第12話:魔導の城塞と、芽吹く王国の基盤(前編)
死の荒野『灰のヴェール・ガルド』の只中に一夜にして現出した、黒曜石と大理石の巨大な城塞。
その最上階に位置する主寝室には、澄み切った朝の光がステンドグラスを通して差し込み、色鮮やかな光の模様を純白のシーツに落としていた。外の世界では依然として致死量の瘴気を孕んだ灰色の嵐が吹き荒れているはずだが、この城の内部には微塵の風の音すら届かない。
フィアナ・アークライトは、ふかふかの寝台の上でゆっくりと身を起こした。
「……おはようございます、セト様」
彼女の瑠璃色の瞳が、窓辺に立つ逞しい男の背中を捉える。
王国の最高位研究機関である第六技術局で筆頭研究員を務めていた彼女は、かつては世界のすべてを数式と魔導理論で定義できると信じていた。しかし、目の前に立つ規格外の農業魔術師、セト・ローウェルの存在は、彼女の構築してきた常識のすべてを心地よく破壊し去っていた。
昨夜、彼の強大な魔力と自らの『魔導構築機』が完全に同調したことで、彼女の体内を巡る魔力回路は、セトの支配下へと完全に書き換えられている。今やフィアナの心臓が脈打つたびに、セトから与えられた黄金色のマナが全身を巡り、絶対的な安心感と甘い服従の喜びを彼女の精神に刻み込んでいた。
「目覚めたか、フィアナ。どうやらお前の魔導回路は、俺の魔力に完全に適応したようだな」
セトが振り返り、傲慢でありながらもどこか温かさを孕んだ笑みを浮かべる。
「はい……。わたくしの命も、知識も、この魂すらも、すべてはセト様のもの。あなた様のマナが体内を満たしている限り、わたくしは無限の出力を引き出すことができますわ」
フィアナは自らの胸元に手を当て、そこに刻まれたセトの魔力紋を愛おしげに撫でた。異端審問官に追われ、死の恐怖に怯えていた凍てつくような日々はもう終わったのだ。彼女は今、この世界で最も強大で、最も絶対的な庇護者の腕の中にいる。
「えへへ、フィアナちゃん、おはよー!」
シーツの反対側から、銀色の狼耳をぴこぴこと揺らしながらミリアが元気よく飛び起きてきた。彼女の健康的な褐色の肌もまた、セトの生命力に満ちたマナを浴びたことで、以前よりもはるかに艶やかな輝きを放っている。
「おはようございます、ミリア様。昨夜は……その、わたくしたちの魔力が完全に共鳴して、素晴らしい構築ができましたわね」
フィアナが少しだけ頬を染めながら微笑むと、ミリアは嬉しそうに彼女に抱きつき、その頬にすりすりと顔を擦り寄せた。
「うんっ! あたし、セトとフィアナちゃんと一緒で、今すっごく幸せだよ! このお城も、大きくてキラキラしてて、最高だね!」
ミリアの無邪気な言葉に、セトは満足げに頷き、二人の少女を見下ろした。
「お前たちが俺の魔力を受け入れ、その力を存分に振るってくれたおかげで、この『聖地創生』の基盤は盤石なものとなった。だが、ここはまだただの頑丈な箱に過ぎない。俺たちの王国と呼ぶには、決定的に足りないものがある」
「足りないもの……ですか?」
フィアナが理知的な表情を取り戻し、小首を傾げる。
「ええ。確かにこの城塞は、外部からの物理的・魔術的な干渉を完全に遮断する完璧な防壁ですわ。内部の気温や湿度も、セト様の無尽蔵のマナを動力源として快適に保たれています。防衛拠点としては、すでに王都の王城すら凌駕していると断言できますが……」
「そうだ。人が生き、国を成すためには、壁だけでは足りない。絶対的な『豊穣』が必要だ」
セトは窓の外――城壁の内側に広がる、黄金の草が茂る広大な平原を指差した。
「俺は追放されたとはいえ、腐っても農業魔術師だ。開墾と栽培こそが俺の真骨頂。これより、この死の荒野に絶対無比の食糧生産拠点を作り上げる」
「しょくりょう……! セト、もしかして美味しいお肉とか果物、いっぱい食べられるの!?」
ミリアが目を輝かせ、銀色の尻尾をちぎれんばかりに振り回す。
「ああ。お前たちには、これから俺の国で最高の贅沢をさせてやる。着替えたら中庭に出ろ。俺の『農業』がどのようなものか、その目に焼き付けておけ」
数十分後。
身支度を整えた三人は、城塞の中央に位置する広大な中庭へと足を踏み入れた。
本来であれば荒涼とした岩と灰しかないはずの地面は、フィアナの魔導構築機によって極めて純度の高い黒土へと変換されていた。しかし、まだそこには何も植えられていない。
「セト様、種や苗をお持ちなのですか? 王国の標準的な農業魔術であれば、発芽を促進させることは可能ですが、それにはまずベースとなる植物の遺伝子情報が……」
フィアナが研究者としての知識を披露しようとした瞬間、セトはフッと鼻で笑い、大地に向かって右手を翳した。
「王国のちっぽけな常識で俺の魔術を測るな、フィアナ。俺の農業魔術は、種を育てるのではない。生命の概念そのものを大地に『書き込む』のだ」
セトの右手から、太陽のように強烈な黄金色のマナが溢れ出し、黒土の表面を這うようにして幾何学的な魔法陣を描き出していく。
「起動せよ。――『豊穣の神域』」
セトの低く力強い詠唱が響き渡った瞬間、大地がドクン、と巨大な心臓のように脈打った。
「なっ……!? マナの波形が、物質の構成式を強制的に組み替えて……無から有を、生み出していますわっ!?」
フィアナが悲鳴のような驚きの声を上げる。
彼女の目の前で、何もない黒土から突如として緑色の芽が吹き出し、それらは瞬きする間に成長し、太く立派な幹を持つ果樹へと変貌を遂げていった。
バキバキと音を立てて枝葉が広がり、たった数秒のうちに中庭は鬱蒼とした美しい果樹園へと姿を変えた。枝には、赤や青、黄金色に輝く、見たこともないほど瑞々しい果実がたわわに実っている。
さらに、果樹園の中央では大地が割れ、そこから澄み切った清らかな水がこんこんと湧き出し、小さな泉と小川を作り上げた。
「わあぁぁぁっ! すごい、すごいよセト! お水も出たし、甘くていい匂いがいっぱいする!」
ミリアが歓喜の声を上げ、木から落ちてきた真っ赤な果実を一つキャッチして、そのままガブリと噛み付いた。
「んん〜っ! あま〜い! こんなに美味しい果物、あたし初めて食べたよぉっ!」
果汁を口の周りにつけながら無邪気に喜ぶミリアの姿を見て、セトは優しく彼女の頭を撫でた。
一方で、フィアナはその場にへたり込み、湧き出る泉の水を震える両手ですくい上げていた。
「純度百パーセントのマナを含んだ、霊薬に匹敵する神水……。それに、この果実群は一つひとつが高位の魔力回復薬を凌駕するエネルギーを内包していますの……。これが、セト様の……農業魔術……」
フィアナの瑠璃色の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
王国では見下され、迫害されていたはずの農業魔術。それが、実は世界そのものを創世するほどの神の御業であったという事実。
そして何より、これほどまでに強大で絶対的な力を持つ男が、自分のようなはぐれ者を愛し、その命を繋ぐための国を築こうとしてくれていることへの、圧倒的な感謝と歓喜。
「セト様……っ」
フィアナは立ち上がると、迷うことなくセトの胸へと飛び込み、その背中に腕を回して強く抱きついた。
「わたくし……わたくし、一生あなた様に尽くしますわ……! あなた様の創るこの国が、世界で一番豊かで、強力な王国になるように、わたくしの魔導技術のすべてを捧げます!」
「その言葉、確かに受け取ったぞ、フィアナ」
セトはフィアナの華奢な身体を抱きしめ返し、ミリアもまた「あたしもー!」と二人に抱きついてきた。
死の荒野に築かれた絶対無比の城塞と、枯れることのない豊穣の庭。
三人の絆と魔力が深く交わり合うこの場所で、世界を揺るがすこととなる『星の開墾者』の真の建国神話が、今、確かな産声を上げたのだった。




