プロローグ 永劫の選択
銀河系観測評議会の広大な会議室で、エイドリアン・セイヴァルは静かに立ち上がった。
透明な結晶でできた壁の向こうには、無数の星々が瞬いている。その一つ一つが、生命を育む可能性を秘めた実験場だった。
「実験体K-213として、人類への転生を志願いたします」
エイドリアンの言葉に、評議会のメンバーたちが青みがかった顔を上げた。彼らの大きな瞳には、驚きの色が浮かんでいる。
議長のアストリアが、長い指を組み合わせながら問いかけた。
「理由を述べよ、セイヴァル」
エイドリアンは、壁に映し出された地球の映像を見つめた。青く輝くその惑星には、特別な魅力があった。
「人類という種の可能性を、より深く理解したいのです」
「しかし」
副議長のメビウスが口を開く。
「君は既に三千年以上、地球の観測に携わってきた。なぜ今更、実験体として転生する必要がある?」
エイドリアンは深く息を吸い込んだ。彼らの種族には肺はないが、この仕草には意思を整理する効果があった。
「確かに、私は長年地球を観測してきました。しかし、それは常に外部からの視点でした」
彼は観測データを呼び出す。空中に、人類の様々な営みが浮かび上がる。
「戦争、破壊、憎しみ。確かに人類は未熟な種です。しかし、その一方で……」
映像が切り替わる。
夕暮れの海辺で笑い合う親子。
満開の桜の下で抱き合う恋人たち。
飢饉の中で最後の一片のパンを分け合う人々。
死の床で、なお希望を語る老人。
「この矛盾に満ちた存在の内側から、真実を見てみたいのです」
アストリアが静かに頷いた。
「だが、危険も伴う。記憶を保持したまま転生を繰り返せば、精神が崩壊する可能性も高い」
「承知しています」
エイドリアンは毅然と答えた。
「それでも、私は行きたい。人類の中で生き、死に、また生まれ変わる。その過程で、彼らの真の価値を見極めたい」
会議室に長い沈黙が流れる。
無数の星々が、その決断を見守っているかのようだった。
やがて、アストリアが立ち上がった。
「評議会は、エイドリアン・セイヴァルの志願を承認する」
青白い光が、会議室を満たす。
「実験体K-213として、地球における転生の記憶を保持することを許可する。ただし、以下の条件を付す」
アストリアの声が、厳かに響く。
「一、人類の進化を妨げてはならない」
「二、実験の存在を故意に漏洩してはならない」
「三、他の実験体の記憶覚醒を意図的に促してはならない」
「誓います」
エイドリアンは深く頭を下げた。
「では、転生の準備を始めよう」
メビウスが装置を起動する。エイドリアンの体が、淡い光に包まれていく。
「セイヴァル」
アストリアが最後に声をかけた。
「なぜ、そこまでして人類を理解しようとする?」
光に溶けていく直前、エイドリアンは微笑んだ。
「理由は分かりません。ただ、彼らの中には、私たちが失ってしまった何かが残っているような気がするのです」
アストリアの言葉が消えゆく中、エイドリアンの意識は深い闇へと沈んでいった。そして、数千年に及ぶ人間としての生が始まる。
古代メソポタミアの星読みとして。砂漠の夜空に輝く星々を見上げながら、天体の運行を記録し続けた日々。その時既に、人類の魂の中に特別な輝きを見出していた。
古代エジプトの建築家として。ピラミッドの設計図を描きながら、人類の創造力に感嘆した日々。石を積み上げる労働者たちの中に、確かな希望を見た。
古代ギリシャの哲学者として。アゴラで若者たちと魂について語り合った日々。人間の思索の深さに、新たな可能性を感じていた。
ローマの医師として。傷ついた戦士たちを癒しながら、人間の生命力の強さを学んだ。死の淵でさえ、希望を失わない魂の強さを。
中世の修道士として。古い写本を書き写しながら、人類の知識を守り継ぐことの大切さを悟った日々。静かな修道院で、魂の成長を見守り続けた。
ルネサンス期の画家として。人体解剖図を描きながら、人間の神秘に迫ろうとした。芸術という新たな表現手段を通じて、魂の美しさを描こうとした。
啓蒙時代の科学者として。顕微鏡を覗き込みながら、生命の神秘を探求した。理性の光で世界を照らそうとする人類の姿に、深い感銘を受けた。
産業革命期の技術者として。蒸気機関の設計図と向き合いながら、人類の技術革新の速度に驚嘆した。しかし同時に、魂の進化の重要性も痛感していた。
19世紀末の心理学者として。人間の精神を研究しながら、魂の複雑さに改めて気づかされた。科学では説明できない何かが、確かにそこにあった。
20世紀初頭の作家として。戦争の暗い影の中で、それでも希望を描き続けた。人類の残虐さを目の当たりにしながらも、その先にある可能性を信じ続けた。
そして1947年、東京で。
全ての記憶を携えながら、佐伯英三郎として生を受けた。
最後の、そして最も重要な人生の始まりとして。
初めて母の顔を見上げた時、エイドリアンは確信していた。この選択が正しかったことを。人として生きることでしか、理解できない真実があることを。
赤子の泣き声が、新しい朝を告げていた。
それは観測者から人間への、長い旅の終わりであり、新たな始まりでもあった。