君がいない夏(5)
コウ君に会いに行こう。
そう思っていたのに、その思いはなかなか叶えられなかった。盆踊りの準備に忙しかったんだよ。
準備っていうのは、町内会たちの人たちと一緒にやぐらを組み立てたり、テントを立てたり、荒れ果てたグラウンドの草をむしったり、外の花壇を綺麗にしたり、飾り付けをしたり、そういうこと。
力仕事がメインだから、準備の時だけはセーラー服を着ようと思ってたんだけど、堂本さんとその取り巻きみたいな人たちがたくさんやって来て、重いものを運んだり組み立てたりを全部やってくれた。おかげでセーラー服の出番はなし。
「私、手伝わなくても大丈夫かな」
花壇の手入れをしながら、それでも人手はあったほうがいいんじゃないかと思って、一度だけみすずさんに聞いてみた。
「いいのよ。あの人は自分がやりたいだけなんだから」
返ってきたのは、どこか突き放すような答え。
「あの人は魔法が嫌いだから、できることなら魔法使いには関わりたくないって態度で、私がこうやって小学校で魔法使いの子供たちを受け入れているのも嫌がるんだけど、本当は凄く気にしてるの。堂本の家に生れた以上は、無視もできないしね」
「魔法が嫌いって……堂本さんは魔法使いじゃないの?」
よくわからない。自分の魔法が嫌いって人は初めてだ。
「魔法使いよ。でも、昔から自分の魔法が嫌いみたい。私は、彼の性に合ってると思うんだけどね」
みすずさんは忙しくスコップで土を掘りながら、私の問いに答えてくれる。
魔法使いになるのには、きっかけがある。私の場合は、お姉ちゃんのことが羨ましくて凄く妬ましかった時期に、お姉ちゃんのセーラー服を着てしまったこと。
魔法使いになるのは一定のストレスが必要なんじゃないかっておジイは言ってた。魔法の道具との巡り合わせもあるけど、魔法が現われるかどうかはその時の心が色濃く反映されるんじゃないかって。だから、「魔法」は大抵の場合、使う人にとても合ってるはずなんだ。
体が弱くて引っ込み思案だった私を変えてくれたセーラー服の魔法。私は、好きだよ。
「どういう魔法?」
「本人に直接聞いてみたら?」
たぶん教えてもらえないだろうなと思ったけど、やっぱりそうだよね。
魔法使いの不文律。
魔法のことを人にあまり話さないほうがいい。魔法使い同士でも同じだ。
「あ、でもあきちゃんの魔法のことは知ってるでしょうから、フェアじゃないわね」
「えっなんで知ってるの!?」
「堂本の人間だから、かしら」
「あ、そうか……」
納得、しちゃった。
堂本家は、月並町の中ではちょっと有名な旧家だ。魔法使いがたくさん生まれているっていう意味で。おジイの名字も堂本だった気がするし――いつもおジイって呼んでるから記憶があやふやだけど、たぶん合ってる――、宮司家も元を辿れば堂本の分家に当たる。
「でも、別にいいや」
堂本さんの魔法の秘密を、そこまで知りたいかと問われるとノーだもの。堂本さんって人の神経を逆なでするようなちょっかいの出し方するから、話すと売り言葉に買い言葉で喧嘩になっちゃうし……。つまり、あまり関わりたくないってこと。
「悪い人じゃないのよ」
みすずさんはちょっとだけ肩を竦め、おざなりにフォローめいた言葉を口にした。
祭りの準備に追われていれば、一週間なんてあっという間。
八月十五日――本番の日はすぐにやってきた。
思い思いのお面をつけた人たちがやぐらの周りに円を描いて、音頭に合わせて踊るのがこのお祭りの定番。お面は必ずつけなきゃいけないってわけじゃないんだけど、月並町ではつけない人のほうが少ないみたい。狐や鬼のお面もあるけど、小さい子はアニメキャラクターのお面でカラフルだから見ているだけでもちょっと楽しい。
月並小学校の小さなグラウンドが、今夜ばかりはそこそこ多くの人で埋め尽くされる。
私は綺麗になったベンチに座って、ぼうっとそれを見ていた。
仮面ライダーのお面をつけた直登君がおかめのみすずさんに綿菓子をねだる。その隣で、ドラミちゃんの美佳ちゃんはいつも通り静かだ。
私には、その中に入っていく気力がない。準備で疲れてるのもそうなんだけど、セーラー服を着ていないせいで元気が出ないのもそうなんだけど、そうじゃなくて。
「おい、折角の祭りだってンのに何やってンだ」
声が頭上から降ってくる。乱暴なその口調も大分聞き慣れてきた。堂本さんだ。
「ちょっと疲れてるだけです」
応える声もぶっきらぼうなものになる。
堂本さんは興味のなさそうな相づちを打った後で、隣に立ったまま私を見下ろして一言。
「孫にも衣装ってヤツだな」
言うと思ったけどね!
そんな挑発にはもう乗りません。ここ数日でわかったんだ。この人の言動に反応したら負けなんだってこと。
「堂本さんが選んでくれたんですよね。ありがとうございます」
無理矢理にっこり笑顔を作ってお礼を言ってやる。相手が子供みたいに来るのなら、私が大人の対応を見せてあげる。って、やってみたのはいいんだけど。
「やっぱり青で正解だな」
急に満足そうに笑うから、ちょっと困った。
私に似合う色、選んでくれたのかなぁって。もっと、ちゃんとお礼を言わなくちゃいけない気がするじゃない。
「あのっ」
「知ってるか? 浴衣とか着物は寸胴のほうが似合うんだぜ」
ああもう。なんでこの人ってこうなの。
前言撤回。
「堂本さんって絶対独身でしょう!」
こんな人のこと好きになる女の人、いるわけがない。絶対に。
「キスもしたことねぇガキがわかったようなコト言ってンじゃねぇよ」
相変わらず嫌みたっぷりだったけど、勢いがなかったから、たぶん私の読みは当たってる。悔しいことに堂本さんの言ったことも当たってるから、痛み分けってところ。
これ以上は泥仕合になる気がして――そうなったら勝っても負けても気分が悪くなるだけってわかってるから――何も言い返せなくなる。
ああもう。なんだか調子が出ないのはきっと、慣れない浴衣を着てるせい。
正直なことを言うとね、セーラー服以外で女の子の格好をするの、初めてなんだよ。つまり、女装ってこと。
セーラー服は私にとっては戦闘服みたいなもので、だから、気分的にはこれが初めての女装。
自分でもびっくりした。なんでこんなに恥ずかしいんだろう。セーラー服はちっとも恥ずかしくないのに、女の子の浴衣はとっても恥ずかしい。
どうしてかな。嫌なわけじゃないんだけど。
そういう感情に振り回されたのもあって、着るだけで疲れちゃったんだよ。
あと、この格好でうろうろして下手に知り合いに会っても困るしね。たぶん誰も気づかないと思うけど。
月並町は小さな町だけど、当たり前に誰もがみんな知り合いってほど田舎なわけじゃない。
今夜はこれだけ人がいるんだもん。きっと、大丈夫……
「あ……うそ……」
そうだった。これだけ人がいようとも、関係なかった。狭いグラウンドの中で、私はいとも簡単に見つけてしまう。
「せんせ……」
どうしよう。目を離せなくなる。
久しぶりに見る先生。
少し、髪を切った?
どんなに遠くからでも、その横顔は優しい。ってわかってしまう。
良すぎる視力がにくい。
違うな、盲目なんだ。
そう思ったら、急に視界がぼやけた。なのにまだ、先生を追い続けてしまう。
「どうした?」
急に黙ってしまった私に、堂本さんが怪訝な目を向けてくる。だけど私は、それにかまってられなかった。悪いけど。
先生が好き。まだ、大好き。
諦められるって、忘れられるって、どうして思ったりしたんだろう。そんな、簡単な気持ちじゃないんだよ。
私は私なりに、真剣だったんだよ。本気だったんだよ。
最初から叶わないってわかってた。それでも好きになった人だった。
気がついたら、目が追ってた。どうしようもなかった。
そうだよ。
失恋してすぐに諦めがつくようなハンパな思いで、好きになれる相手じゃない。
後から後から溢れてくる涙を止める術を知らなくて、浴衣の袖で拭う。ごめんなさい。
堂本さんは、気づいちゃったのかもしれない。
私の視線の先にいる人に。
遠くから顔を見るだけで辛いのに、どこかで、会えて嬉しいって思ってる私がいるのも事実なんだ。
前は嬉しいばっかりだったんだよ。なのに、今は苦しいよ。
前は一日中見続けてても飽きなかったんだよ。なのに、今は見続けることが苦しいよ。
だけどまだ目が追っちゃうんだ。自分の意志とは関係ないところで。
まだ先生を見ていたい。
もう先生を見たくない。
どっちも本当で、どっちを選んでも苦しいんだったら――
「……?」
揺れていた視界が、不意に真っ暗になる。
なに、これ。お面――?
堂本さんが、私の顔を隠すみたいにして、お面をつけてくれたんだってわかるのにちょっと時間がかかった。
お面に開いた二つの覗き穴から見える世界は、小さく丸い。ぐっと狭くなった視界の中にはもう、先生の姿は見当たらなかった。
「みっともねぇツラ見せンな」
堂本さんは相変わらず酷い言い様。そのくせ頭の上に置かれた手は温かくて、困る。
なんにも言い返せなかった。喉の奥が苦しくて。
まだ、ダメなんだ。
いつになったら、ダメじゃなくなるんだろう。
コウ君は言ってた。
いつか必ずそういう時が来るって。
今日でも明日でもいい。早くきてほしい。
前は、先生のことを考えるだけで楽しくて、一目姿を見るだけで一日中幸せだった。それなのに今は、苦しいよ。
好きな人のことを考えて苦しくなるのは、悲しいよ。
お面の下からぽたぽた落ちた滴が浴衣に染みを作る。せっかくのかわいい浴衣なのに。台無しだ。ごめんなさい。
だけどどうすることもできない私の膝の上に、ふわりとハンカチが落ちてくる。
堂本さんって本当は意外と、優しい……のかな。
「あ、ありがどう……ごじゃ……ず……」
「鼻水だらだらで何言ってンのかわかんねぇよ、きったねぇな」
「!? ざっぎばで、やざじがったのに……っ」
やっぱり前言撤回。口が悪いのも性格悪いのも変わってない。
「ごちゃごちゃうるせぇな、気が向いただけだ」
「うー……あ、あしだは雹でも降るんじゃないでずかっ」
悔しいから、鼻声でみっともないけど言い返してやる。
「降らねぇよ。明日は台風だ」
堂本さんはやけにきっぱりと言い切った。
予言というより断言。
変なの。台風がきてるなんて話、誰もしてなかった。
今日の時点では。
状況が変わったのは、大分時間が経ってから。
祭りが終わって、片付けでくたくたになった私が寝こけていたころ。
――近海で急速に発達した台風がみるみるうちに北上し、朝には月並町を襲うだろう。
そんな予報が入った。深夜のことだった。
堂本さんの言ったとおりだったな。
朝方、風の音で目が覚めて、みんなでテレビを見た。かなり大きな台風が来ているらしい。月並町にも暴風警報が出ていた。
「あきちゃん、美佳ちゃんと一緒に、外に風で飛びそうなものがあったら玄関の中に入れておいてくれる?」
「花とか野菜は大丈夫かな」
「大丈夫よ。強く育ててるもの」
みすずさんが力強く答えるから、そうなのかな。
「おれはおれは!?」
「直登君は私と一緒に教室中の窓が全部閉まってるか見て回るの。さあ、競争よ!」
競争と聞いて目を輝かせた直登君が一番に駆け出していく。
「美佳ちゃん、いこっか」
私が声をかけると、細っこい顎が、麦わら帽子の下で小さく頷くのが見えた。八月はもう半分が過ぎようとしてるけど、美佳ちゃんとはずっとこんな感じ。もうちょっと距離を縮めたいんだけど、私もそういうのがあんまり得意じゃなくて。
強い風に吹き飛ばされそうになりながら、私と美佳ちゃんは校舎の周りを歩く。こんな時、どんな話をすればいいんだろう。
直登君が相手なら楽なんだ。一緒に遊べばいいだけだから。美佳ちゃんはおとなしい子だから、おいかけっこをして遊ぶ感じではないし、かといって気の利いた話題も浮かばない。困ったなぁ。
グラウンドの隅に立てかけられた箒を手にとって、一本を美佳ちゃんに差し出してみる。
「これ、飛ばされちゃうかもしれないから、中に持って入ろうか」
美佳ちゃんは躊躇ってるみたいだった。黙ったまま棒立ちで、両手の拳をぎゅっと握ったまま動かない。
「どうしたの?」
麦わら帽子のつばで隠れた顔をのぞき込む。今にも泣きそうに唇を噛みしめて、どうしたらいいのかわからないって顔をしてた。
え、え、どうしよう。具合でも悪いのかな。私が何か悪いことをしちゃったのかな。
どうしたらいいのか分からないのは私も一緒で。おろおろするしかなくって。
「あっ……!」
一際強い風が吹いて、美佳ちゃんの麦わら帽子をさらってしまう。美佳ちゃんの長い髪が一緒に舞い上がって、その向こう側に、麦わら帽子をナイスキャッチした背の高い男の姿が見えた。
「小学生いじめんなよ」
昨日の今日で、どんな顔をしたらいいのかわからない。
でも、堂本さんの態度は相変わらずで。
「いじめてない!」
堂本さんは私をいつも通りにからかってから、美佳ちゃんの頭の上に麦わら帽子を乗せる。
「ほら、しっかりかぶっとけ」
美佳ちゃんは頷く。帽子の下で、小さく、ありがとうって口が動いたのが分かった。
しかも、美佳ちゃんは堂本さんの手にそっと触れる。それに気づいた堂本さんは、美佳ちゃんの小さな手をしっかりと握った。
すっごく、すっごく不思議なんだけど、美佳ちゃんは堂本さんには懐いてるんだ。下手したらみすずさんよりも堂本さんと一緒にいるときのほうが嬉しそうだ。本当に、不思議。
「台風来るぞ」
「知ってます。だから片づけしてるんだって」
つい、冷たく返してしまうけど、今はもうなんとなく私にもわかってるんだ。堂本さんが、何のためにここに来てるのか。
たぶん、この人は心配して来てくれてる。
一体何がそんなに心配なのかはわかんないけどね。
「あの、昨日はありがとうございました。ハンカチ、洗って返します」
「鼻水だらけのハンカチなんかいらねぇよ」
「だから洗って返すって……!」
素直にお礼を言ったのに、ああ言うからこう言っちゃう。せっかく堂本さんのこと見直したのにな。とか言ったらまた「誰も頼んでねぇよ」とか憎まれ口を叩くのだろうか。この人は。
話を変えよう。
「堂本さんの魔法って、天気がわかるんですか?」
ふっと湧き起こったのは――自分でも不思議だけど――そんな問い。
べつに聞かなくてもいいやって思ってたんだけどな。こうなったらなんだか気になっちゃうじゃない?
堂本さんはあからさまに嫌そうな顔をしていた。なんでそんなこと聞くんだって感じの。
「私の魔法、知ってるんですよね。だったら、私に堂本さんの魔法教えてくれてもいいじゃないですか」
「知ってどうすンだ」
「どうって……」
「利用すンのか?」
いつもの嫌味な声とは少し違う。剣を含む、低い声。美佳ちゃんが不安そうな顔で堂本さんを見上げる。
『魔法が嫌いだから』――みすずさんの言葉を思い出す。
触れられたくないのかもしれない。だけど、今さら引きさがるのも癪で。利用するなんて考えてもなかったんだけど、
「……天気がわかるのは便利そうだから使えたらいいかもしれませんけど」
首を傾げながら言ってみたら、堂本さんは深々と長い溜息を吐いた。何なの。
「お前みてぇなアホなガキにンな頭回るわけねーか」
「もうっ、いいです!」
そうやってすぐ馬鹿にするから、嫌いなの。優しくない。『先生と違う』を奥の方に押しこめる。
「昔、母親に言われなかったか? 学校行く前に、『今日は雨が降るから傘を持って行きなさい』って」
「へ?」
堂本さんが急に口を開くから、私は一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「天気がわかるのは俺の母だ」
「へー……」
「雨が降る。中入れ」
促された途端に、鼻の頭に雨粒が一つ落ちてくる。
結局、五本あった箒のうち四本を堂本さんが持ってくれて、私は一本だけ抱えて校舎の中に戻った。
やがて、雨が降り始める。堂本さんは忙しいみたいで、雨足が強くなる少し前に帰った。
聞きそびれちゃったな。
天気の魔法じゃないとしたら、堂本さんは一体何の魔法使いなのか。
「堂本さんって、何してる人なの?」
教室の窓を打つ雨音を聞きながら、なんだか宿題に集中できなかった私は世間話みたいに聞いてみる。べつに、堂本さんに特別な興味を持ったわけじゃない。
尋ねた相手はもちろんみすずさん。美佳ちゃんは図書室に行くって出て行ったし、直登君は集中力を切らしてどこかに行ってしまったから、今、教室の中は私とみすずさんの二人だけだ。
「社長さんよ」
「えっ!? そんなに偉い人なの?」
「そうねぇ……昔から頭の回転は早いし、勉強もできた子だったし、とっても努力家ね」
なんだか不思議な感じ。私の想像する社長はもっと年をとっていて、落ち着いていて、社員が困ってたら助けてくれるような人なんじゃないの?
それとも、社長だから偉そうなのかな。あの性格は元からのような気もするけど……。
「いつから知り合いなの?」
「あら、言ってなかったかしら。昔ね、私がもっともっと若かったころ、あの子の先生だったのよ」
「先生?」
「そう、担任の先生」
先生。
また、だ。
まだ思い出す。
喉の奥のほうが苦しい。吐き出してしまいたくなる。
「みすずさんは先生だったころ、生徒に告白されたこと、ある……?」
傷をえぐるようだった。みすずさんが驚いたような顔で私のほうを見てる。たぶん、私はひどく切羽詰まった顔をしてたんだと思う。
「……あったわねぇ」
遠くを見るような目でみすずさんは言った。昔を懐かしむように。
「どう、思った……?」
怖い。でも、聞いておきたい。聞いておかなきゃ。
「そうね……嬉しかった、かな?」
目元に笑い皺を作ったみすずさんが、少女のようにかわいらしく首を傾げる。
「先生ってね、生徒にとっては、親の次に身近な大人でしょう。だから、生徒の前ではきちんとした大人でいないといけない。だけど、まだ若かった私にはそれが難しくて、しんどかった。そういう時に、頑張ってる先生が好きって言ってくれた子がいて、励まされちゃったのよね」
「返事は!? なんて返事したのっ?」
「ありがとうって。先生は、君たち生徒のためにこれからも頑張るから」
同じだ。
「やっぱり、ダメなんだ……好き、なのに」
顔を見られたくなくて、机に突っ伏す。小学校の机は低すぎて、丸めた背中が痛かった。
「あきちゃんの先生は、幸せね」
頭の上に、温かい手のひらの感触。
「気持ちに答えられなくても、先生はきっと忘れないわ。本当はいけないことだけど、そういう風に言ってくれた生徒のことはやっぱり特別になっちゃうのね。ずっと、忘れられなくなるの。その生徒が卒業して何年も経っても、自分が結婚して子供ができても、先生を辞めても、ずっとね」
「私、しんどいの。先生のこと好きなのに、それだけで幸せだったのに、辛いの。諦めたいの……でも、顔を見たらだめで……もう、好きでいたらダメなのに……諦めなくちゃいけないのに……」
早く忘れなきゃ。早く。先生を好きなこと、やめなきゃ。
「ダメじゃないわ。そんな風に否定したら、しんどいでしょう」
「え……?」
「無理に諦めなくてもいいの。大丈夫。ちゃんと、諦めがつくときが来るからね。……たまに諦めきれないときもあるけど、こればかりはどうしようもないのよ」
「ええ……?」
みすずさんは意味深なことを言ったけど、それ以上は何も言わなかった。
でも、そっか。無理に諦めなくてもいいんだ。
ゆっくりと顔を上げる。たぶん、酷い顔をしてるから、乱れた髪を整えるフリをして髪を留めていたピンを外す。長い前髪で顔を隠すようにしたら、いつもの視界が戻ってきて、ちょっと安心する。ああ、そっか。夏休みに入ってからずっと「あきちゃん」だったから。盆踊りのときに先生を見つけられたのも、きっと見えすぎてたからなんだ。
しばらくこれで過ごそうかな、なんて思った時だ。
「やめろよっ!!」
玄関のほうから、悲鳴に近い声がした。直登君だ。
みすずさんが素早く立ち上がる。私も後を追って教室を飛び出して。
「どうしたの……美佳ちゃん!?」
靴箱の前で呆然としている直登君。その視線の先には、美佳ちゃんがいる。
昇降口に並べて置いていた箒を手に持った美佳ちゃんが。彼女の足下には、不自然に折れ曲がった箒が散らばっていた。
最後の一本も同じように壊そうと、美佳ちゃんは箒を床に打ち下ろす。雨と風の音が酷くて気づかなかったけど、力一杯に叩きつけられた箒は激しく痛々しい音を鳴らしていた。
「美佳ちゃん、やめよう。もう、やめよう」
みすずさんが止めに入って、その手からやさしく箒を取り上げる。
美佳ちゃんは普段の様子からは想像できないくらいに息を荒くして、箒を取り上げられた途端に泣き出してしまう。雨よりも激しく、悲しい泣き声が校舎の中に響く。
「あいつ、いじめられてんだ」
直登君が、誰に言うわけでもなく呟いたのが聞こえたけど、私にはどうすることもできなかった。
お盆が終わってしまえば、夏休みはもうあと少し。
「これ、川で冷やしてきてくれる?」
そう言ってみすずさんに託されたのは、大きなスイカ。
川って、あの川だ。
結局あれから、あの場所には行ってない。
――また会いたいな、あきちゃん。
コウ君のことを思い出すと、あの時言われた言葉が勝手に出てきて、うわーっうわーっ!
慣れてないんだよ、こういうの。
変に意識しちゃって、盆踊りの準備や先生のことや台風や美佳ちゃんのこともあってごちゃごちゃしちゃって、行くタイミングを逃したフリをしてた。
ま、行ったっていないかもしれないしね。なんて期待と不安が混じったまま、重たいスイカを持って汗だくになりながらたどり着いた川には、涼しい顔をしたコウ君がいた。
振り返った顔にびくってする。ドキッじゃないよ。たぶん。近いけど。
「あーやっと来た。久しぶり。会いに来てくれたの?」
「え、ちがっ……スイカ、冷やしにきたの!」
手に持った、破けそうなくらいにパンパンに膨らんだビニール袋を主張したら、コウ君は大笑い。
「マジで? 川で冷やすの?」
「そうよ。冷蔵庫よりも早いしすっごくよく冷えるんだから!」
あと、大きすぎて学校の冷蔵庫に入らないっていう理由もあるんだけどね。
「コウ君はまた写真撮りにきたの?」
「そうだよ」
「何撮ってるの?」
「水とか、花とか、でも人を撮るのが一番好きだ」
「こんなところ、人いないじゃない」
話をしながら、サンダルを脱いで川の中に入ると抱えていたスイカをビニール袋ごと浸けておく。持ち手のところを石で押さえて、これでよし。
「うん。だからあきちゃんを待ってた」
「え……!?」
振り返った拍子に、不意打ちのシャッター音。
「もう、なんで撮るの!」
「いいじゃん。かわいいよ。この間の泣き顔も良かったけど」
「消して! 今すぐ消して!」
でもコウ君は、嫌だよって笑うだけ。先生にフラれてからいろんな人の前で泣いちゃったけど、記憶に残るのと写真で残るのは全然違う。
うぅ、嫌だな。
「それで、先生のことは吹っ切れそう?」
コウ君はいきなり確信を突いてくる。川に足を浸けたまま、コウ君の座る石の隣に腰掛けて、私は首を横に振った。
「無理に諦めようとしたらしんどかったから、やめた」
状況は何も変わってない。これからも、先生に思いが届くことはない。だけど、私の心はずっと軽くなってた。諦めなくちゃって思ってた頃よりはずっと。
「そのうち、自然と諦められればいいかなって。それまでは、好きでいてもいいかなって」
それがいつになるのかわからないけど。
隣を見たら、思いのほか近くに、穏やかな目をしたコウ君の顔があって、少しびっくりする。
「辛い思いをせずに、自然に諦められる方法ならあるよ」
「え?」
急に真剣味を帯びたコウ君の顔がもっと近づいて、
「あきちゃん、俺と付き合わない?」
「……え、ええ!?」
今なんて言ったの? この人。
「失恋の痛手を忘れるには新しい恋が一番ってね」
「え、ちょ、っちょ……! ま、待って!」
距離の近いコウ君の肩を押し返すように手を突き出して、ストップをかける。
混乱中だから!
落ち着け私。
コウ君はちゃんと待ってくれてる。
「だって、まだ会うの2回目!」
「そうだけど、あきちゃん可愛いし、好きだよ」
うわーっうわーっ。
そんな、ストレートに言っちゃうの!?
たぶん今の私、顔、真っ赤だ。
「キスしていい?」
コウ君があまりにもさらりと言うもんだから、私は何も答えられなかった。キスって、キス?
顔、近い近い近い!
ぶんぶんぶんぶん。全力で首を横に振ってしまったら、急にコウ君が噴き出すように笑いだして、
「あはは、ごめん。冗談だよ」
あっさりと白状した。
なんてこと……。
「か、からかわないで!」
これは怒ってもいいよね。乙女心を弄びやがって!
「本気だったら良かった?」
コウ君は、心の奥をのぞき込むような問いを投げてくる。そんなものへの対処方法を私は知らない。
「ごめん。そんな顔しないでよ。あきちゃんのこと可愛いと思ったのは本当だから。正式にお願いしてもいいかな。被写体になってくれる?」
「へ?」
これまた突然の申し出にびっくりする。正式って、そっちね。
「高校最後の写真展に出す作品なんだ。でもなかなか撮りたいと思うものがなくて、困ってた。やっと見つけたんだ。どうしても、あきちゃんを撮りたい」
不意に立ち上がったコウ君が勢いよく頭を下げた。
本気、なんだ。
「一度だけでいい。もう一度、会って写真を撮らせてくれたら、もう何もしない。……好きになってたら、分からないけど」
う……。
そんなこと言われたら、協力してもいいって言いにくいじゃない。
だって、まるで期待してるみたいで。
まだ、心臓がどきどきゆってる。これは恋じゃない。びっくりしてるだけだ。
告白されるのなんて、初めてだったんだから。
「お願いします」
顔を上げたコウ君が、最後のだめ押しみたいに真剣な目を向けてくる。
私、こういう目には弱いんだよ。
「一回、だけだったら」
「本当に? ありがとう! 絶対可愛くする。約束する。あと、制服を着てきてくれる?」
「えっ!?」
何それ聞いてない。
「高校最後だから、そういうコンセプトなんだ。あきちゃんも高校生だろう?」
「そ、そうだけど……」
「どこ高校?」
「月高……」
「あそこセーラー服じゃん。ラッキー!」
すっごい嬉しそうなコウ君を見てたら今さら無理だなんて言えなくて、結局押し切られる形で被写体になる約束をした。
三日後の同じ時間に、またここで、と。
どうしよう。
セーラー服を着ないといけない。
でも、着ないって決めたんだ。みすずさんと。ここにいる間は。
「アキちゃんのセーラー服、見たいな」
コウ君は言ってくれた。
私だって、セーラー服を着たいし、そんな風に言われたらちょっとだけ見せたくなるじゃない。
そんなことをぐるぐる考えてながら帰っていたら、一つ重大な忘れ物をしたことに校舎に戻ってから気づいた。
「あれーあきちゃんスイカはー?」
待ちくたびれた様子の直登君が真っ先に声を上げて、
「あ! ……置いてきちゃった」
スイカはまだ川の中。取りに戻ったスイカはよく冷えていて、とっても美味しかったけどね。