第3章 実験体K-617
週末。凪は佐伯の案内で、とある廃墟に向かっていた。
郊外の山中、鬱蒼とした木々の間に、古びたコンクリートの建物が佇んでいる。一見すると、単なる廃工場のように見える。
「ここが……」
「ああ。実験施設の一つだ。現在は使われていないが、かつてここで、私たちは『目覚めた』のだ」
佐伯が錆びた扉を開ける。中は薄暗く、空気が淀んでいた。
「気をつけて。床が腐っているところもある」
懐中電灯の光が、荒れ果てた内部を照らし出す。壁には無数の配線が走り、床には古びた実験機器が転がっている。
そして、凪の記憶が蘇る。
* * *
白い部屋。清潔な空気。そして、巨大な装置。
凪――その時のK-617は、装置の中で目覚めていた。
「意識は正常です」
「記憶保持率、98.7%」
「魂の安定性、良好」
白衣の研究者たちが、モニターを見ながら話している。しかし、彼らは人間ではなかった。
すらりと背の高い、青みがかった肌を持つ存在。しかし、彼らの瞳は、知性の光で輝いていた。
* * *
「思い出したか?」
佐伯の声で、凪は現実に引き戻された。
「ええ、断片的に……」
「当然だ。記憶の全てを一度に取り戻すのは危険すぎる。少しずつ、必要な記憶が蘇ってくるようにプログラムされているんだ」
二人は奥へと進んでいく。廊下の壁には、不思議な文字が刻まれている。
「彼らの文字だ。この施設の設計図が記されている」
佐伯は立ち止まり、壁の文字を指でなぞった。
「私たちは、彼らの言語も理解できるように作られている。少しずつ、その能力も戻ってくるはずだ」
凪は文字を見つめた。確かに、何かが分かりかけてくる。そして、新たな記憶が。
* * *
研究施設の図書室。凪は彼らの言語で書かれた本を読んでいた。
そこには、実験の本当の目的が記されていた。
人類は、彼らにとって特別な存在だった。物質文明は未熟でも、魂の可能性は計り知れない。その究極の進化の形を見極めたい。それが、実験の本質だった。
* * *
「ここだ」
佐伯が大きな扉の前で立ち止まった。
「記憶調整室」
扉を開けると、円形の大きな部屋が現れた。中央には巨大な装置が据え付けられている。
「ここで、私たちは記憶を保持する能力を与えられた。そして、実験の観察者として目覚めたのだ」
凪は装置に近づいた。埃を被っているが、まだ何かの光が内部で微かに点滅している。
「まだ、作動しているの?」
「ああ。彼らの技術は、人類の想像を超えている。この装置は、半永久的に作動し続けるようだ」
佐伯はポケットから小さな装置を取り出した。
「これを使えば、君の記憶をより早く、より完全に呼び覚ますことができる」
凪は装置を見つめた。それは、彼らの技術で作られた小型の記憶喚起装置だった。
「これを使うのですか?」
「その前に、説明しておくことがある」
佐伯の表情が真剣になる。
「記憶を取り戻すことは、大きなリスクを伴う。既に気づいているかもしれないが、私たちの仲間の多くは発狂するか自死した。千の人生の記憶は、それほどの重みを持っている」
凪は黙って頷いた。
「しかし、今は特別な状況だ。実験の終わりが近づいている。人類の運命を決める時が」
「分かっています」
凪は装置を手に取った。
「私は、きっと耐えられる。だって……」
彼女は微笑んだ。
「これまでの人生で、私はいつも耐えてきたから」
佐伯も小さく頷いた。
「では、始めよう」
装置が作動する。
凪の意識が、深い闇の中へと沈んでいく。
そして、記憶の扉が、一つずつ開かれていった。
* * *
古代メソポタミアの神官として。
ローマの奴隷として。
中世の錬金術師として。
ルネサンスの芸術家として。
産業革命期の労働者として。
そして、実験体K-617として。
記憶が、大きな渦となって意識を包み込む。喜びも、悲しみも、苦しみも、すべてが鮮明に蘇ってくる。
そして、最後の記憶。
実験施設で、彼らから告げられた言葉。
「君たちには、特別な使命がある」
青い肌の研究者が、凪を見つめていた。
「人類の魂の可能性を、最後まで見届けてほしい」
* * *
「K-617! 大丈夫か!」
佐伯の声が、遠くから聞こえてくる。
凪はゆっくりと目を開けた。床に倒れていたようだ。
「大丈夫……です」
立ち上がろうとして、彼女は気づいた。
視界が、まるで違って見える。
壁に刻まれた文字が、完全に理解できるようになっていた。
それは凪に関する実験報告書だった。
◆
実験記録区画 XVII-β
最終更新: 実験開始から49,827年目
【基本データ】
実験体識別: K-617
魂振動数: 17.3 x 10Hz (通常の3倍)
記憶保持率: 98.7%
転生回数: 2,749回(内、失敗後の再試行は1,689回)
【観測記録】
・魂の安定性指数: AAA (最高ランク)
・感情共鳴波長: 特異的パターンを確認
・記憶統合能力: 他に類を見ない高水準
【特記事項】
1. 被験体K-617は予想を超える魂の進化を示している
2. 特に感情領域における成長が顕著
3. 他の魂との共鳴能力が極めて高い
【重要発見】
実験体K-617と定期的な魂の共鳴を示す存在を確認
- 共鳴対象: 未登録魂 (仮称: S-P)
- 共鳴頻度: 約75.3年周期
- 結合強度: 観測史上最高値
【評議会への報告】
・この魂の共鳴現象は、当初の実験計画の範囲を超えている
・人類の魂が持つ未知の可能性を示唆
・実験プロトコルの再検討を提言
【警告】
この記録は最高機密
承認されていないアクセスを検知した場合、即座に記憶抹消を実行
【補足】
実験の本質的目的の再定義が必要
人類の魂は、我々の理解を超える領域に到達しつつある
特にK-617の事例は、新たな研究領域の開拓を示唆している
【最終観測者】
観測評議会特別調査官
エイドリアン・セイヴァル
◆
「私たちは……」
凪は震える声で言った。
「人類を、次の段階へと導く案内人なのね」
佐伯が静かに頷く。
「その通りだ。しかし、それは両刃の剣でもある」
廃墟の窓から、夕陽が差し込んでいた。
新たな記憶と共に、凪の使命も、より明確になっていく。
人類を導くのか。
それとも、実験の完遂を見届けるのか。




