序章:空と宇宙の交錯
1.1 航空自衛隊、その組織と魂
日本の空を守る航空自衛隊(空自)。その組織は、おおきくは航空総隊、航空支援集団、航空教育集団、航空開発実験集団、補給本部の5つの組織で成り立っている。この中で、国家防衛の最前線に立ち、直接の航空戦闘任務が与えられているのが、第1線の実働部隊である航空総隊だ。だが実はここには、F-15やF-35といった最新鋭の戦闘機部隊のみならず、パトリオットミサイル部隊などの高射砲部隊、あるいは地上の空域を監視し、航空機の安全を確保する管制警戒部隊も編成されている。航空総隊は、まさに空自の心臓部であり、その強靭な盾だと言えるだろう。
空自の約4万5千人に及ぶ隊員は、事務職から操縦士にいたるまで、それぞれが固有の一連の番号で管理されている。正確に言うと、防衛省の訓令によって定められた4桁から5桁の数字。それを特技番号と呼ぶ。航空自衛隊の場合、パイロットでいえば戦闘機からヘリまで共通で「1124」が割り振られ、それが固定翼か回転翼かはさらにその番号の後ろのアルファベットで識別される。最終的には、その番号を見るだけで、操縦する航空機種が判別できるようになっている。ちなみに、戦闘機を駆るパイロットの特技番号は「1124F」であり、練習機は「1124T」となる。この特技番号は、それぞれのパイロットのステータスシンボルともなっていると言えよう。
特に戦闘機乗りにとって、「F」の識別記号は、自分が実働部隊の防空の最前線に立つ者であるという高いプライドと、その自尊心をくすぐるシンボルとなっていた。彼らは、文字通り、日本の空の守護者なのだ。一方、戦闘機操縦課程の学生の後ろに乗って教える「T」は、他の分野の「ティーチャー」という意味合いとは若干異なり、パイロット仲間の意識の中では、「F」と「T」との間にはおおきな格差が存在している。もちろん、「T」が「F」に比べれば格下と見られることがあることは否定できない。それは、最前線で命を削る者と、それを支える者との間に生じる、ある種のヒエラルキーだった。
1.2 父の夢とF-15の記憶
「俺の父が空自に入ったとき、ちょうど米国からF-15イーグル戦闘機の導入を決定した時だった」。航空博物館を歩きながら、初老の男、深見は、ゆっくりと自身の過去を語り始めた。展示されているF-15の巨大な姿を見上げながら、彼の瞳は遠い過去を映し出す。
「1機、当時で100億を超す機体だったが、巨大な推力を発揮する米国製のエンジン2基で、確かロッキード製だったと思うが、アフターバーナーを点火すれば音速の2倍を軽く超える速力を実現していた」。父はいつもその速さを絶賛していた記憶がある。その音速の壁を軽々と超える爆音は、当時の人々の度肝を抜いた。「だが、速さだけではなかった。一つ前の空自の機体であるF-104と比較して優に3倍はある広大な主翼を有していた。その低い翼面荷重により、まさにそのネーミングどおり、猛禽類のように素早く敵の背後に回り込む高い旋回性能と空戦能力を持っていた。」
父は酒を口にするたびに、当時小学一年生だった深見を相手に、熱く語っていたという。「しかも、敵を仕留めるには背後から撃つバルカン砲だけではない。ちょうど空対空ミサイルの第一次全盛期であり、航空電子機器を豊富に装備することにより多彩な誘導ミサイルを装備できるF-15は、当時の航空戦の様相を一変させた革命的な制空戦闘機だった」。少年の深見は、父の語る壮大な航空戦の世界に、目を輝かせて聞き入っていた。父は当時、T-2高等練習機の教官をしており、F-15への配置を熱望していたらしいが、父の上司は父を評価はするものの、後押しをしてくれるまでには至らなかったそうだ。その悔しさが、父の心に燻り続けていたのを、深見は幼心に感じていた。
1.3 エリートたちの矜持と特権
「俺たちは、航空戦闘で国家防衛の盾となると誓った身だ。戦闘機に乗っている第一線のパイロットなら、命を捨てる覚悟はみな持っている。だからこそ、我々には膨大な血税が投入された最新鋭の戦闘機で大空を駆け巡り、その中で超常的な飛行の愉悦に浸るという特権が許されているんだ」。深見は、まるで自身に言い聞かせるかのように語る。それはまさに、戦うための戦闘機を命を捨てる覚悟で駆ることを決意したもののみに与えられた、深く重い反対給付と言えるだろう。
彼ら「トップガン」と呼ばれる戦闘機乗りの占める絶対数は極めて少ない。おおよそ空自全体の1%にも満たない数だろう。その意味では超エリート集団だと言える。実際、空自の航空機全体の飛行任務についているDP(飛行任務操縦士)だけでもわずか1500名程度だ。このうち戦闘機乗りは約その3分の1の500名弱にすぎない。その人数でさえも、ベンチ入りを含めた数で、実際の常時戦闘訓練や実戦任務についているスタメンの数にすると、さらにその半分に減ってしまう。彼らは、選ばれし者たちなのだ。
1.4 F-104J:最後の有人戦闘機
航空博物館を歩きながら、その初老の男はゆっくりと自身の過去を語り始めた。
「私の父が空自の現役パイロットだったちょうどそのころ、そう62年頃から配備されはじめたのがこの飛行機だ。」彼はミュージアムのほぼ中央、天井近くに釣り上げられたF-104Jに目を向けた。その機体は、まるで魚雷に翼をつけたような、細く鋭いシルエットをしていた。まさに「空飛ぶ鉛筆」という異名の通りの形状だ。
「この機体は最後の有人戦闘機と呼ばれた」。父はよくそう言っていた。「すでに従来の旧式の戦闘機のもつ戦闘機らしい高い旋回性能よりも、成層圏まで戦略爆撃機めがけて垂直に駆け上がるロケットのような極端な上昇能力を最優先としたのがその特徴だった。ちょうど空対空誘導ミサイルの登場で、もう前大戦のような戦闘機どうしの空戦はないだろうと思われていた時代が到来しつつあったときだった。」
その時代は、戦闘機の役割が大きく変わろうとしていた過渡期だった。ドッグファイトの時代は終わり、これからはミサイルが空戦の主役になると信じられていた。F-104Jは、その思想の象徴のような機体だった。しかし、皮肉にも、その思想は後に覆されることになる。
当時、年に1度、全国から戦闘飛行隊の代表選手が集まって行う戦技競技会があった。父はそれに、よく出場したものだった。競技の中心は、競点射撃。空中を曳航される標的の吹き流しに対しての弾丸命中率を競うのだ。1回の射撃で100発撃ち、5回の射撃で30発以上命中を2回以上達成すれば、エキスパートシューターと認められた。
「俺は何回かに一回は、先輩をよそめに、ソファーで煙草をくゆらせることができた。腕には自信があった」。父は当時を振り返り、誇らしげに語ったものだ。「先輩だろうが後輩だろうが関係ない。強いものが勝つ。そして強いものがその集団を仕切る。それが当時の父の頭の中を支配していた考え方だった。」
今思えば、ずいぶん家庭でも傲慢な親父だったように思う、と深見は独りごちた。しかし、それは戦場で生き残るための、彼なりの哲学だったのかもしれない。父は、常に強さを追求し、それを自らの存在意義としていた。
1.5 ベトナム戦争の衝撃:空戦の現実
ところが、本格化したベトナム戦争、そして第三次中東戦争、第四次中東戦争で制空権の重要性が再認識されると同時に、航空戦の様相を根底から覆す、ショッキングな事実が判明した。
「ベトナム戦で米戦闘機がばたばたと撃墜されたことだった」。父はそう語り出した。「緒戦となった1965年4月の最初の1週間で、ミグ17。この左上の展示機だが、こいつを相手にした3回の空戦で、米軍は海軍のF-4Bと空軍はF-105Dを計3機撃墜された。しかも米軍はいずれもベテランパイロットであったのに対し、北ベトナム側はわずか半年の経験しかないパイロットだった。」
この事実は、当時の米軍、そして世界の航空戦術に大きな衝撃を与えた。ミサイル万能論の幻想が打ち砕かれ、再びドッグファイト(格闘戦)の重要性がクローズアップされることになったのだ。
ベトナム航空戦での交戦規定は、実際に目で見て、敵か味方かを識別するように定められていた。このため、予期せぬ接近戦にもつれ込むこととなった。ミサイルによる遠距離攻撃ができない状況下では、パイロットの腕と、機体の格闘性能が、勝敗を分ける決定的な要素となる。
「当時のパイロットたちは、F-104のような直線番長の機体で、ミグのような旋回性能に優れた機体と戦わなければならなかった。それは、まるでナイフで銃に立ち向かうようなものだった」。父は、当時のパイロットたちの苦境を、悔しそうに語っていた。
この経験が、後のF-15開発に大きな影響を与えることになる。そして、日本の航空自衛隊もまた、この戦訓から多くのことを学び、戦闘機パイロットの訓練、特にACMの重要性を再認識していくことになったのだ。深見は、展示されたF-104Jを見上げながら、父が語ったその時代の空戦の過酷さと、そこで生き残るために必要だったパイロットたちの技術と精神に、改めて思いを馳せていた。