急
弟が消えたのは、ある日突然だった。
前触れもなく、連絡が途絶えた。
電話は繋がらず、メッセージも既読にならない。
不安に駆られて弟の部屋を訪れたとき、その異様さに気づいた。
家具がない。
カーテンもない。
生活の痕跡が、削ぎ落とされていた。
床一面を埋め尽くしていたのは、同じ形のペットボトル。
警察は事件性なしと判断し、捜索は打ち切られた。
「大人の失踪は珍しくありませんよ」
その言葉が、妙に冷たく響いた。
藁にもすがる思いで、俺は探偵に依頼した。
だが――その探偵も消えた。
電話は通じない。
事務所は空っぽだった。
資料も、パソコンも、机の引き出しの中も、すべて消えている。
荒らされた形跡はない。
盗まれた様子もない。
最初から存在しなかったかのように、何もなかった。
唯一残っていたのは、机の奥に落ちていた一枚のメモ。
『神の水』
かすれた文字で、それだけが書かれていた。
俺は何度も調べていた。
だが、“神の水”についての情報は、どこにもなかった。
ネットにも、新聞にも、行政の記録にも、宗教団体の会報にも。
まるで、この言葉そのものが、現実から拒絶されているかのように。
八方塞がりだった。
そんなとき、一本の電話が鳴る。
「……神の水を探しているのは、あなたですか?」
声は、男とも女ともつかない。
感情が抜け落ちたように平坦だった。
「あなたの弟の行方を知っています」
心臓が跳ねた。
「会いたいなら、案内しましょう」
俺には、断る理由がなかった。
◇
連れていかれたのは、山奥だった。
舗装の剥げた道を進み、森を抜け、霧に包まれた谷の奥へ。
車を降りた瞬間、俺は気づいた。
音が、ない。
鳥の声も、虫の音も、風の音すらしない。
そこに、巨大な建物があった。
教会のような、研究施設のような白い建物。
中に入った瞬間、空気が変わった。
湿っている。
異様なほど、湿っている。
床も、壁も、天井も、
目に見えない水分を含んでいる。
呼吸するたび、肺の奥に水が流れ込んでくるような錯覚。
白いローブを着た人間たちが、無言で並んでいた。
誰一人、俺を見ない。
ただ、中央にある“それ”だけを見つめている。
巨大な水槽。
透き通った水が、満ちている。
だが、よく見ると、水が揺れている。
誰も触れていないのに。
「ここが、源泉です」
案内役の声が背後から響いた。
「あなたの弟は、すでにここにいます」
喉が鳴った。
「……どこに?」
男は、水槽を指さした。
最初は、何も見えなかった。
だが、目が慣れるにつれ、俺は理解した。
水が、形を成していく。
何かがある……いや、いる……。
人の輪郭。
溶けかけた顔。
閉じた口。
顔、顔、顔、顔──。
その中に――見覚えのある輪郭があった。
弟だった。
口が動いた気がした。
音は聞こえない。
だが、なぜか言葉だけが、直接脳に流れ込んできた。
――たすけて。
その瞬間、背筋が凍った。
次の瞬間、弟の表情が変わった。
恐怖が消え、微笑みが浮かんだ。
「……儀式は終わっています」
男は淡々と言った。
「あなたの弟は、すでに神と混ざりました」
俺は叫びたかった。
だが、声が出ない。
喉が渇いているのに、唾液が異様に増えている。
「新たな儀式が始まります」
男がそう言うと、水槽の前に別の人間が連れてこられた。
その顔を見た瞬間、俺は息を呑む。
探偵だった。
だが、目が違う。
焦点が合っていない。
正常な人間の目ではない。
ローブの人々が、同時に祈り始めた。
同じ言葉を、何度も、何度も。
――混ざれ。
――溶けろ。
探偵は、自分から階段を上り、水槽に足を踏み入れた。
一歩。
また一歩。
胸まで水に浸かり、首まで沈む。
最後に、俺を見た。
助けを求める目ではなかった。
むしろ――安心したような表情だった。
次の瞬間、彼は水の中に沈んだ。
水面が揺れる。
泡が浮かぶ。
手が動く。
足が動く。
だが、誰も助けない。
探偵は、溺れている。
数分後、動きが止まった。
水槽の中で、彼の身体はゆっくりと沈みやがて、水に溶けるように輪郭を失っていった。
俺は、震えていた。
狂気だ。
悪夢だ。
現実じゃない。
――なのに。
恐怖が、消えていく。
胸のざわめきが、薄れていく。
代わりに、奇妙な安心感が広がっていく。
息を吸うたび、空気が甘い。
湿った空気が、喉を潤す。
「……なぜ、怖くないんだ……?」
俺は呟いた。
男は微笑んだ。
「もう、飲んでいるからですよ」
「……何を」
「神の水を」
俺は理解した。
この館の空気そのものが、神の水だった。
霧。
湿気。
水分。
呼吸するたび、身体に染み込んでくる。
弟も、探偵も、ここで同じ感覚を味わったのだ。
ローブの人間たちが、俺を囲んだ。
抵抗する気力はなかった。
恐怖もなかった。
ただ、理解した。
弟は、救われたのだと。
「次は、あなたです」
水槽の前に立たされる。
水は、透き通っている。
だが、底には無数の影が揺れている。
溶けた人間たち。
その中で、弟が笑っている。
俺は、水に足を入れた。
冷たくない。
むしろ、温かい。
胸まで沈む。
首まで沈む。
不思議と、息苦しくない。
水が、身体に馴染んでいく。
皮膚の境界が、曖昧になる。
自分と水の区別が、少しずつ消えていく。
最後に、俺は思った。
弟は、孤独じゃなかった。
探偵も、幸せだった。
俺も、すぐに混ざる。
水面が閉じる。
視界が消える。
意識が溶ける。
恐怖は、なかった。
ただ、ひどく穏やかな気持ちだけが残っていた。
主よ、新たな仲間をたすけて──。
どこかで、誰かの声がした。
だが、それが誰の声なのか、もう分からなかった。
◇
目が覚めた。
――どこからが夢だったのか、分からない。
天井を見上げる。
見慣れたはずの部屋なのに、輪郭がわずかにずれている。空気が、異様に湿っていた。
俺は枕元の時計を見る。
針は、いつもと変わらない時刻を指している。
遅刻するわけにはいかない。
そう思い、身体を起こした。
簡単な朝食を済ませ、スーツに袖を通す。
玄関を出て、車に乗り込む。
エンジンをかける前に、後部座席へ視線を向けた。
段ボールの中には、整然と並べられたペットボトル。
同じ形。
同じラベル。
金色の十字。
一本、手に取る。
キャップをひねる音が、やけに大きく、乾いた車内に響いた。
ああ……。
俺も、早く混ざりたい……。
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