破
探偵という仕事をしていると、「失踪」は珍しくない。
駆け落ち。借金。対人トラブル。宗教。
人が消える理由は、だいたいこの四つに収まる。
だが――宗教絡みだけは、いつも後味が悪い。
「弟が、急に連絡を絶ったんです……」
依頼人は三十代前半の男だった。
姿勢は正しいのに、目の奥だけが落ち着かない。
焦りと後悔が、抑えきれずに滲んでいる。
「最後に会ったとき、様子がおかしくて……水の話ばかりしていました」
「水?」
「ええ。“神の水”だとか……最初は冗談だと思ったんですが……」
その言葉をメモ帳に書き留めた瞬間、胸の奥で、得体の知れないものが静かにざわめいた。
宗教案件だ。
しかも――深く踏み込めば、戻れなくなる類の匂いがする。
◇
翌日、俺は失踪した弟の部屋を訪れた。
鍵を開けた瞬間、空気が変わった。
埃の匂いではない。
理屈より先に、ここへ入るべきではないという感覚が走る。
それでも俺は、鉛のように重い足を引きずり、部屋の中へ踏み込んだ。
部屋は、異様な静けさに満ちていた。
家具はない。
カーテンもない。
生活の痕跡が、意図的に削ぎ落とされている。
床一面を埋め尽くしていたのは、同じ形のペットボトルだけだった。
数える気にもならないほどの量。
どれも同じラベル、同じ金色の十字。
「……水か」
呟いた声が、やけに大きく響いた。
その中に一本だけ、
中身の残ったペットボトルがあった。
封はすでに切られている。
触りたくない。
触った瞬間、何かが始まる――そんな確信があった。
理屈じゃない。
経験でもない。
ただ、本能的な嫌悪だった。
俺は息を止め、慎重にそれを手にとる。
そのとき――
背後で、何かが動いた気配がした。
振り返ると、何もいない。
喉の奥に渇きを感じる。
俺は、それ以上部屋を調べなかった。
見てはいけないものが――
まだ、ここに残っている気がしたからだ。
◇
調査を進めると、“神の水”は訪問販売で流通していることがわかった。
購入者の中には、精神科への通院歴が増えた者。
仕事を辞め、家族と絶縁した者。
そして――失踪者。
販売元の団体は名を頻繁に変え、登記上はどれも解散している。
知り合いに水の成分を調べさせた。
結果は、ただの水。
不純物なし。
薬物反応もない。
「……一体、何なんだ……」
俺は、多くの資料を前に言葉を失った。
◇
転機は、一本の電話だった。
「……あなたが、“神の水”を調べている探偵さん?」
女の声だった。
かすれていて、どこか怯えている。
「元、信者です。……抜けました。でも……ずっと見られてる気がするんです」
彼女は、喫茶店で会うことを指定してきた。
現れた彼女は、ひどく痩せていた。
指先は絶えず震え、視線は定まらない。
「水自体は、ただの水。でも……“飲むと、見える”んです」
「何が?」
「……いるんです。最初は、夜だけ。でも、だんだん……」
彼女は言葉を切り、視線を落とした。
「“源泉”には……溶けた人がいます」
背中を、冷たいものがなぞる。
「……溶けた?」
「神と融合するには、身体も、心も、“神の水”に溶けなければならないんです……」
彼女は、噛みしめるように言った。
「あの水は、飲むものじゃない。“混ざる”ものなんです。私たちは、神と混ざる……。そうすれば、私たちは新しい存在に生まれ変われる……」
言葉の端々に、狂気が滲んでいた。
気づけば、喉がひどく渇いている。
俺は無意識にグラスを掴み、水を一気に飲み干した。
水は、やけに甘かった。
「……新しい、存在?」
自分の声が、わずかに震えていることに気づく。
「ええ……あなたにも、すぐにわかるわ……」
◇
その夜、俺は夢を見た。
暗闇だった。
だが、完全な闇ではない。
どこかに光があると分かるのに、距離も方向も分からない、濁った闇。
足元の感覚はない。
地面に立っているのか、宙に浮いているのかさえ曖昧だった。
やがて、遠くで水音がした。
ちゃぷ……ちゃぷ……。
規則正しく、執拗に繰り返される音。
視線を向けると、闇の奥から巨大な影が浮かび上がってきた。
水槽だった。
コンテナハウスほどもある、巨大な水槽。
その周囲を取り囲むように、白いローブを着た人々が並んでいた。
顔は見えない。
フードの影に隠れている。
だが、全員が同じ方向を見ていることだけは分かった。
それは──
水槽の中。
彼らは祈っていた。
声は聞こえない。
だが、唇だけが動いている。
同じ言葉を、何度も、何度も。
水槽の水は透き通っているはずなのに、なぜか中が見えない。
目を凝らした瞬間、水面が、わずかに揺れた。
泡が浮かぶ。
ひとつ、またひとつ。
泡が、言葉の形になる。
――たすけて。
次の瞬間、
水の中で、何かが動いた。
ゆっくりと、底から、何かが浮かび上がってくる。
最初に見えたのは、指だった。
白く、異様に細い指。
続いて、腕。
肩。
そして――顔。
人間の顔だった。
だが、生きている顔ではない。
皮膚は水に溶けたようにふやけ、輪郭が曖昧になっている。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
口が、ゆっくりと開いた。
――たすけて。
その声は、ひとつではなかった。
無数の顔が浮かび上がってくる。
男、女、子ども。
彼らは、同時に俺を見た。
無数の目が、俺だけを見ている。
――たすけて。
――たすけて。
――たすけて。
――たすけて。
――たすけて。
――たすけて。
言葉の輪郭が、少しずつ崩れていく。
――たす……けて。
――たす、け……て。
――た……すけて。
逃げようとした。
だが、足が動かない。
そのとき、白いローブの一人が、ゆっくりとこちらを向いた。
フードの奥にあったのは――
俺の顔だった。
◇
目が覚めた。
部屋は暗く、現実の静けさに包まれている。
だが、胸の奥だけが、異様にざわついていた。
喉が、ひどく渇いていた。
まるで、何日も水を飲んでいないかのように。
ピンポーン。
そのとき、インターホンが鳴った。
最後までお読みいただきありがとうございます。
誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。




