第4章 魂の螺旋
夕暮れ時の実験施設。
佐伯は、錆びた扉を開けていた。
凪と共に訪れたこの場所で、彼は多くの記憶と向き合っていた。
「ここが……」
「ああ。実験施設の一つだ」
懐中電灯の光が、荒れ果てた内部を照らし出す。
しかし佐伯の目には、かつての姿が重なって見えていた。
* * *
清潔な白い壁。
最新の観測機器。
そして、青い光に満ちた空間。
エイドリアンとして、この施設の設計に関わった日々。
人類の魂を観察し、記録するための完璧な実験場。
しかし今は。
* * *
「気をつけて。床が腐っているところもある」
佐伯は凪に注意を促した。
彼女の安全を気遣う感情は、純粋に人間としてのものだった。
壁には、彼らの文字が刻まれている。
凪がそれを見つめる様子に、佐伯は微かな緊張を覚えた。
「これは……」
「彼らの言語だ。設計図が記されている」
しかし、それは半分の真実に過ぎない。
その文字には、もっと重要な情報が隠されていた。
実験の本質。
人類の可能性。
そして、予期せぬ発見。
佐伯は、その文字の一つ一つに触れる。
エイドリアンとしての記憶が、鮮明に蘇ってくる。
* * *
「セイヴァル、この発見は重要だ」
アストリアの声が、記憶の中で響く。
「人類の魂には、予想外の特質がある」
「彼らは、苦しみを通じて進化する」
「それは、我々には理解できない概念だ」
「しかし」
エイドリアンは反論した。
「それこそが、彼らの美しさではないでしょうか」
* * *
「佐伯さん?」
凪の声で、現実に引き戻される。
「ああ、すまない。昔を思い出していた」
二人は奥へと進んでいく。
古い機械の残骸が、物言わぬ証人のように佇んでいる。
「ここだ」
巨大な円形の部屋の前で、佐伯は立ち止まった。
「記憶調整室」
この部屋で、多くの記憶保持者が目覚めた。
そして、多くが破滅していった。
人間の脳は、数千年分の記憶を扱うようには設計されていない。
それは、エイドリアンも予測していた限界だった。
にもかかわらず、佐伯は実験を続けることを選んだ。
それは、人類への信頼があったからだ。
「ここで、私たちは記憶を保持する能力を与えられた」
佐伯は説明を続けながら、密かに観察を行っていた。
凪の反応を、エイドリアンの目で分析する。
瞳孔の変化。
心拍数の微増。
皮膚電位の揺らぎ。
全てのデータが、彼女の特異性を示していた。
「この装置は、半永久的に作動し続ける」
佐伯はポケットから小さな装置を取り出した。
記憶喚起装置。エイドリアンの最後の贈り物。
「これを使えば、君の記憶をより早く、より完全に呼び覚ますことができる」
しかし、それは諸刃の剣でもあった。
記憶の急速な覚醒は、時として破滅的な結果をもたらす。
「その前に、説明しておくことがある」
佐伯の声が、重く響く。
「記憶を取り戻すことは、大きなリスクを伴う」
その瞬間、彼の中でエイドリアンの記憶が警鐘を鳴らしていた。
これは規定違反かもしれない。
しかし佐伯は、人として決断を下していた。
彼女には、真実を知る権利がある。
「私は、きっと耐えられる」
凪の声に、確かな決意が宿っていた。
「これまでの人生で、私はいつも耐えてきたから」
その言葉に、佐伯は密かに微笑んだ。
まさに、人類の本質を表す言葉。
諦めない。
耐え忍ぶ。
そして、その先に光を見出す。
「では、始めよう」
装置が作動する。
凪の意識が、深い闇の中へと沈んでいく。
佐伯は、静かに見守っていた。
エイドリアンとしての冷静な観察眼と、人としての祈りを込めて。
記憶の扉が、一つずつ開かれていく。
そして、真実が明かされていく。
* * *
遠い記憶が、佐伯の中でも蘇る。
エイドリアンが最後に見た、評議会の風景。
アストリアの言葉が、今も耳に残っている。
「君の選択が、実験そのものを変えるかもしれない」
「それは、許容できる変化なのだろうか?」
「いいえ」
エイドリアンは答えた。
「それは、必要な変化です」
「なぜなら、実験者もまた、変化を恐れてはならないから」
* * *
「K-617! 大丈夫か!」
装置が予想以上の反応を示し、佐伯は凪を支え止めた。
「大丈夫……です」
彼女はゆっくりと目を開いた。
その瞳には、新たな光が宿っていた。
理解の光。
そして、決意の光。
「私たちは……」
凪の声が、静かに響く。
「人類を、次の段階へと導く案内人なのね」
佐伯は黙って頷いた。
しかし、その真実はまだ一部に過ぎない。
より大きな真実が、まだ待っている。
人類の、そして実験そのものの真の目的が。
廃墟の窓から、夕陽が差し込んでいた。
その光は、かつてエイドリアンが設計した夕暮れの光。
しかし今は、その美しさに深い意味を見出すことができる。
それは、人として生きてきた証だった。




