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【怖い話】神の水  作者: 小岩 正
3/3

 弟が消えたのは、ある日突然だった。


 前触れもなく、連絡が途絶えた。

 電話は繋がらず、メッセージも既読にならない。


 不安に駆られて弟の部屋を訪れたとき、その異様さに気づいた。


 家具がない。

 カーテンもない。

 生活の痕跡が、削ぎ落とされていた。


 床一面を埋め尽くしていたのは、同じ形のペットボトル。


 警察は事件性なしと判断し、捜索は打ち切られた。


「大人の失踪は珍しくありませんよ」


 その言葉が、妙に冷たく響いた。


 藁にもすがる思いで、俺は探偵に依頼した。


 だが――その探偵も消えた。


 電話は通じない。

 事務所は空っぽだった。


 資料も、パソコンも、机の引き出しの中も、すべて消えている。


 荒らされた形跡はない。

 盗まれた様子もない。


 最初から存在しなかったかのように、何もなかった。


 唯一残っていたのは、机の奥に落ちていた一枚のメモ。


『神の水』


 かすれた文字で、それだけが書かれていた。


 俺は何度も調べていた。

 だが、“神の水”についての情報は、どこにもなかった。

 ネットにも、新聞にも、行政の記録にも、宗教団体の会報にも。


 まるで、この言葉そのものが、現実から拒絶されているかのように。


 八方塞がりだった。


 そんなとき、一本の電話が鳴る。


「……神の水を探しているのは、あなたですか?」


 声は、男とも女ともつかない。

 感情が抜け落ちたように平坦だった。


「あなたの弟の行方を知っています」


 心臓が跳ねた。


「会いたいなら、案内しましょう」


 俺には、断る理由がなかった。



 連れていかれたのは、山奥だった。


 舗装の剥げた道を進み、森を抜け、霧に包まれた谷の奥へ。


 車を降りた瞬間、俺は気づいた。


 音が、ない。

 鳥の声も、虫の音も、風の音すらしない。


 そこに、巨大な建物があった。


 教会のような、研究施設のような白い建物。


 中に入った瞬間、空気が変わった。


 湿っている。

 異様なほど、湿っている。


 床も、壁も、天井も、

 目に見えない水分を含んでいる。


 呼吸するたび、肺の奥に水が流れ込んでくるような錯覚。


 白いローブを着た人間たちが、無言で並んでいた。


 誰一人、俺を見ない。


 ただ、中央にある“それ”だけを見つめている。


 巨大な水槽。


 透き通った水が、満ちている。

 だが、よく見ると、水が揺れている。

 誰も触れていないのに。


「ここが、源泉です」


 案内役の声が背後から響いた。


「あなたの弟は、すでにここにいます」


 喉が鳴った。


「……どこに?」


 男は、水槽を指さした。


 最初は、何も見えなかった。

 だが、目が慣れるにつれ、俺は理解した。


 水が、形を成していく。

 何かがある……いや、いる……。


 人の輪郭。

 溶けかけた顔。

 閉じた口。


 顔、顔、顔、顔──。


 その中に――見覚えのある輪郭があった。


 弟だった。


 口が動いた気がした。


 音は聞こえない。


 だが、なぜか言葉だけが、直接脳に流れ込んできた。


 ――たすけて。


 その瞬間、背筋が凍った。

 

 次の瞬間、弟の表情が変わった。

 恐怖が消え、微笑みが浮かんだ。


「……儀式は終わっています」


 男は淡々と言った。


「あなたの弟は、すでに神と混ざりました」


 俺は叫びたかった。

 だが、声が出ない。


 喉が渇いているのに、唾液が異様に増えている。


「新たな儀式が始まります」


 男がそう言うと、水槽の前に別の人間が連れてこられた。

 その顔を見た瞬間、俺は息を呑む。


 探偵だった。


 だが、目が違う。


 焦点が合っていない。

 正常な人間の目ではない。


 ローブの人々が、同時に祈り始めた。


 同じ言葉を、何度も、何度も。


 ――混ざれ。

 ――溶けろ。


 探偵は、自分から階段を上り、水槽に足を踏み入れた。


 一歩。

 また一歩。


 胸まで水に浸かり、首まで沈む。


 最後に、俺を見た。


 助けを求める目ではなかった。

 むしろ――安心したような表情だった。


 次の瞬間、彼は水の中に沈んだ。


 水面が揺れる。

 泡が浮かぶ。


 手が動く。

 足が動く。


 だが、誰も助けない。


 探偵は、溺れている。


 数分後、動きが止まった。


 水槽の中で、彼の身体はゆっくりと沈みやがて、水に溶けるように輪郭を失っていった。


 俺は、震えていた。


 狂気だ。

 悪夢だ。

 現実じゃない。


 ――なのに。

 恐怖が、消えていく。


 胸のざわめきが、薄れていく。

 代わりに、奇妙な安心感が広がっていく。


 息を吸うたび、空気が甘い。

 湿った空気が、喉を潤す。


「……なぜ、怖くないんだ……?」


 俺は呟いた。


 男は微笑んだ。


「もう、飲んでいるからですよ」


「……何を」


「神の水を」


 俺は理解した。

 この館の空気そのものが、神の水だった。


 霧。

 湿気。

 水分。


 呼吸するたび、身体に染み込んでくる。


 弟も、探偵も、ここで同じ感覚を味わったのだ。


 ローブの人間たちが、俺を囲んだ。

 抵抗する気力はなかった。

 恐怖もなかった。


 ただ、理解した。

 弟は、救われたのだと。


「次は、あなたです」


 水槽の前に立たされる。


 水は、透き通っている。


 だが、底には無数の影が揺れている。


 溶けた人間たち。

 その中で、弟が笑っている。


 俺は、水に足を入れた。


 冷たくない。

 むしろ、温かい。


 胸まで沈む。


 首まで沈む。


 不思議と、息苦しくない。


 水が、身体に馴染んでいく。


 皮膚の境界が、曖昧になる。


 自分と水の区別が、少しずつ消えていく。


 最後に、俺は思った。


 弟は、孤独じゃなかった。


 探偵も、幸せだった。


 俺も、すぐに混ざる。


 水面が閉じる。


 視界が消える。


 意識が溶ける。


 恐怖は、なかった。


 ただ、ひどく穏やかな気持ちだけが残っていた。


 主よ、新たな仲間をたすけて──。


 どこかで、誰かの声がした。

 だが、それが誰の声なのか、もう分からなかった。



 目が覚めた。


 ――どこからが夢だったのか、分からない。


 天井を見上げる。

 見慣れたはずの部屋なのに、輪郭がわずかにずれている。空気が、異様に湿っていた。


 俺は枕元の時計を見る。

 針は、いつもと変わらない時刻を指している。


 遅刻するわけにはいかない。


 そう思い、身体を起こした。


 簡単な朝食を済ませ、スーツに袖を通す。

 玄関を出て、車に乗り込む。


 エンジンをかける前に、後部座席へ視線を向けた。

 段ボールの中には、整然と並べられたペットボトル。


 同じ形。

 同じラベル。

 金色の十字。


 一本、手に取る。


 キャップをひねる音が、やけに大きく、乾いた車内に響いた。


 ああ……。

 俺も、早く混ざりたい……。

最後までお読みいただきありがとうございます。

誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
あぁ、お兄さんもいつのまにか…(ToT) こういう謎が謎に包まれているようなお話も、また怖い想像をかきたてられるようで、怖いですよね…(ToT) あぁ、神の水の正体が知りたい。知るためには飲まないと……
とにかく世界観の維持がなされていて、例えばいつか作者様が第四話を書いて出された時、タイトルがなくても私達読者は「あ、神の水だ」と分かるのではないかという文字の運びでした。 それが、私達を主人公達と同じ…
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