セーラー服を脱がさないで(1)
先生が、おかしくなってしまったんじゃないかと思った。
事件が起こったのは夏休み直前。二学期末のテストを間近に控えて、教室内はどことなくピリッとした空気で。
私は窓際の、日当たりの良い席で先生の話を一生懸命聞くフリをしながら実のところその顔ばかり見ていた。先生は、それほどイケメンってわけじゃない。背は高いけど、いつもポロシャツにチノパンで、近所をちょっと探せばすぐに見つかりそうな、どこにでもいる普通のお兄さんだ。
でも、その気安さが良いのか、化石みたいな先生ばかりのこの学校内ではちょっとした人気者だった。私のほかにも先生のことをイイって思っている子はたくさんいる。でもね、メガネの奥の目が真っ黒じゃなくてちょっと青みがかっていることを知っているのは私だけだと思う。だってほかのどんな女の子も、あんなに先生に接近できるはずがない。
そんな優越感に浸りながら、摂関家の壮絶な権力争いについて説明する先生の顔を見ていた私は最初、教室内のざわめきの理由を理解できていなかった。
「せんせーい、彰子って誰ですかー?」
くすくすって笑いながら、クラスメートが声に出して聞いた。
黒板に書かれているその名前を、指さして。
先生は一瞬なにを言われたのかわからないって顔をしてから、示された黒板を振り返る。赤いチョークで書かれた「彰子」という文字を見て、先生はそりゃもう誰が見てもしっかりわかるほど動揺した。顔を真っ青にして、あわてて黒板消しをひっつかんで、赤い文字を消す。勢い余ってとなりの藤原道長まで消してしまったけど、先生はそんなことにも気づいてないみたいだった。
「ごめん、間違えた」
照れたように笑う先生に、教室内は和んだけれど、私はそれどころじゃなかったんだ。
だって、彰子って――。
それからだ。先生は時々ちょっとだけおかしくなった。
黒板に文字を書くとき、チョークを持つ手を一瞬止め、ゆっくり、震える手で書くようになった。授業中にぼうっとすることが多くなった。それから、時々黒板に「彰子」の名前が現れるようになった。何度となく。
私はその名前を見るたびにぎゅっと胸が締め付けられる思いがしたんだ。
先生は、どうしちゃったんだろう。
そればかりが気になって私はテスト勉強どころじゃなかった。テストが始まって、授業はなくなったから先生の「彰子」の文字を見ることもなくなったけど。
午前中でテストを終えて家に帰った私は必死に数学の演習問題を解いていたけど、そんなことより気になるのは先生のことばっかり。
「ダメだ!」
教科書とノートを一斉に閉じて、シャーペンを放り投げて、なんにも持たずに部屋を出る、のは面倒だったので、いつもやっているように押入から茶色のローファー引っ張りだして、二階の窓から瓦を踏み外さないようにゆっくり屋根の端っこまで這って行って、庭の大きな木に飛び移った。セーラー服のスカートを引っかけないように、気をつけながら。
私の家はちょっと大きい。ちょっとなんてもんじゃないのかもしれない。大きなお屋敷のわりと奥のほうにある私の部屋から玄関までは長い廊下を歩かなければいけないし、居間を避けては通れないから、祖母に見つかって、そんな格好でどこに行くんだなんだとうるさく言われるに決まっている。そんなのごめんだった。
広い庭を突っ切り生け垣を乗り越えて外に出る。良い天気だった。これで明日もテストでなければ最高なのに。
行く先は決まっていた。家から徒歩2分。商店街の隅っこの、喫茶またたび。カフェと呼ぶには古ぼけすぎていて、絶対に同級生は来ないだろうこの場所が私には好都合だった。平日の昼下がりなんてそれこそ訪れるのは近所のおじいちゃんおばあちゃんくらいだ。
中は適度にひんやりとしていて、コーヒーのにおいがしていた。喫茶店のマスターにしてはむさ苦しい髭面のおっちゃんが入れるコーヒーの味がここのウリだった。私はここでコーヒーの味を覚えたんだ。
「こんにちはー」
がらんがらんと重たい鈴の音をさせる扉を開けて中をのぞくと、髭面マスターがこちらを見てにっこりと笑った。
「今日は早いな。サボりか?」
「違うよ! 家は抜け出すけど学校はサボらないもん。ね、おジイいる?」
「いるよ。いつもどおり、パソコンいじってる」
くいっとマスターが親指で示した先は、大画面で薄型の最新デスクトップがある。この店は見た目はレトロそのものなのに、なぜか全部の席にLANが完備してあって、パソコンを持ち込めばインターネットができた。だから、それを知っているサラリーマンには案外、重宝されているのだという。生憎とこの町はビジネス街からは離れているので、利用客は少ないようだったが。一つだけあるデスクトップ席には、大抵は固定客がいた。おジイだ。
「おジイ、なに見てんの?」
もう九十歳だというおジイはマンガの中に出てきそうな真っ白な髭を蓄えた、見るからに正しくおじいさんだ。曲がった腰でパソコンの前に普通に座ると、画面に近づきすぎてしまう。真っ白の眉毛がやけに長くて、瞼が半分くらい隠れていたので、画面なんか本当は見えてないんじゃないかと疑いたくなる。
「グーグルアースじゃ」
おジイはパソコンの画面をクリックして私に見せてくれた。
「ここが月並町じゃな。駅がここ、商店街、喫茶店はここかのー。ほれ、趣味の悪い赤い屋根が見えるわい」
「悪かったな悪趣味で」
ちょうど私の水出しコーヒーを持ってきてくれたマスターが、渋い顔で文句を言った。
おジイはそんなこと聞こえてませんみたいな顔して、グーグルアースを使いこなしている。
「この町は綺麗に山に囲まれとる。小さい盆地なんじゃな。線路が通って国道もつながって大分切り拓かれとるが、山を越えるんは大変じゃ」
「ふうん。中学校はどこ?」
「北じゃな、この山の上に見えるじゃろ」
おジイはこの町の話をするのが好きだ。
ずっと昔から月並町に住んでいるからかもしれない。
言い忘れていたけれど、おジイは私の祖父ではない。私の家もずっと昔からこの町にあって、おジイの家とも仲が良かったから私が小さい頃から知っているってだけ、親戚とかそういうんじゃない。
「高校は?」
「町の外じゃからな、もっと東のほうじゃ」
そう言って、おジイは町を東西に横切っている線路に沿って、マウスを右にずらす。画面に入りきらないところに、私が今通っている学校はあるらしい。
そうだ、学校。
「ねぇおジイ! 魔法使いはこの町以外にもいるのかな?」
私のいきなりの質問に、おジイはすぐには答えなかった。まぁ、普通の人だったらまずこの質問の意味そのものがわからないだろう。
だけどおジイは普通の人ではない。
「……おらんわけではないがの。見つけたんか?」
おジイは曖昧な答え方をしてから、尋ねてきた。これには私も曖昧に首を傾げる。
「たぶん。そうなんじゃないかと思うんだよね。でも、分かんなくて、こう、てっとり早く見分けられる方法とかあればいいのにね」
おジイは「魔法使い」だ。けれどもべつに黒いとんがり帽子をかぶっているわけでもなければ、黒猫を従えているわけでもない。足が悪いので杖はついているし、白い髭もそれっぽくはあったけど、見た目は本当に普通のおじいさんだ。
「見分ける、か。方法がないこともないがの。だけど知ってどうするんじゃ。もしかしたら相手は隠しとるんかもしれん」
本当!?と身を乗り出しかけた私に、おジイは眉毛に半分隠れた鋭い目を一瞬、こちらに向けてきた。おジイは優しいんだけど、時々厳しい。魔法使いの話だから余計に、なのかもしれないけど。
「どうって……助けたいんだもん。たぶんね、先生、自分が魔法使いになっちゃったってこと、気づいてないんじゃないかな」
おジイみたいな魔法使いが側にいるなら別だが、普通の人は、ちょっとおかしなことが起きたからってそれで自分が魔法使いになってしまったなんて思わない。
だけど、この町ではちょっと違う。
言っておくけど、月並町のみんながみんな魔法使いのことを知っているわけじゃない。
知ってても、昔からの言い伝えだってバカにする人もいるし、外から来た人はほとんど知らないはずだ。おジイや、私みたいに古い家の人間は知っているし、実際に魔法使いだったりするけど、そうじゃない人のほうが圧倒的に多いんだ。これは別に最近そうなったわけじゃなくて、ずっと昔からそうだ。魔法使いは一定数いて、ずっとひっそりと暮らしている。減るでもなく、増えるわけでもなく。
「わざわざ気付かせてやる必要もないんじゃよ。知らんほうが幸せなこともある」
おジイの口からそういうことを言われると、そうなんじゃないかって思ってしまう。
そりゃ突然、自分が魔法使いですなんて言われたら、すぐには信じられないだろうし、意味が分からないだろう。
「でも先生、苦しそうで……見てられないよ」
「恋、じゃな」
「ふご!?」
おジイが急に改まってそんなことを言うので、私は思わず変な声を出してしまった。
おジイにはなんでも分かっちゃうんだなぁ。それとも私がバレバレなだけ?
「知って対処ができるならそれもいいじゃろ。まぁとりあえずは本当にその先生が魔法使いなのか、というところじゃな」
おジイはあごひげを緩く撫でて考え深げな口振りで言うと、その手をキーボードへと伸ばした。そして、ものすごい早さでタイピングを始めた。当然ながらブラインドタッチだ。
「おジイ、なにやってるの?」
私は現代っこのくせにどちらかというとパソコンには疎い。
「スカイプじゃよ」
おジイはこともなげに言った。ちょうど協力を頼めそうな人がオンラインだからと。
「へー。おジイ、スカイプもやるんだ」
「スカイプなら会話もできるしの。タイピングは疲れるわい」
華麗な指裁きを見せたあと、おジイは皺だらけの手をもみもみしてた。うーん、この調子だとツイッターに手を出す日も近いのかもしれない。案外もうやってたりして。
「お、返事が来たぞ。すぐ来れるそうじゃて」
「誰なの?」
おジイのパソコンに表示されている登録名は「メガネ」だった。変な名前。
「来れば分かるわい」
数分もしないうちに、喫茶店の扉が開いた。
入ってきた人物はメガネをかけていなかった。だけど、迷わず奥のデスクトップまでやってきて、おジイを見つけると軽く手を挙げた。隣の私にも気付いて、愛想良く笑った顔は、うん、今風のイケメンだった。ちょっとつり上がった涼しげな目は先生とは違うタイプだったけれど。歳は先生よりも若い。二十歳くらいに見えた。
「ジイさん、どうした? 俺に手伝ってほしいことって?」
「大学生なんぞどうせ暇じゃろ。アルバイトせんか?」
「いや、ちゃんと授業あるし、バイトだって別でしてるし」
彼は文句を言いながらもおジイの頼みを断る雰囲気はなかった。
「この子、見ればいいの?」
むしろ今すぐやるよ、という感じで、彼はおジイに尋ねる。この子、というのは私のことらしい。
「いやいやこの子は違うんじゃ。見てほしいのはこの子の恋の相手じゃよ」
「おジイ!」
さすがに初対面の相手の前では恥ずかしすぎる。あっさり暴露しないでよもう!
「長い間生きてるくせにまだ乙女心が理解できねぇのかジイさん」
「今度ウィキペディアで調べてみるかの」
二人はずいぶんと仲が良いみたいで、遠慮ない口調で言い合っていた。私が顔を真っ赤にしているのをよそに。
「ねぇおジイ、本当に先生が魔法使いかどうかが分かるの?」
失礼かとは思ったけど、私は半信半疑で目の前の彼を見た。
「できるとも。吏一はそういう魔法を持っとる」
ああやっぱり、この人も魔法使いなんだ。おジイの周りには魔法使いばかりだ。私は妙に納得した。
「先生はまだ学校におるかの。しっかりやるんじゃよ、吏一」
「学校かよ」
吏一君はちょっといやそうな顔をしたけれど、今さら行くのをやめるとは言い出さなかった。
「行って確かめておいで」
「うん、ありがとう。おジイ」
おジイの骨と皮だけみたいな首元にちょっとだけぎゅって抱きついてから、私はお礼を言った。
これが、物語の始まり。
私の恋の物語。
そして、私の町の魔法使いたちが、決して派手ではないけれど、密かに活躍する小さな物語だ。