第1話:過労死からのスローライフ(ただしペットは冥府の番犬)
「——というわけで、君は過労死しました。死因は『73時間連続勤務の末、癒しを求めてゴールデンレトリバーの赤ちゃん動画を見ていたら、限界を迎えてポックリ』です」
真っ白な空間で、女神を名乗る美女が事務的なトーンでそう告げた。
前世の俺は、絵に描いたようなブラック企業の社畜だった。連日のサービス残業、上司の度を越した理不尽な要求、休日のないカレンダー。俺の唯一の心の支えは、深夜の便座の上で見る「もふもふの動物動画」だけだったのだ。
「あまりにも不憫なので、剣と魔法の異世界に転生させてあげます。何か希望はありますか? 魔王を倒す最強の聖剣でも、国を建国する魔法力でも構いませんよ」
「……動物。とにかく、たくさんの動物たちと触れ合って、田舎でのんびりスローライフを送りたいです。それ以外は何もいりません。もう絶対に働きません」
俺が即答すると、女神は少し引きつった笑顔を浮かべた。
「ええと……あそこの森の『動物』は、その、少々血の気が多いというか、生態系の頂点に君臨するような猛者ばかりですが……」
「最高じゃないですか! 元気いっぱいの大型犬とか大好きです! モフりがいがありますね!」
「大型犬……?」
女神は遠い目をした。
「……まぁ、四足歩行で牙があれば大体犬ですね。わかりました。では特別に**『森の動物たちと心を通わせ、力を借りられる』**というギフトを授けましょう。辺境の森にログハウスも用意しておきましたからね」
「女神様……一生ついていきます!」
こうして俺は、晴れて異世界への切符を手に入れたのだった。
……この時の俺は気づいていなかった。「森の動物たち」の基準が、女神と俺とで絶望的にズレていたことに。
転生してから一ヶ月。俺の異世界スローライフは、控えめに言って最高だった。
女神様が用意してくれた立派なログハウスを拠点に、緑豊かな辺境の森でのんびりと自給自足の生活を送っている。目覚まし時計の音で起きることもなく、満員電車に乗ることもない。
なにより、この世界は素晴らしい。なんせ、『動物』のスケールがでかいのだ。
「キュ〜ン……」
森の奥で木の実を拾っていた俺は、茂みの奥から聞こえる微かな鳴き声に耳をそばだてた。そっと草をかき分けると、そこにいたのは一匹の犬だった。
大型トラックほどの巨体。
その足元だけで、森の地面が陥没している。
闇を煮詰めたような漆黒の毛並み。
そして、なぜか首が三つある。
「うわぁ……でっかいワンちゃんだ。どうしたの、怪我してるの?」
よく見ると、真ん中の首の付け根あたりに大きな切り傷があり、赤黒い血を流していた。普通なら尻尾を巻いて逃げ出すサイズ感かもしれないが、重度の動物好きの俺からすれば、大型犬は「モフりがいのあるご褒美」でしかない。
『グルルルルッ……!!』
俺が近づくと、三つの首が一斉に凄まじい殺気を放ち、牙を剥いた。その口からは、ボワッと地獄の業火のような赤い炎が漏れ出ている。
警戒されている。無理もない、人間が怖いのだろう。
「大丈夫、怖くないよ。痛いの、治してあげるからね」
俺は心からそう念じた。
(あぁ、この子の痛みを和らげてあげたい。安心させてあげたい)
——ドクンッ。
その瞬間、俺の腹の底で奇妙な『鼓動』が鳴った。
直後、木漏れ日が差していた森が、突如として泥のような漆黒の闇に覆われる。俺の足元から、底冷えするような黒い霧がブワッと周囲に立ち込めたのだ。周囲の草木が一瞬にして枯れ果てるほどの、超高濃度の瘴気。
「あぁ〜涼しい。会社の冷房より優しい風だ」
俺は両手を広げて深呼吸した。
「これが噂に聞く『森のマイナスイオン』ってやつか!」
俺は気づいていない。
女神がくれたギフトが**「伝説の魔獣」にすら無意識に共鳴してしまう**、規格外のバグ能力であることに。
そして今、俺自身から**『死を司る冥王の威圧』**がマイナスイオン感覚でダダ漏れになっていることに。
『……ッ!?!?』
さっきまで猛り狂っていた三つ首の巨大犬が、ピタッと固まった。
三つの頭が一斉に「これはヤバい」という顔をした。
最強の魔獣としてのプライドが音を立ててへし折れる。
次の瞬間、巨大犬は絶対的な恐怖の前に思考を放棄し、目にも留まらぬ速さで仰向けになった。三つの頭を綺麗に揃え、キャンキャン!と一番高い声で鳴きながら、無防備な腹を見せて太い尻尾を千切れる勢いで振っている。
「なんだ、すっかり懐いてくれたじゃん!」
俺は三つの頭を順番にわしゃわしゃと撫で回しながら、満面の笑みを浮かべた。うん、やっぱり犬は可愛い。こんなに人懐っこいなら、ずっと一緒に暮らしたいな。
「よし決めた! お前、今日からうちの子になれ! えーっと、首が三つあるけど、いちいち名前を分けるのも面倒だし……よし、お前の名前は『ポチ』だ! 右も真ん中も左も、まとめてポチな!」
『(我ら冥界の番犬だぞ!?)』
三つの頭が同時に困惑したように首を傾げたが、俺が喉元を撫でてやると、ポチは再び気持ちよさそうに目を細めて舌を出した。
「よしよし、いい子だポチ! まずは迷子にならないように、丈夫な『首輪』を作らないとな! あとで雨風がしのげる特大の『犬小屋』も作ってあげるからな!」
一方その頃。
少し離れた茂みの陰から、その様子を窺っていた村のベテラン猟師・ガンツは、ガチガチと歯の根を鳴らしていた。
(ひ、ヒィィィィッ……!?)
ガンツの視線の先には、この世の終わりとしか思えない光景が広がっていた。
一国の軍隊を容易く壊滅させる神話級の厄災『冥界の番犬』。
それが今、一人の青年の前で、完全に腹を見せて服従のポーズをとっている。
(あ、あんな濃密な死の瘴気……魔王? いや違う、あれはもっとヤバい何かだ! しかも、あろうことか厄災の獣を、まとめて『ポチ』だと!?)
さらにガンツの耳には、青年の恐るべき宣言が届いていた。
——『まずは丈夫な首輪を作らないとな』
(め、冥界の番犬に首輪だとォォォ!? あの絶望の化身をペットとして繋ぎ止めるつもりか!?)
——『特大の犬小屋を作ってあげるからな』
(あ、あの山のように巨大な厄災のための小屋だと!? そんなもの、建材だけで森が消し飛ぶ! 土地を確保するために村が……いや、人間の領土が更地にされるぞ!)
ガンツは限界だった。長年培ってきた猟師としての常識も、人間の理性も、すべてが崩壊していく。
「ひ、ひぃぃぃ! 森が……いや、国が『犬小屋』にされちまうゥゥ!!」
ガンツは猟銃を放り捨てた。
「村長に! いや領主に! いや国王陛下に急報だ!!」
ガンツは涙と鼻水を撒き散らしながら、猛ダッシュで村へと逃げ帰っていった。
そんな国家存亡の危機的騒ぎになっているとは露知らず、俺はポチ(右の首)が咥えてきた丸太ほどの太さの木の枝を受け取りながら、呑気に笑っていた。
「よーし、いい子だポチ! 取ってこいが上手だな!」
俺のスローライフ(予定)は、初日から盛大に世界崩壊の危機(※周囲の勘違い)として幕を開けようとしていた。
——なお、この時点で本人だけが平和だった。




