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【怖い話】神の水  作者: 小岩 正
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 探偵という仕事をしていると、「失踪」は珍しくない。


 駆け落ち。借金。対人トラブル。宗教。

 人が消える理由は、だいたいこの四つに収まる。


 だが――宗教絡みだけは、いつも後味が悪い。


「弟が、急に連絡を絶ったんです……」


 依頼人は三十代前半の男だった。

 姿勢は正しいのに、目の奥だけが落ち着かない。

 焦りと後悔が、抑えきれずに滲んでいる。


「最後に会ったとき、様子がおかしくて……水の話ばかりしていました」


「水?」


「ええ。“神の水”だとか……最初は冗談だと思ったんですが……」


 その言葉をメモ帳に書き留めた瞬間、胸の奥で、得体の知れないものが静かにざわめいた。


 宗教案件だ。

 しかも――深く踏み込めば、戻れなくなる類の匂いがする。



 翌日、俺は失踪した弟の部屋を訪れた。


 鍵を開けた瞬間、空気が変わった。

 埃の匂いではない。

 理屈より先に、ここへ入るべきではないという感覚が走る。


 それでも俺は、鉛のように重い足を引きずり、部屋の中へ踏み込んだ。


 部屋は、異様な静けさに満ちていた。


 家具はない。

 カーテンもない。

 生活の痕跡が、意図的に削ぎ落とされている。


 床一面を埋め尽くしていたのは、同じ形のペットボトルだけだった。


 数える気にもならないほどの量。

 どれも同じラベル、同じ金色の十字。


「……水か」


 呟いた声が、やけに大きく響いた。


 その中に一本だけ、

 中身の残ったペットボトルがあった。


 封はすでに切られている。


 触りたくない。

 触った瞬間、何かが始まる――そんな確信があった。


 理屈じゃない。

 経験でもない。

 ただ、本能的な嫌悪だった。


 俺は息を止め、慎重にそれを手にとる。


 そのとき――

 背後で、何かが動いた気配がした。


 振り返ると、何もいない。


 喉の奥に渇きを感じる。


 俺は、それ以上部屋を調べなかった。


 見てはいけないものが――

 まだ、ここに残っている気がしたからだ。



 調査を進めると、“神の水”は訪問販売で流通していることがわかった。


 購入者の中には、精神科への通院歴が増えた者。

 仕事を辞め、家族と絶縁した者。

 そして――失踪者。


 販売元の団体は名を頻繁に変え、登記上はどれも解散している。


 知り合いに水の成分を調べさせた。


 結果は、ただの水。

 不純物なし。

 薬物反応もない。


「……一体、何なんだ……」


 俺は、多くの資料を前に言葉を失った。



 転機は、一本の電話だった。


「……あなたが、“神の水”を調べている探偵さん?」


 女の声だった。

 かすれていて、どこか怯えている。


「元、信者です。……抜けました。でも……ずっと見られてる気がするんです」


 彼女は、喫茶店で会うことを指定してきた。



 現れた彼女は、ひどく痩せていた。

 指先は絶えず震え、視線は定まらない。


「水自体は、ただの水。でも……“飲むと、見える”んです」


「何が?」


「……いるんです。最初は、夜だけ。でも、だんだん……」


 彼女は言葉を切り、視線を落とした。


「“源泉”には……溶けた人がいます」


 背中を、冷たいものがなぞる。


「……溶けた?」


「神と融合するには、身体も、心も、“神の水”に溶けなければならないんです……」


 彼女は、噛みしめるように言った。


「あの水は、飲むものじゃない。“混ざる”ものなんです。私たちは、神と混ざる……。そうすれば、私たちは新しい存在に生まれ変われる……」


 言葉の端々に、狂気が滲んでいた。


 気づけば、喉がひどく渇いている。

 俺は無意識にグラスを掴み、水を一気に飲み干した。


 水は、やけに甘かった。


「……新しい、存在?」


 自分の声が、わずかに震えていることに気づく。


「ええ……あなたにも、すぐにわかるわ……」



 その夜、俺は夢を見た。


 暗闇だった。

 だが、完全な闇ではない。

 どこかに光があると分かるのに、距離も方向も分からない、濁った闇。


 足元の感覚はない。

 地面に立っているのか、宙に浮いているのかさえ曖昧だった。


 やがて、遠くで水音がした。


 ちゃぷ……ちゃぷ……。


 規則正しく、執拗に繰り返される音。


 視線を向けると、闇の奥から巨大な影が浮かび上がってきた。


 水槽だった。


 コンテナハウスほどもある、巨大な水槽。


 その周囲を取り囲むように、白いローブを着た人々が並んでいた。


 顔は見えない。

 フードの影に隠れている。


 だが、全員が同じ方向を見ていることだけは分かった。


 それは──


 水槽の中。


 彼らは祈っていた。


 声は聞こえない。

 だが、唇だけが動いている。

 同じ言葉を、何度も、何度も。


 水槽の水は透き通っているはずなのに、なぜか中が見えない。


 目を凝らした瞬間、水面が、わずかに揺れた。


 泡が浮かぶ。

 ひとつ、またひとつ。

 泡が、言葉の形になる。


 ――たすけて。


 次の瞬間、

 水の中で、何かが動いた。


 ゆっくりと、底から、何かが浮かび上がってくる。


 最初に見えたのは、指だった。

 白く、異様に細い指。


 続いて、腕。


 肩。


 そして――顔。


 人間の顔だった。

 だが、生きている顔ではない。


 皮膚は水に溶けたようにふやけ、輪郭が曖昧になっている。

 目は開いているのに、焦点が合っていない。


 口が、ゆっくりと開いた。


 ――たすけて。


 その声は、ひとつではなかった。


 無数の顔が浮かび上がってくる。


 男、女、子ども。


 彼らは、同時に俺を見た。

 無数の目が、俺だけを見ている。


 ――たすけて。

 ――たすけて。

 ――たすけて。

 ――たすけて。

 ――たすけて。

 ――たすけて。


 言葉の輪郭が、少しずつ崩れていく。


 ――たす……けて。

 ――たす、け……て。

 ――た……すけて。


 逃げようとした。

 だが、足が動かない。


 そのとき、白いローブの一人が、ゆっくりとこちらを向いた。


 フードの奥にあったのは――


 俺の顔だった。



 目が覚めた。


 部屋は暗く、現実の静けさに包まれている。


 だが、胸の奥だけが、異様にざわついていた。


 喉が、ひどく渇いていた。


 まるで、何日も水を飲んでいないかのように。


 ピンポーン。


 そのとき、インターホンが鳴った。

最後までお読みいただきありがとうございます。

誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
次の犠牲者が…(ToT) 今回は日中に読んでよかったです…夜に読んでしまうと怖くて寝れなくなりそうなので〜(ToT) 神の水の正体はなんなんでしょう??
その感覚が⋯⋯文字から想像させられます⋯⋯。 怖い、来ちゃったよ⋯⋯。
作者様…… 怖い……怖いのですよ……とっても 怖いから……もう…… 助け……て……助……けて……たす……けて……た……ス………ケ… 読マセテ頂キマシテ アリガトウゴザイマシタ 怖イカンジノ感想ニシ…
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