第1章 惑星ファル地表拠点奪還戦 2
色の濃い青空に、白く輝く水晶原石のような光線照射量調整用の巨大構造物が浮かぶ。
国境惑星たるファルは、ボルニア帝国の辺境域にあるだけでなく人の居住にはやや困難があった。星系の恒星からファルまで距離があり、人並びにそれを維持する生態系が居住するには太陽光の照射量が足りないのだ。今から約二十万年前にあった宇宙開拓時の入植盛んな時分、人類の自らの活動範囲を広げる熱意は、地球型惑星であれば本来人の居住に向かない惑星にも向けられた。それが終われば、採掘目的以外にも小惑星や衛星にも。途方もない規模で行われる惑星改造は、さながら人類の手で行われた天地創造だったという。
惑星の公転周期や軌道に問題があれば小惑星をぶつけ修正し、一Gの重力を得るため同様な手法で自転速度を上げたり下げたりした。氷の小惑星や彗星を激突させ海や大気を作り出し、地球から持ち込んだ生物群により生態系を確立した。
惑星に居住する人口は、その環境によって左右され人気の影響を受ける。ファルのようなミラー等の人工物で日照量を調整するような惑星はあまり人気がないのだ。巨大構造物が何らかの事故等により故障すれば、地上は瞬時に極寒の地獄と化し居住民は下手すれば死に絶える。逆に日照量が多すぎて光線照射量調整を行う場合、事故が起きれば瞬時に地上は焦熱の地獄と化し居住民は焼き殺される。この惑星にはそのようなリスクがあり、移住者は自ずとより有利な惑星へ目を向け辺境に位置しなくとも人口密度の低い惑星となる。
それでもファルは国境惑星といった利点があり、宇宙港の先に広がる零が軌道往還機から見た広大な光景は、気候のため荒涼とした風景が広がりながらも一定間隔でそれなりの規模の市街地を有したコロニーが点在していた。通常この時代、他国へ入国するには国境惑星を経由しなければならず、通常の辺境域の惑星よりも規模の大きい駐留軍が拠点とし頻繁に出入りする大量の艦船が富を落とし惑星を潤していた。
本来キロメートル以下の艦船が用いる民間宇宙港である惑星ファル駐留軍臨時本部棟の片面が透過素材張りとなった廊下を歩きながら、外の景色に目を輝かせるブレイズへ零はやや剣呑な声を放つ。
「どうして、おまえがここに居る? 貨物船のお守りはどうした?」
「ああ。あんなのただの急場の糊口凌ぎさ。俺は、仕官先をずっと探してたんだ。機を窺っていたのさ。このときを待ってた。大国ボルニアに仕える、な」
外の景色から視線を外しそう答えるブレイズはどことなく偉そうで滑稽さが漂い、横目で見ている零は冷淡に突っ込む。
「三時間前に、ボルニアの募兵を知ったくせに」
「乗り悪ーな。合わせろよ。何しろ、あの大国ボルニアに二人とも、仮とはいえ仕官が適ったんだ。例えおまえの言うとおりだとしても、俺みたいに切り替えろよ」
「ブレイズみたいにって、どんな?」
先をずんずん歩いていた零は歩調を落とし、ブレイズへ露骨に嫌そうな顔を向ける。道化じみた自分を見習えと、堂々と言っているのだ。
一方、ブレイズは呆れ顔をすると、説教じみた調子で零を窘める。
「そんなことだから、さっきみたいなことになるんだ。三時間前までオーガスアイランド号の用心棒をやってた俺は、遍歴の戦士様だ。な、格好いいだろう。比べておまえときたら」
困った者を見るような視線を向けてくるブレイズに、零は吐息と共に嫌味の切れが悪い不満を溢す。
「おまえみたいな奴に諭されなくちゃならないなんて、嫌な世の中だよな。我が身の不遇を嘆くばかりだ」
「馬鹿正直に、旅の巡礼者なんて書くなよ。それは、三時間前までのこと。今は違うんだ。はったりを効かせろよ。入っちまえば、こっちのものなんだ。そんなもの捨てちまえ」
強化樹脂の床を蹴りつけるブーツの足音を高く響かせると、ブレイズはそう零へと叩き付けた。瑣事など、船に置いてこいとでも言うように。一歩大きく踏み出し回り込むと、零は先を塞ぐように立ち止まった。
やや顔を反らすようにブレイズを見遣りトーンを落とし話し出す零の声には、何故か物騒な気配が漂う。
「誤解しているようだけど、今だって俺は旅の巡礼者だ。ブレイズのように捨てていいものじゃない。募兵に応じる決意をしたからって、辞めるつもりはないよ。先を急ぎたいんだ。いつまでも、国境惑星で足止めを喰らっているわけにはいかないんだ。次の巡礼所、帝星エクス・ガイヤルドにあるエクス・ガイヤ大聖堂へ向かい期限内に巡礼証明書を得なければ、七道教の庇護を失い旅の巡礼者としての資格を失ってしまう。失効してから再び資格を得るまでどれだけかかるか。その間旅は中断され、生活費がかさむだけ。あっという間に、旅費なんて底をついちまう」
「猊下に頼めば良かったじゃないか。事情は知ってるんだからよ。別に次の巡礼地へ行くまでサボってたわけじゃない。内乱で足止めを喰らってたんだ」
「そんな些末なこと、銀河全土に影響が及ぶ七道教の頂点たるアーク・ビショップに頼めるかっ! 使い走りじゃないんだ。末端信徒の頼みを、七導教の地方教会に持ち込んで貰うなんて真似をしたら俺の立場なんてない。俺はこれでも信徒の端くれだからな、恐れ多いのさ。それに、どちらにせよ難しいだろうな。あの方にも、急ぎの用があるらしい。詳しい事情を、教えて貰えるかも知れないぜ。ここだ」
親指で右側の背後にある壁沿いのシックな作りをしたレトロな木製の両開きドアを指し示す零へ、ブレイズは怪訝な顔を向ける。
「ん? 何の話だよ。それにいきなり何だ?」
「一杯奢って欲しいんだろう。初めての場所なんだから、港内マップくらい表示しておけよ。お目当ての酒場はここだぜ。ま、おまえに奢るのはついでだけどな。元々、ここに来るつもりだったし」
彫刻の施された黒いノブを回しドアを開くと、中は惑星ファル駐留軍の略式の戦闘礼装も兼ねた紺色を基調とした戦闘服姿のキャバリアーに混じって、出港許可を得られぬキロメートル以下の航宙船の乗員だろう民間人が目についた。その者たちはファルのどこへ行く当てもなく宇宙港内で無為徒食を余儀なくされており、気を紛らわすのにうってつけのこの場所でくだを巻いていた。友人知人に関係なくテーブルを囲んでいるらしく、大方聞こえてくるのはこの封鎖による損害の話で、たまにボルニア帝国やトルキア帝国への怨嗟の声も混じった。
喧噪が渦巻くテーブル席を突っ切り、汎用コミュニケーター・オルタナのナビをAR認識処理で表示させていた零は目的のマーカーを頼りに迷いない足取りでカウンターの奥へと向かった。カウンターが直角に曲がり壁を背にする奥には、黒いゴシック風の戦闘服を纏ったヘザー・ナイトリーとローブ姿の人物が並んでスツールに腰掛けていた。
その姿を認めると零の後を付いてきたブレイズが、一歩前へ出て意外そうな声を上げる。
「あれ? 零は、あの女戦士と待ち合わせてたのか?」
「用心棒さんも募兵に応じたのね? オーガスアイランド号の護衛はいいの?」
「まー、その、姉さんも無事だったし、俺はそもそも用心棒をしたいわけじゃないからな。繋ぎの仕事だ。あんなことがあって済まないとは思ったけど、無理を通させて貰った。ってか、おまえは募兵に応じないのかよ? こんないい話滅多にないぜ。腕は立ちそうなのに」
「大きな戦があって。わたしは、その慰労を兼ねた旅行が目的なんです。ま、民間軍事企業や傭兵団を渡り歩くわたしにとって悪い話じゃないと思いましたが、余暇を台無しにするのも勿体ありませんし、危険な立場にある貴人を放っておくことは出来ません」
淑やかに応じるヘザーの言葉に、ブレイズは顔を怪訝にする。
「貴人? それって――」
「ありがとうございます、ヘザーさん。同行を申し出てくれて」
問いかけようとブレイズがしたとき、ヘザーの奥隣に座るローブ姿の人物の声が先んじた。それからフードを少し引き下ろすと、屈託なく清らかな美貌が顕わになる。
「ア、アレクシア猊下! ど、どうしてここに?」
驚きの声を上げるブレイズの頭を背後から、零はいい音を響かせ思い切りひっぱたく。
「馬鹿! 黙れよ、ブレイズ。騒ぎになるだろう」
「ってーな、おまえ。今、遠慮なしにぶっ叩いただろう」
「おまえが、間抜けだからだ」
後頭部をさすり抗議の声を上げるブレイズを、零は冷ややかな視線で眺めやった。
淑やかさを消し去った鞭が鳴るような声で零とブレイズを窘めつつ、ヘザーは立ち上がり席を空ける。
「二人とも、あまり騒ぎませんように。目立ちたくはないでしょう。猊下の存在が知れれば、内乱中の今只の騒ぎでは済まなくなるかも知れません」
「ああ、済まない。その通りだ」
「そ、そうだよな」
ヘザーが空けたルナ=マリーとの間の席につきつつ、零は素っ気なくブレイズは申し訳なさそうに答えた。
隣に座った零の身体越しに、ルナ=マリーはブレイズを覗き込む。
「あの、ブレイズさんと仰るのですよね。オーガスアイランド号ではお世話になりました」
「あ、いや。船の防衛は、一応俺の仕事ですから。ブレイズ・リュトヴィッツ。一応、名乗っておきます」
「ルナ=マリー・アレクシアです」
「知ってます。銀河でその名と顔を知らぬ者は少ないでしょう」
律儀に名乗り返すルナ=マリーに、ブレイズは苦笑した。
フードを戻すとルナ=マリーは菫色の瞳を零へと向け、面を引き締める。
「零さん。それで、いかがでしたか?」
「はい。無事、ボルニアに雇われました。亜空間航路封鎖を解けるかは、保証しかねますが」
「巡礼に旅立つ事情がおありなのでしょう。ソルダとしての生き方は捨てたと仰っておられたのに、無理を言って済みませんでした。わたくしは、急ぎボルニア帝国領内へ入る必要があるのです」
ひたむきな様子のルナ=マリーにその急ぎの用とやらを知りたいと零は思ったが、ブレイズの声に振り向く。
「零、おまえ、猊下の要請でボルニアの募兵に応じたのか?」
「それだけじゃない。俺自身のためでもある。旅の巡礼者である俺は、いつまでも国境惑星で足止めを喰らっているわけにはいかない。さっきも言ったように、期限内に巡礼証明書を得なければ、七道教の庇護を失い旅の巡礼者としての資格を失ってしまう。そのためには、次の巡礼地帝星エクス・ガイヤルドに向かう必要がある。俺とアレクシア猊下の目的は一致しているんだ。だから、俺の考えでもある」
確かにルナ=マリーに頼まれたからそれに背を押されたこともあるが、募兵に応じたのは零自身の意思でもあった。
ブレイズは頷きつつ、ルナ=マリーへ視線を向ける。
「なるほど。猊下の護衛なら旅の巡礼者で七道信徒の零がやるべきだって思ったけど、そういうことならな。けど、ボルニア帝国軍に庇護は求められないんですか? ボルニア国内に用がおありなら、その方が手っ取り早いでしょう」
「新皇帝ヴァージニア陛下を信用していいのかどうか。もしわたくしが迂闊にボルニア帝国軍に庇護を求めれば、新皇帝の正当性と権威付けに利用されてしまう恐れがあります。前皇帝アイロス陛下の噂はかねがね聞き及んでおり、今回の反乱も致し方なかったことと思います。しかし、ボルニア帝国内は未だ他国が介入する内乱中。その中で、ヴァージニア陛下が戦を有利に導くためわたくしを用いないとも限りません」
「あのオクラヴィアンの例もあります。いくら用心しても如くはありません。猊下が支持するということは、周囲にその者は正しいと見なされてしまいますから。いかな愚物で世に出る前の手段が卑劣であろうと、表向きの大義があれば」
ルナ=マリーの後を受け淑やかだが辛辣に語るヘザーの言葉に、ブレイズは嫌そうな表情を端正な面に浮かべた。
オクラヴィアンが帝位を頂いた姿を想像でもしたのだろうと、零は未だ尋ねていなかったことを尋ねる。
「それで、アレクシア猊下。ボルニアに危険を冒して向かう目的は何なんです?」
「……そうですね。わたくしの頼みを聞き入れてくれた零さんには、知る権利がありますね。まだはっきりしていないことが多く、下手をすれば七道一助の各宗教どうしの争いにも発展しかねないことですので内密に願います」
暫し迷う素振りを見せるとルナ=マリーは、零へ、そしてブレイズとヘザーへ視線を送り、三人へ身を乗り出し口を開く。
「最近、各地の教会からおかしな報告が届くようになったのです。聖導教の信徒による七道教や信徒への批判や嫌がらせ行為が、ここのところ頻発しているというのです。主な彼らの言い分は、どうして正しき我らの教えがあるのに啓示等により発足したわけでもなく七道教などという慈善組織から発足した団体に、七道の独立した各宗教を包括しているような態度を取られなければならないのか、と。これまで、七道教と七つの宗教の関係は良好でしたのでこれは異例です。それで、七道教は探訪兵団群を派遣し調査を開始したのです」
屈託ないルナ=マリーの表情が曇り、声音に苦悶が滲む。
「すると、同時期にある報告が上がり始めていたことが分かりました。各地にある世界の門の古代遺跡で異変が起き始めていたのです。それで遺跡を調査することを決定した矢先、総本星セプテム・R.I.P.が聖導教の神光兵団群に包囲されてしまったのです」
「何ですって? 大事ではないですか」
七道一助の軍事衝突などつい耳にしたことがない零は我知らず声が大きくなってしまい、はっとなり周囲を窺った。
ルナ=マリーは、頷き話を続ける。
「はい。聖導教側は、七道教と頻発する二教間の争いの釈明を求めてきたのです。そして、わたくしのセプテム大聖堂内での暗殺未遂。これらが起こったのは、七道教が遺跡調査を決定してから立て続けに。これは何かある、急ぎ調べねば。わたくしは、確信を強めました。セプテム・R.I.P.から最も近い世界の門の古代遺跡は、リヨン聖王国。ですが、かの国は聖導教の勢力が強く、七道教を含む他の七道に名を連ねる宗教の活動はあまりありません。そのため、世界の門の古代遺跡がある次に近い国であるボルニア帝国へ。僅かな供回りと共に、まだ民間船の出入りまで封鎖されてなかったので、それに混じり小型恒星艇で包囲を抜け出したのです。が、追っ手がすぐに差し向けられました。恐らく、セプテム大聖堂内に聖導教の間諜が入り込んでいたのでしょう。追っ手を振り切ったところで、どこでわたくしの情報を得たのかあのオクラヴィアンに襲撃され護衛のキャバリアーとはぐれオーガスアイランド号に」
ルナ=マリーが話し終えると、ブレイズとヘザーがそれぞれにやや当惑気味に口を開く。
「何だか、穏やかじゃねーな。聖導教、最大派閥つってもやけに強引じゃないか」
「アレクシア猊下の旅の理由を初めて知りましたが、これは何と言うか、不可解な点が多くて何とも言い難い」
二人の言葉を聞きながら、零も正直何が起きているのか分かりかねたが、ルナ=マリーに一信徒として釘を刺す。
「何かはある。それは、確かでしょう。刺客や追っ手。ですが、猊下の行動は正直無謀です。誰かに任せるべきでした」
「ことがことです。自分の目と耳とで、確かめたかったのです。聖導教との関係が、それだけ深刻だということでもあるのです。ご自分のためで構いません。どうか、先へと進む道を切り開いてください」
「確約できればいいのですが、武勇一つでどうにかなるものでもありません。善処しますとしか。申し訳ありません」
ルナ=マリーからの依頼は己の目的と一致し行動を起こす理由付けと思っていたが、期待をかけてくれているらしい様子に、さすがに零もばつが悪く恐縮してみせた。
が、零のように性根が汚れていないらしいルナ=マリーは、気づくふうもなく優しい微笑みを向けてくる。
「それで、十分です。元よりお一人でどうにかなるなどとは、さすがに戦に疎いわたくしでも思ってはおりません」
「それは、良かった。絵空事を信じてなくて。過度な希望を持たれては、さすがに心苦しいですから」
「ですが、零さんに期待してるのは確かですよ。それこそ、絵空事のようなことを少しは望んでしまいます。それだけ、切羽詰まってもいるのですが。気負わせるようなことを言って、済みません」
ぺこりと頭を下げるルナ=マリーに零は「やってみます」と答えると、入店時オルタナと店のホスト人工知能が自動接続されARデスクトップに浮かんでいるメニューアイコンをタップし、表示をAR認識処理からホログラム表示に切り替えブレイズへ視線を送る。
「約束どおり、一杯奢る。好きなの選べよ。ファル特産のリキュールなんてのがあるぞ」
「悪ーな。どれどれ。おっ、いいな、地酒って。有名でなけりゃその場所でしか飲めないってのが、限定品みたいな希少価値があるっていうか」
「じゃこれ頼むぞ」
ずらりと並ぶメニューから、零はファーサというそのリキュールをグラスで二つ注文した。
すぐさまカウンターを担当するヒューマノイドのボーイが滑らせたグラスが、零とブレイズの前でピタリと止まった。
それぞれにグラスを手にすると、ブレイズがグラスを掲げる。
「じゃ、乾杯。ボルニアでの俺たちの前途に幸があるように」
「乾杯。前途の幸とやらは要らないが、あのいけ好かない面接官の妨害にめげず、俺がボルニアに雇われたことに」
零もブレイズに倣いグラスを掲げ乾杯する理由を口にすると、互いにグラスをぶつけ競うように一口飲んだ。
滑らかなくせに熱い喉越しに、悪くないと零はグラスを目の前に据え黎明の空を思わせるヴァイオレットの液体を翳す。
「結構いける」
「ああ。うまい。あたりだな」
二口目を口に含みつつ、ブレイズは端正な面を満足げに笑ませた。
零とブレイズを挟む形でカウンターに座るルナ=マリーとヘザーは、このメンバーならリードされるべき女性陣を放って乾杯し一杯やり始めた男性陣へ、前者は目を見張ったものの微苦笑に感情を収め後者は無遠慮に声を尖らせる。
「まぁ、お二人とも随分美味しそうに飲むのですね」
「全く。零はブレイズではなく、猊下とここで落ち合う約束をしていたのでしょう? 目当ての人物を無視してお楽しみとは」
「失礼、猊下。こいつに奢る約束をしていまして。ヘザーも頼んでみるといい」
約束だからさっさと済ませてしまおうとしたのだが地酒が思いのほか美味しくて、つい零は真面目に飲んでしまいルナ=マリーを失念した罪悪感を取り澄まして誤魔化した。
悪びれる様子のない零にルナ=マリーは、微苦笑をポーカーフェイスへ変えようとして失敗しこいつはという表情で、けれど、口調と伸びやかな声には見事に寛容さを纏う。
「ここは酒場ですから、構いません。ヘザーさんもわたくしに遠慮しないでください。わたくしは、まだ酒を嗜める歳ではありませんから」
「さすがは猊下。お見事というか、鍛えられているというか」
「何を言っているのです?」
苦笑するヘザーに、不思議そうにするルナ=マリーの菫色の瞳は少し怖かった。それへは返さず、ヘザーは黙ってARデスクトップを操作し恐らく零たちと同じ地酒を注文した。
やはり同じ物を注文したヘザーは「この色、ハーブですね」と青と紫の中間のような色合いを眺め味に精緻に整った面を満足げにした。自腹で飲んでいる零は一杯のこの地方でしか味わえないリキュールを愉しみつつ、ヒューマノイドのボーイがカウンターを滑らせたグラスを受け取るブレイズを軽く睨んだ。二杯目を「一杯って言ってたじゃないか」との抗議に「言葉の綾だ」と遠慮なく注文させ飲み始めるブレイズを恨めしく零は思う。