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第1章 記憶の果てより

 2024年4月。

 佐伯英三郎は、古びた喫茶店の窓辺に腰掛けていた。


 店の名は「月の涙」。五十年以上も前からここに在り続ける、レトロな雰囲気の店だ。ショーウィンドウには、時代を感じさせる置時計が並んでいる。


 佐伯は、窓の外の桜並木を見つめていた。


 淡紅色の花びらが、春の風に舞う。その一つ一つが、過ぎ去った時の欠片のように感じられる。


 七十七年。それが、この身体の年齢。

 しかし魂の記憶は、はるかに古い。


 数千年の時を越え、幾度となく生まれ変わってきた。

 その間ずっと、人類を見守り続けてきた。


 エイドリアン・セイヴァルとしての記憶。

 そして、佐伯英三郎として生きてきた記憶。

 それらが重なり合い、この一つの意識を形作っている。


「お待たせしました」


 店主の老婆が、コーヒーを運んでくる。


「ありがとう」


 佐伯は微笑んで受け取る。この仕草も、人間として学んだものの一つだ。


 コーヒーの香りが、鼻腔をくすぐる。

 観測者としての記憶の中には、こんな感覚はなかった。


 その時、携帯電話が震えた。

 画面には見覚えのある番号。


『K-617の記憶が覚醒。貴方の判断を』


 佐伯の表情が引き締まる。

 ついに、新しい記憶保持者が目覚めたのだ。


 しかも、K-617。

 特別な存在。


「霧島凪……」


 その名を呟きながら、佐伯は遠い記憶を辿る。


 * * *


 十年前、雨の降る日。

 彼は公園のベンチで、一人の少女を見かけた。


 傘もささず、雨に打たれながら立ちつくす少女。

 その瞳の奥に、佐伯は特別な輝きを見た。


 魂の輝き。

 数千年に一人、現れるかどうかの才能。


 佐伯は、その場で決断を下していた。

 彼女を、記憶保持者の候補として推薦することを。


 * * *


「もう、その時が来たか……」


 佐伯はゆっくりとコーヒーを啜る。

 苦みが、舌の上で静かに広がっていく。


 人間の感覚は面白い。

 味覚一つとっても、こんなにも複雑で豊かなのだ。


 窓の外では、桜吹雪が舞っている。

 エイドリアンとしての記憶の中で、地球の春は単なるデータの一つでしかなかった。


 気温の上昇。

 日照時間の変化。

 植物の生育サイクル。


 しかし人として生きてみれば、春には特別な魔法がある。

 希望と、新生と、そして……切なさの魔法が。


 佐伯は立ち上がり、レジに向かう。

 財布から紙幣を取り出す動作にも、もう違和感はない。


 店を出ると、風が頬を撫でていった。

 七十七年の人生で、この感覚にも完全に慣れた。


 しかし時折、彼は思い出す。

 かつて自分が何者だったのかを。


 銀河系観測評議会の一員。

 人類の進化を見守る観察者。

 そして今は……記憶保持者の一人として。


 スマートフォンを取り出し、メッセージを打つ。


『K-617へ。君の記憶が戻ったことは確認済みだ。放課後、駅前の喫茶店「月の涙」で待っている。――K-213より』


 送信ボタンを押す。

 この行為もまた、人類の技術の中で学んだものだ。


 桜並木を歩きながら、佐伯は考える。

 この出会いが、実験にどんな影響を与えるのか。


 人類の運命を左右する、重要な分岐点になるかもしれない。


 春の風が、再び桜の花びらを舞い上げた。

 まるで、未来を予見するかのように。


 それは、エイドリアン・セイヴァルが選んだ道の、新たな一歩となるはずだった。


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