第1章 記憶の扉
朝の通学路は、いつもと変わらない風景が広がっていた。桜並木の下を歩く制服姿の生徒たち。コンビニの前で談笑する友人たち。空には薄い雲が流れ、穏やかな春の朝を予感させる。
しかし凪の目には、すべてが違って見えていた。
「この景色も、この空気も、この匂いも……全部、設計されたものなのね」
記憶が蘇って初めて気づいた真実。地球は、巨大な実験場だった。高度な文明を持つ異星人たちによって作られた、魂の成長を観察するための実験場。
そして、人類もまた……。
「おはよう、凪!」
思考を中断させる明るい声。親友の春野詩音が、後ろから駆け寄ってきた。
「あ、おはよう、詩音」
凪は微笑みを作る。しかし、その表情の裏で、激しい感情の渦が巻いていた。
詩音の魂も、実験の対象なのだ。彼女も、数え切れない人生を生きてきているはずだ。ただ、これまでの記憶を持っていないだけで。
「凪、どうかした? なんか変よ?」
「ううん、ちょっと寝不足で」
言い訳をしながら、凪は詩音の横顔を見つめた。この親友との出会いも、実験の一部として設計されたものなのだろうか。それとも……。
突然、激しい記憶の波が押し寄せる。
* * *
それは古代エジプトでのこと。灼熱の太陽の下、奴隷として働かされていた時の記憶。
隣で働いていた少女がいた。彼女の名は覚えていない。しかし、その優しい微笑みは、どこか詩音に似ていた。
彼女は、凪の前世の一つに慰めの水を分け与えてくれた。そして次の日、過酷な労働で命を落とした。
* * *
「凪? 大丈夫?」
詩音の声で現実に引き戻される。
「ごめん、ちょっとボーっとしてた」
言いながら、凪は詩音の存在の重みを感じていた。彼女は単なる実験の設定ではない。魂は確かにそこにある。
「ねえ詩音、あなたは……」
言いかけて、凪は言葉を飲み込んだ。真実を話すべきか。それとも黙っているべきか。
その時、携帯電話が鳴った。画面を見ると、見知らぬ番号からのメッセージ。
『K-617へ。君の記憶が戻ったことは確認済みだ。放課後、駅前の喫茶店「月の涙」で待っている。来たまえ。――K-213より』
凪の指が震えた。K-213。同じ実験の被験者。そして、その番号の意味も、記憶の中から蘇ってきた。
「凪? 誰からのメール?」
「ああ、ただの広告よ」
嘘をつく自分の声が、どこか遠くで響いているように聞こえた。
空を見上げると、薄い雲が流れていく。この空の向こうには、実験を監視する彼らがいるのだろうか。
記憶が戻って初めて気づいたが、空の青さが少し不自然に見える。まるで、誰かが注意深く色を選んで塗ったかのように。
「ねえ詩音、今日の放課後、用事があるの」
「えー、珍しいね。いつも一緒に帰るのに」
「ごめんね。明日は必ず一緒に帰るから」
約束をする声が、少し掠れた。明日も、普通の日常が続いているという保証はどこにもないのだから。
学校に着くと、凪は教室の窓から外を見つめた。校庭で体育の授業を受ける生徒たち。その一人一人が、数え切れない人生を生きてきた魂を持っている。しかし、誰も覚えていない。
ただ、自分だけが。
そして、もう一人。
K-213が。
「霧島さん! 早く問題を解いてください」
数学の教師の声に、凪は我に返った。黒板には、複雑な方程式が書かれている。
しかし、その瞬間、別の記憶が蘇った。
* * *
古代ギリシャの数学者として生きていた時の記憶。大理石の床に刻まれた幾何学模様を前に、夜通し計算を続けていた日々。
そして、その時に発見した定理。後の世に別の数学者の名前で残ることになる、あの定理。
* * *
「霧島さん?」
「はい」
凪は立ち上がり、黒板に向かった。チョークを取る手が、かすかに震えている。
問題を解きながら、彼女は考えていた。これほどの記憶を持ちながら、普通の女子高生として生きていくことはできるのだろうか。
そして、K-213との出会いは、何をもたらすのか。
チョークの音だけが、静かな教室に響いていた。
放課後。
凪は駅前の喫茶店「月の涙」の前に立っていた。レトロな外観の小さな店。ショーウィンドウには、アンティークな置時計が並んでいる。
深い息を吸い込んで、凪は店内に足を踏み入れた。
店内は薄暗く、コーヒーの香りが漂っている。客は少なく、奥のテーブルに一人の老人が座っているだけだった。
その老人が、凪に向かってゆっくりと手を挙げた。
「よく来てくれた、K-617」
凪は静かにテーブルに近づき、老人の向かいの席に座った。
「K-213……ですか?」
「ああ。今の名は佐伯英三郎という。君と同じく、記憶を持ったまま生きている数少ない存在の一人だ」
佐伯の眼差しには、数千年の重みが宿っていた。
「なぜ、私たちだけが記憶を……」
「それを説明しよう。だが、その前に」
佐伯は、ウェイトレスにコーヒーを二つ注文した。
「まず、君に見せたいものがある」
そう言って、佐伯は古ぼけた手帳を取り出した。
ページをめくると、そこには見覚えのある図形や数式が描かれていた。そして、凪の体が震えた。
それは、古代ギリシャで自分が発見した定理の原型だった。
「これは……」
「ああ、私が保管していた。君の前世の研究だ。他にもある」
次のページには、エジプトのピラミッドの設計図。その次には、ルネサンス期の芸術作品のスケッチ。そして、近代の科学論文の断片。
ページをめくるたびに、凪の指先が微かに震えていた。黄ばんだ紙の上に広がる図面と記録の数々。それは彼女の前世の記憶そのものだった。
ピラミッドの設計図。
細密な線で描かれたピラミッドの断面図。当時の彼女は、若い建築家として巨大建造物の設計に携わっていた。炎天下の中、奴隷たちの苦しみを目の当たりにしながら、それでも完璧な設計を追求せざるを得なかった日々。図面の端に記された古代エジプト文字の計算式を見つめながら、凪は喉の渇きと心の痛みを今でも鮮明に思い出す。
ルネサンス期のスケッチ。
繊細な線で描かれた人体デッサンと建築物の習作。フィレンツェの工房で、師匠の下で必死に技術を磨いた日々。芸術への純粋な憧れと、女性画家としての苦悩が、一枚一枚のスケッチに込められている。特に、ある裸婦像の目元は、どこか詩音に似ていた。その時の彼女も、気づかないうちに魂の伴侶を探し続けていたのかもしれない。
そして、近代の科学論文。
無機化学の新理論を提唱した画期的な研究だった。男性社会の中で、女性研究者として認められるまでの苦闘。しかし、真理の探究という純粋な情熱は、性別という壁を超えて輝いていた。方程式の間に記された走り書きからは、当時の興奮と発見の喜びが今でも伝わってくる。
これらの記録を前に、凪の胸は複雑な感情で満ちていた。誇り、後悔、喜び、悲しみ。そのすべてが、彼女という存在を形作っている。人類の進歩に貢献しようとした純粋な思い。しかし同時に、それが「実験」の一部だったという事実。
「でも」と凪は心の中で呟く。
(これらは確かに私の記憶。私の人生。誰かに与えられた役割以上の、本物の経験として)
ページの向こうから、数千年の時を超えて、無数の「私」が現在の凪に語りかけてくる。それは実験ではなく、魂の本質的な成長の記録なのだと。
その確信が、凪の心に静かな強さを与えていた。
「私たちは、人類の進歩を記録する存在なのだ」
佐伯の声は静かに響いた。
「記録……ですか?」
「そう。実験には、いくつかの目的がある。一つは、魂の成長を観察すること。そしてもう一つは、文明の発展を記録することだ」
コーヒーが運ばれてきた。湯気が、二人の間で静かに立ち昇る。
「しかし、なぜ私たちだけが……」
「実は、記憶を保持する実験体は百人以上いた。だが、ほとんどがそれに耐えきれず発狂するか、自ら命を絶った。千の人生の記憶に耐えられる魂は、そう多くはないのだ」
凪は自分のコーヒーカップを見つめた。漆黒の液体に、窓からの光が揺れている。
「では、現在生きているのは?」
「私が把握している限り、五人だ。君を入れて六人目となる」
佐伯は、おもむろに古い万年筆を取り出した。
「これから、君に多くのことを話さなければならない。真実を。そして、私たちに課せられた使命を」
凪は深く息を吸い込んだ。窓の外では、夕暮れが街を包み始めていた。
そこから長い会話が始まった。その内容は、凪の世界観を完全に覆すものだった。