君がいない夏(3)
月並小学校の一日はラジオ体操から始まる。
直登君と美佳ちゃんは小学生だからね。直登君なんて一番に飛び起きて、元気よく校庭に飛び出して行く。
私はラジオ体操カードにハンコを押す係。
二人が音楽に合わせて体操してる間、木陰のベンチに座って欠伸をかみ殺す。
みすずさんの作るあさげの匂いがゆっくりと校舎のほうからただよってきて、自然と頬が緩んだ。
ここでの仕事はそんなに多くない。
朝ご飯を食べた後はみんなで少し掃除をして、小学生二人は宿題の時間。私は洗濯のお手伝い。
途中から私も宿題に参加するけど、直登君はすでに集中力をなくしていて、いっつも私の邪魔ばかりする。おかげで課題がちっとも進まない。
「あきちゃんあきちゃん!」
今日も元気にまとわりついてくる直登君が私を呼ぶ。聞こえないフリをしてみる。あんまり効果はないんだけどね。
座ってる私の後ろから首に腕を回してぶらーんて、く、苦しい! いくらセーラー服を着てても不死身じゃないんだからね。
「こら! 苦しいでしょ!」
「あきちゃんマンが怒ったー!」
怒られて嬉しそうな直登君はきゃっきゃと私の周りを跳ね回る。
「もう……」
ここで本当に怒ったら思うつぼ。暑さのせいで苛つきやすくなっている頭を冷やそうとして、息を吐く。
だけど、ほどけかけていたセーラー服のスカーフを直登君が引っ張るもんだから。
「あっ」
あっさりと引き抜かれた私のスカーフ。
途端に首もとが寂しくなる。
「こらっ! 返しなさい、直登君!」
そのままスカーフを手に教室を飛び出して行く直登君。私もすぐに後を追いかける。
相手は小学生。すぐに追いつけるはずだ。いつもならば――。気付いたのは、階段を駆け降りる足がもつれそうになった時。
あれ、おかしいな。セーラー服を着ているはずなのに、変だよ。
全然、速く走れない。
足が重い。息が上がる。腕が振れない。体が思うように動かない。これじゃあまるで、セーラー服を着てない時の私みたい。
渡り廊下に出たところで、直登君はなぜか立ち止まって私を待っていた。
「あきちゃんおっそい! なにやってんだよー」
「だって、直登君が速くて……」
どう答えたらいいのかわからない。こんなのは初めてで。
気持ち悪い。きっと、走ったからだ。
とにかくスカーフを取り返さなければ。
そうすればこの気持ち悪さがなくなる気がして、私の手は、直登君が握りしめているスカーフの片端を掴む。
「返し……!」
「えーっやーだよー」
スカーフの反対側を掴んで離さない直登君と、二人で引っ張り合いっこみたいになって。
あ、まずい。
そう気づいた時には遅かった。
耳障りな音。
私のスカーフが、二つに裂けて――
「あっ……うそ……」
崩れ落ちるみたいに膝をついた。自分の体を支えていられない。
きもちわるい。
どうしよう。
周りの音が何にも聞こえないのに、自分の心臓の音だけが異様に大きくて、気持ち悪い。
「……あきちゃん!」
これは、直登君の声だ。
ようやく、泣きそうな顔をしてこっちを見ている直登君の顔を認識する。私の方が泣きたい気分だ。
「あきちゃん、だいじょーぶだよ!」
大丈夫?
大丈夫じゃないよ。
胸が痛い。力が入らない。魔法が効かない。
「おれがなおしてやるよ!」
「……え?」
直登君がポケットから取り出したのは、小さなボンド。木工用ボンドだ。
「おれのまほうでなおしてやるよ! あきちゃんのスカーフ」
小さな魔法使いは頼もしく言い切ると、破れたスカーフの切れ目にボンドを塗っていく。
木工用ボンドだよ?
スカーフは、布でできてるんだよ。
普通の人だったら笑ってしまう場面だ。
だけど、直登君は魔法使いだから、私は黙って見守ることにする。
破れた切れ端の片方をボンドを塗った場所に重ねて、直登君はその上からぎゅっぎゅっと手のひらで押さえつける。ただそれだけ。
「よし、できた!」
直登君がスカーフを広げて見せてくれる。
「う、嘘……」
手品のようだった。
何事もなかったかのように、元の形のままのスカーフが、窓のない渡り廊下を通り抜ける温い風に、揺れる。
受け取って、確かめる。切れ目なんてどこにもない。ただ、ほんの少しだけ木工用ボンドの匂いが残っていたけれど。
「直ってる……」
魔法みたい。という言葉を飲み込んだ。その表現は正しくない。
だってこれは本当の魔法だもの。
「凄い。……ありがとう」
大事な大事なスカーフをぎゅっと握り締めて、襟の下に通して結び直す。胸の辺りにくすぶっていた吐き気は途端に収まって、気持ちもずいぶんと楽になった。
ああ、よかった。
「あきちゃん、ごめんなさい」
さっきまで得意げだった直登君が、思い出したみたいにしゅんと肩を落とす。
「いいよ。これで仲直りだね」
頭を撫でて笑ってみせたら、直登君も安心したように表情を緩めた。
「感心しねぇな。むやみに魔法を使ってンじゃねぇよ」
後ろから、不意に割り込んできた声。
振り返ると、背の高いスーツ姿の男が、眉間に皺を寄せて立っていた。どこかで見たことのあるような背格好だ。それに、この声。
「里中先生はどこだ?」
男が尋ねる先生が、みすずさんのことだと気づくには少しだけタイムラグがある。
だけど、この男こそが、ここに来た初日に私の着替えをのぞいた人物だと気づくにはさほど時間はかからなかった。
「あっ! あの時の……」
「ん?」
「着替えのぞいた!」
「あ? あー……あン時のペチャパイか」
「!?」
こういう場合に、赤くなればいいのか青くなればいいのか私はわからない。
頭の中は、真っ白だった。
堂本と名乗った男は今、みすずさんと一緒に校長室にいる。
私はその部屋の外で、扉にぴったりと片耳を押しつけて待機なう。
本当は盗み聞きなんてしたくないけど、男をみすずさんのところに連れて行った時の、みすずさんの表情がどうしても気になって。
どこか諦めと呆れの混じった笑み。いつも明るくて優しいみすずさんの、あんな顔を見たのは初めてだ。
みすずさんに何かあればすぐに私が飛び込んで男をはり倒してやる。そんなつもりで。
「何度来られても、私はやめるつもりはないわよ。あの子たちには居場所が必要だわ」
先に口を開いたのはみすずさん。いつものやさしい声だったけど、頑として譲らない意志が見え隠れする。
「やっぱり考えを変える気はねぇか。待っても無駄だったな。ンなこったろうと思ってたけど」
前回来たときも同じような話をしたのかもしれない。堂本はわざとらしく大きな息を吐いた。
「やり方を変えるよ。アンタらを監視化に置かせてもらう。悪く思わないでくれ」
「あら、随分と仰々しいのね」
「アンタはわかってないンだ、先生。事態は昔よりもずっと悪くなってる」
「私が言ってるのはそういう意味じゃないわ。監視だなんて、あなたは『守って』くれようとしてるんでしょう?」
威勢の良かった男の声が途端に聞こえなくなる。違う。図星だったから、答えられなかったんだ。
なんか、思ってたのと違うみたい。男がみすずさんに危害を与える心配はなさそうだ。
「あなたは昔からそう。あの人とはやり方が違うだけで、目的は結局一緒なの」
男はまだ口を噤んだまま。
みすずさんの言う、あの人が誰のことなのか、私にはわからなかった。
「この学校が買収されそうになったのを知ってるか」
男は気を取り直して話を変えたようだ。
「まあ……そんなこと一言も……」
「ジジイは言わねぇだろうな。俺の周りにも最近きな臭ぇのがうろうろしてる。しばらく魔法を使わないほうがいい」
みすずさんもその言葉には同意したみたいだった。そこで話がひと段落したのがわかって、私は扉の前からそっと耳を離す。
「あれっあきちゃん何してんだー?」
ああもう、直登君。タイミング悪すぎ。
シーッと人差し指を立てたけど無駄だった。
「盗み聞きとは品がねぇな」
扉が開くと同時にそんな言葉が頭上から降ってくる。人のことペチャパイ呼ばわりする人に品をどうこう言われたくない! けど、盗み聞きは事実だから何も言い返せない。
なんて嫌な奴。
ぐっと唇を噛んで睨みつける。私よりも、先生よりもずっと年上の男の人を。近くで見ると、厳しい両目には年齢を感じさせる皺があった。もしかしたら父親とそう変わらない年齢なのかもしれない。
そのくせ偉そうで嫌みな言動はちっとも大人らしくない。
私の視線を無視して脇を通り過ぎ、男は直登君に近づいていく。そして、その手から木工用ボンドを奪い取った。
「あっ何すんだよー! 返せよおっさん!」
「没収」
――魔法を使わない方がいい。
男の忠告が頭の隅をよぎる。だから彼は直登君から魔法の道具を取り上げたんだろうけど、ボンドを持つ手を直登君の手が届くか届かないかの高さで餌のように掲げる姿はとても大人のすることとは思えなかった。
嫌な奴だ。
けれども男はその後、ここに何度も来るようになる。毎日ではないけれど、三日と開けずに。監視すると言った言葉通りに。
直登君がボンドを取り上げられたように、私もセーラー服を着れなくなった。男に言われたからじゃない。みすずさんと話をして、そう決めたんだ。詳しい事情はわからないけれど、魔法を使わないほうがいいってことはわかった。
そういうことは、今までだってなかったわけじゃない。
この町で、魔法使いがひっそりと暮らすために必要なことなんだって、私は理解してる。
八月に入ると夏が加速する。お盆が近づくにつれ、どことなく落ち着かない気分になった。
だって、お盆がすぎた後の夏休みはもう、終着点まで超特急だ。
夏休みが終わる前に、行ってみようかな。
もう一度、あの場所に。
コウ君に、会いに行ってみようかな。