君がいない夏(4)
暑さで脳がやられるというのは本当だと思う。
少なくともそのときの俺の脳は正常な状態ではなかった。
あきちゃんの幻を見てしまうほどに。
バイト帰り、クーラーを効かせた車の中。強い西日は否応なく目を焼く。こういうときにサングラスをかけられないのは不便だ。あれも眼鏡の一種だから、見えなくてもいいものが見えてしまう。
信号待ちの間に冷房の温度を下げる。それにしても暑い。
アイスでも買って帰るか。
左手に見えたコンビニに心が引かれた。
その視線を少し右にずらしたところに、見えた人影。すぐにコンビニの角を曲がって見えなくなったけれど、歩くショートカットの少女を確かに見た、気がしたんだ。
あきちゃん。
信号が青に変わる。俺は迷わずコンビニの駐車場に車を入れた。
車を降りて、コンビニの扉の前を素通りすると角を曲がって。
その瞬間、きゃっと小さな声がした。角の向こう側から歩いてきた人とぶつかりそうになって、慌てて足を止める。
「ごめ――」
「いえ、こっちこそごめんなさ、い……」
謝ろうと相手を見た瞬間、それ以上の言葉が出なくなった。顔を上げた彼女も、同じで。
お互いに次の台詞を探して、変な沈黙が落ちた。先に立ち直った彼女が確認するように俺の名前を呼ぶ。
「吏一」
酷く優しい、懐かしい声で。
目眩がした。暑いせいだ。
俺は一度視線を外して、彼女の後ろへと続く道を確認する。そこにあきちゃんの姿はなかった。
久しぶり。偶然。元気だった? ――うん、俺は元気だよ。じゃあな。
そんな風に当たり障りのない会話だけして、さっさと立ち去ってしまえばよかったんだ。
だけどそんな気軽な会話を交わせるほど俺たちの関係は綺麗さっぱり片づいているとは言い難い。
そう、こうやってテーブルを挟んで向かい合わせに座ることに気まずさを覚えるほどに。
時間があるならお茶しない?と誘ってきたのは彼女のほう。強制されたわけでも脅迫されたわけでもない。
断ればよかったのか。
そうできなかったのは、罪悪感のせいだ。
彼女は、男一人では入りにくそうな近くのおしゃれなカフェを選んだ。それもまた俺をどこか憂鬱な気分にさせる。
だってここは、彼女のテリトリーじゃないか。
「元気そうだね」
飲み物を注文した後で、彼女が唐突に口を開く。
「うん、そっちも変わってないみたいで、」
「変わったよ。髪が伸びたし、体重も落ちたし」
「よかった」と続けようとした俺の言葉を遮るようにして主張する声にはトゲがある、ような気がする。
「髪、結んでるからわかんなかったんだよ」
「前は結べなかったの!」
「そんなこと知らねぇよ」
冷たく突き放すように返したら、彼女は黙ってしまった。怒ってる。これは絶対に怒ってる。
でももう、そうやって顔色を伺わなくてもいいはずなんだ。
「……なんか吏一、変わったね」
彼女はテーブルを見つめたままぽつりと呟く。頼んだアイスティーが二つ運ばれてきて、尋ね返すタイミングを逃した。
俺が、変わった?
彼女は勝手に答えを続ける。
「前だったら、ごめんって言って、そうだねって頷いてくれた」
確かにそうだ。
だってそうしないと、彼女は子供みたいに怒って拗ねてしまうから。
「私はそれが嫌だった」
「は……?」
思わず、声に出た。たぶん顔にも出ていた。
なんだそりゃ。
「私の顔色なんか伺わないで、我慢しないで、怒ってほしかった」
彼女は俺のほうを見ずに勝手なことを言う。
意味がわからない。理解できるとも思えない。
いつだって強気で、自己主張が激しくて、わがままで、そのくせ時々見せる弱さが可愛くて、俺はそれにずっと振り回されて。どうしたら彼女が笑ってくれるのかって、ずっと……。
それなのに、なんだよ。
「なんだよ、それ……」
今さらどうしようもない。
一つ、溜め息を吐く。
呆れた。
彼女を責めるつもりで吐いた溜め息じゃない。
彼女の本心を聞き出せなかった自分に呆れてんだ。そりゃ、若干、いや大分、彼女に対して怒りたい部分もあったけれど。
「ごめん」
そんな俺の怒りが伝わったのかもしれない。彼女はストローの袋を握りしめたまま謝罪する。
「いや、俺も悪いんだろうし」
「だろうって……悪いって思ってないなら謝ることないじゃない」
顔を上げた俺の目の前に、釈然としない憤りを抱えた彼女の顔がある。
これだ。いつも俺たちはこうやって些細な言葉の食い違いで傷つけ合う。
俺は彼女のそんな顔を見たくなくて、傷つけなくて、いつも「そうだな」で片づけてきた。それが嫌だったって、今さら言うんだもんな。
「じゃあ言うけどな。今さらそんなこと言われても知らねぇよ! なんでつき合ってた時に言わなかったんだよ。一年もつき合ってたのに、すっげぇ悲しくなるだろ……」
泣いてしまうんじゃないかと思って、恐る恐る顔を上げる。
泣きそうではあったけど、真っ直ぐに俺を見る彼女は微かに笑っていた。
そして何の前置きもなく言う。
「今、好きな子いるでしょう」
質問がストレートすぎて頭の処理が追い付かない。
何がどうやってどうしたらそうなるんだ。女ってわかんねぇ。
「いるよ」
嘘をつく必要も隠す必要もないので白状する。
少し緊張感が解けたおかげか、猛烈に喉が乾いていることに気づいた。
自分のアイスティーにストローをさしながら、くっついてきたシロップを彼女の方に押しやる。
「ありがとう」
シロップを二つ投入して、彼女は満足そうに礼を言った。
あれ?
「やっぱりお前も変わったかも」
「え?」
「前は礼なんか言わなかった」
前は、女王様みたいに当然って顔で黙って受け取ってた。
「……嫌な子だね」
もちろん、彼女だって最初からそうだったわけじゃない。
「俺が甘やかしすぎた」
それを聞いて、彼女は肩をすくめて薄く笑った。
年上の彼女のわがままを、俺だけが聞いてやれることが嬉しかったのも本当だったんだ。
もっと早くに怒ればよかったのかもしれない。今さらもう、遅いんだけど。
彼女から別れを切り出された時も、俺はただ黙って受け入れた。彼女が言うなら仕方がない。意志が固くて言ったことは絶対曲げない彼女のことだから、俺が何を言ってもその決意は変わらないだろう。そう決めつけて。
あの時、別れたくないって、まだ好きなんだって、ちゃんと言っておけばよかった。後悔したのは随分と後になってからで。
タイミングを逃した言葉はもう吐き出せない。
あきちゃんに出会って、あの子が先生に告白したのを見届けた瞬間に、やっと消化できた気がした。あきちゃんには悪いけど、俺のできなかったことを代わりにやってもらったのかもしれない。
あきちゃんに後悔してほしくなかったのも本当だけど。
「あなたは、魔法使いですか?」
不意に、彼女が妙な言葉を呟いた。
視線の先には、グラスの下に敷かれたコースターがある。俺も自分のコースターを見てみた。夏らしい青空に、オレンジ色の英字。
――Are you a wizard ?
「なんか意味があるのか?」
答えを求めない独り言。
その答えは随分と後になってもたらされることになるのだが、その時まで俺はコースターのことなど完全に忘れていたんだ。間抜けな事に。
店を出るころには西日は完全に沈んでいた。家まで送るという俺の申し出を彼女は躊躇いなく断る。
「助手席に女乗せちゃダメだよ。好きな子に見られたら誤解されるでしょ」
きっぱりと。
そういう潔さが、好きだった。
なんの期待も持たせずにあっさりと背を向ける彼女の強さが、好きだった。
名前を呼んでみる。
彼女は振り返らない。
それでも俺は、彼女のことが好きだったんだ。
「綾」
もう一度だけ、自分だけに聞こえる小さな声で彼女の名前を呼んだ。
途端に、うるさくなった蝉の声にかき消される。
ああちくしょう。暑いな。
だけど、夏の本番はこれからだ。
まだ八月に入ったばかりで、このときの俺は知らなかった。この先の夏休みがバイトで忙殺されることも、川岸に彼女がいることも、もう一つ、あまり嬉しくはない出会いが待っていることも。