は大分空いていて。
このまま道路に出られたら――車を用意されてたら。
「大丈夫か?」
「平気です!」
追いついてきた堂本さんと言葉を交わす。その時だ。
すぐにまた走りだそうとした私の横を、一瞬だけ、ものすごく強い風が通り抜けた。
風、じゃない。
「ええっ!?」
箒? と、
「……美佳ちゃん?」
空飛ぶ箒と、それにまたがる少女はあっと言う間に男に追いついて、男の手からカメラを奪い取る。きっと、男も油断していたんだ。美佳ちゃんがその隙を上手く突いた。
にしても、箒で空を飛ぶなんて――
「すごい……魔法使い、みたい……」
「みたい、じゃねぇだろ。ったく、美佳までホイホイ魔法使いやがって」
堂本さんは、本当に怒ってるみたいだった。口調はいつもどおりだけど、怖い顔。
「あぶねーだろ!」
すぐにUターンして戻ってきた美佳ちゃんを、堂本さんは一喝する。そんなに怒鳴らなくても……ほら、美佳ちゃんも泣きそうになってる。
でも、すぐに頭にぽんって手を乗せて、
「ありがとうな。でも無茶すンな」
びっくりするくらい優しい顔で笑う。
「待ってろ、様子見てくる」
「私も行く!」
「ダメだ。ガキはすっこんでろ」
主張してみたけど、あっさり却下。堂本さんは私と美佳ちゃんを残して男を追った。この先は急斜面の下りになっていて、車の通れるアスファルトの道路まで道が続いている。
というか、あの狐面の男はどうして私たちの写真なんか――。
魔法使いだから? でも、私の写真なんか撮ったってどうしようもないはずだ。私はただの高校生。大体、あの場所からだったら私なんて後ろ姿しか写ってない。
あれ?
じゃあ、何を撮りたかったんだろう。
答えにたどり着いて、背中がぞくっとした。
写されたのは、たぶん、私じゃない。
「……堂本さんだ。美佳ちゃん、一人で校舎に戻れる? みすずさんにさっきのこと話してくれる?」
「あき、ちゃんは……?」
美佳ちゃんが初めて私の名前を呼んでくれた。
「私は堂本さんを助けに行く」
美佳ちゃんは堂本さんのことが好きだから、それを聞いて素直に頷いた。
よし、全力ダッシュだ。
この森は小さい頃からずっと私の遊び場なんだから。お姉ちゃんと一緒に日が暮れるまで隠れん坊したり、川でスイカを冷やしたり、カブトムシを捕まえたり。迷子にだって何回もなってる。だから、よく知ってるんだよ。
道路まで出る山道は一本じゃない。獣道をショートカットすれば、ほら、すぐにアスファルトが見える。
道路に立っている堂本さんの姿を確認する。見失っちゃったのかな。
緩やかに下る道の先には急なカーブがある。カーブミラーには、男の姿はなかった。
あっさり逃げてくれたなら、そんなに心配する必要もなかったのかなって、思った時だった。
山の道にはカーブがたくさんあって、それは上り方向も同じだったんだ。男は、たぶんその曲がった先に車を止めていたんだと思う。
急にカーブから飛び出してきた車は一直線に坂道を下る――堂本さんのほうに。
セーラー服を着た私の体が、勝手に動く。
山の斜面を利用して、飛ぶ。
宙を駆けるようにして、堂本さんの体に思いっきり体当たり。
道路から押しだされるようにしてガードレールのところにぶつかった堂本さんが、私を見て口を開く。「危ない」と言ったのかもしれない。だって、私がいる場所は、ちょうどさっきまで堂本さんが立っていた場所で。
エンジン音が近づく。フロントガラスの向こう側、運転席にはっきりと狐の面が見えた。
それを確認してから、もう一度、飛ぶ。
あ、失敗――!
宙に浮いた私の体の下を、猛スピードで車が通過する。
あと一歩遅れてたら、完全にひかれてた。
妙に冷静に考える余裕があったのは、落下までにやたらと時間がかかったからなの。……あのね、飛びすぎちゃった。
しかも、落下点まで間違えた。大きな木の枝に着地した私は、ついでにその高い場所から車の行方を追ってみたけど、無駄だった。カーブを過ぎたらすぐに見えなくなっちゃって。どっちにしても山は一本道だから、車の行き先が月並町だってことは変わらないんだけど。
「おい」
木の上にいる私を堂本さんが呼ぶ。相変わらずぶっきらぼうな口調で、
「トランクス見えてンぞ」
「きゃあああ!」
ああもう! この人ってばどうしてこうなの!
ていうか、見られた。知られた! 最悪だ。泣きそう。
でも、堂本さんはそんなにびっくりしてないみたい。
もしかして、知ってた?
ああ、そうか。私の魔法を知ってるんだから、みすずさんが一緒に話をしててもおかしくはない。
地面に飛び降りた私は、堂本さんとどんな顔をして話せばいいのかわからない。
「助けられたな。ありがとう」
堂本さんでも、お礼、言うんだ。いつも偉そうなこととか嫌みとかばっかり言うから、意外だった。
「どういたしまして」
つい、その顔をまじまじと見てしまう。
「あの、さっきのは……」
「俺の周りを嗅ぎ回ってる連中だろ。巻き込んで悪かったな」
「じゃあ、魔法使いは関係ないの?」
「さあな。心当たりが多すぎて、そっち絡みなのか会社絡みなのか家絡みなのかわかんねぇ」
「何それ」
呆れた。もしかしたら、死んでたかもしれないのに、けろっとした顔で言うんだもん。
「堂本さん、私がいなかったら死んでたんだよ!」
「あン? 今さら恩売ろうってンのか?」
「そうじゃない、けど……」
そういう言い方をされると腹が立つじゃない。私の言葉をどう受け取ったのか知らないけど、堂本さんは、じゃあ、と一つ提案する。
「借り作ったままじゃ気持ちワリーから、イイこと教えといてやるよ」
「いいこと?」
尋ね返した私に、堂本さんはニヤリと笑った。
「もしお前に何かあって、どうしても困った時は、『公衆電話』を探せ」
「へ?」
きょとんとしてしまう。
だって、携帯電話があるんだよ。今の時代、公衆電話なんて誰も使わない。っていうかよく考えたら私、一度も使ったことがないかも。
堂本さんはそれ以上の説明をしてくれなかった。その視線は、私を飛び越えて道の向こう側に向けられている。振り返って見てみたら、校舎の方角から小走りにやってくるみすずさんがいた。
すっごく心配そうな顔で、息を切らして。
もう一度、堂本さんの顔を見た。皺の刻まれた目元が酷く悲しげで、愛おしげで、みすずさんを見ているその表情に、ぐっと胸がつっかえる。
知ってるよ、こういう顔。
私、わかっちゃった。だって、隠しもしないんだもん。この人、無意識なのかな。だとしたら、私も周りにバレてるのかもしれない。先生を見ている時の顔が、こんな表情だったら。
つまりね、この人は、私と一緒なんだ。
「みすずさんのこと、昔から好きなんですか?」
走ってくるみすずさんへと視線を向けて、尋ねてみた。みすずさんがここに辿り着くまでにはまだ少し、距離がある。
「諦めようって思ったこと、ないんですか?」
反応を待たずに重ねて問う。
「学生のころ、ほかの人を好きになったことは?」
ゆっくりと堂本さんを見上げる。思いのほか、疲れている大人の男の人の顔があって、哀れに思った。
「ある」
小さく、乾いた唇が動く。感情を伴わない声だった。
「そう、ですか」
それでどうなったかは聞かなかった。どうにかなってたら、きっと今、堂本さんはここにはいない。
私は、どうなるのかな。
ほかの誰かを好きになるのかな。
誰か……。ふっと浮かんだ顔を慌てて打ち消す。
コウ君はそんなんじゃない。写真を撮らせてあげるだけ。
そう、私はまだ先生の事が好きで、どうしようもなく好きで、今はそれでいい。みすずさんが教えてくれたから。
夏休み明けの教室で先生の顔を見るのは辛いかもしれないけど、三島先生を見て苦しい思いをするかもしれないけど、それでも好きなんだから。それくらい好きな人なんだから、しょうがないよ。
今はゆっくり向き合っていこう。例えば、次の恋が始まるまでは、焦らず、ゆっくり。
だけど恋に障害は付きものみたいで、私はコウ君に会うことができなかった。
事件の後、すぐに川辺に行ってみたけど、コウ君の姿はなかったんだ。しばらく待ってみてもダメで、次の日も、その次の日も、夏休みの最後の日になっても、コウ君は来てくれなかった。
何かあったのかなって心配して、もしかしたら冗談だったのかなって傷ついて、でも、ほっとしてる私もどこかにいて。
こんな時、おジイならどうするんだろう。わからないことがあると、私はいつもおジイに聞くの。おジイは皺だらけの手は軽快にキーボードを叩いて、あっと言う間に答えを見つけ出しちゃうんだよ。
もちろん、おジイ自身が教えてくれることもたくさんある。
答えをくれないこともあるんだけどね。そんな時は代わりに、答えを導き出す方法やヒントを教えてくれる。
だから、早く。早く、おジイに会いに行かなくちゃ。
何から話そうかな。
先生のこと、コウ君のこと、堂本さんのこと、みすずさんのこと、美佳ちゃんのこと、直登君のこと、魔法使いのこと。
私は走って喫茶またたびに向かう。駆け抜ける商店街は、夏休みの最終日だからかな。いつもより人が多いみたい。
それに、開いている店が多い?
夕方にはいつもシャッター街みたいになってるのに。あれ? あんなところにカフェなんてあったっけ?
新しくできたのかな。
こっちも、今までなかったよね、クレープ店なんて。コンビニの隣にも新しいうどん屋さん。
何か変だ。
町が、変わってる。
私がいない夏の間に、知らない町みたいに。
足取りを急がせる。
ああもう! だからセーラー服ならもっと早く走れるのに。
しょうがないんだ。
念のため、あの後もなるべく魔法を使わないことに決めたから。
特に危ないことはなかったんだけどね。
現像に出したインスタントカメラに写っていたのは、私と堂本さん、それから、不意打ちのフラッシュをたかれた時の私のびっくりした顔。
ほかには何も写ってなかったらしい。っていうのは、後から堂本さんから聞いた話だ。
喫茶またたびの赤い屋根が見えて、私はやっと、帰ってきた気分になる。
もちろん、本当の家には先に帰って荷物だけ置いてきてるよ。お母さんにしか会ってないけど。
お姉ちゃんはお盆を過ぎてしばらくしたら一人暮らしの部屋に帰ったみたい。顔を合わさずに済んで良かった。
いつもどおりの喫茶店の古びたドアを開ける。いつもどおりのマスターが私を迎えてくれる。コーヒーの香りと一緒に。
いつもの定位置――デスクトップパソコンのある席に、いつもどおりのおジイの姿――を探す。
いつもの場所には、空っぽのイスと、電源の入ってないパソコンが置いてあるだけ。
「マスターっ……おジイは!?」
走ってきたせいで息が切れてる。呼吸を整えるよりも先に尋ねる私に、マスターはちょっと困ったような顔をして、首を横に振った。
おジイがいない。
この夏はいろんなことがあったけど、私にとってはこれが一番の大事件。
夏休み最後の日。
おジイが、私たちの前から姿を消した。
君がいない夏シリーズはここで終わり。
え、ここで?という感じですが終わりです。
こんな終わり方なので次の話はなるべく早くに入りたいな、と思いつつ、秋に追いつかれないように頑張ります。