第3章 地球という庭園
翌朝、佐伯は早くから外に出ていた。
まだ誰もいない公園を歩きながら、彼は地球の朝の訪れを味わっていた。
東の空が、少しずつ明るさを増していく。
小鳥たちが、さえずりはじめる。
花々が、朝露に輝いている。
これらの風景は、かつてのエイドリアンにとって、ただのデータに過ぎなかった。
日の出時刻:05:47
気温:12.3℃
湿度:76%
風速:2.1m/s
しかし人として生きることで、その数値の向こうにある美しさを知った。
桜の木の下で立ち止まり、佐伯は上を見上げる。
枝々の間から漏れる朝日が、まるでステンドグラスのような模様を作っている。
ふと、遠い記憶が蘇る。
* * *
評議会での設計会議。
地球という実験場を作り上げる時の記憶。
「生命維持に最適な環境を」
「しかし、あまりに完璧すぎては実験の意味がない」
「適度な困難と、それを克服する喜びを」
エイドリアンは、その時反論していた。
「なぜ、美しさを加えないのですか?」
「美しさ?」
「そんな非効率的な要素が、なぜ必要だ?」
「それこそが、実験に必要な触媒になるかもしれません」
結局、その提案は採用された。
そして、地球は美しい惑星として設計された。
* * *
「やはり、正しい選択だった」
佐伯は微笑んだ。
人類は、その美しさに触発され、芸術を生み出した。
音楽を奏で、絵を描き、詩を詠んだ。
それは、純粋な実験計画には含まれていなかった予想外の発展だった。
スマートフォンが震える。
画面には、K-891――宮本かれんからのメッセージが表示されていた。
『K-617との面会、予定通り?』
佐伯は、簡潔に返信する。
『計画通り進行中』
メッセージを送り終えると、彼は万年筆を取り出した。
ペン先から漏れる光が、朝日に溶け込んでいく。
新たなデータが、刻一刻と記録されていく。
魂の振動数。
感情の波長。
記憶の強度。
しかし今の佐伯には、それらの数値以上に大切なものが見えていた。
人々の表情。
つぶやき。
祈り。
笑顔。
涙。
それらは全て、数値化できない人類の本質だった。
公園のベンチに腰掛け、佐伯は朝日を見つめる。
七十七年の人生で、この光景を何度見ただろう。
しかし、飽きることはない。
それもまた、人類の特質なのかもしれない。
同じものを見ても、毎回新しい発見がある。
それは、エイドリアンの種族には理解できない感覚だった。
ベンチの横で、一輪の花が風に揺れている。
タンポポ。最も普遍的な雑草の一つ。
しかし、その黄色い花びらには確かな生命力が宿っていた。
佐伯は、その花を静かに観察する。
かつてのエイドリアンなら、即座にその生態を分析しただろう。
種子分散能力。
生存戦略。
遺伝的多様性。
しかし今は、ただその存在を味わっていた。
それは、極めて人間的な行為だった。
「おはようございます」
突然の声に、佐伯は顔を上げた。
そこには、凪が立っていた。
「ずいぶん早いな」
「はい。なんだか、眠れなくて」
凪もベンチに腰掛ける。
朝日が、二人の影を地面に映し出していた。
「佐伯さん」
「なんだい?」
「私……分かってきたんです」
凪は、空を見上げた。
「地球が、実験場として作られたということ」
佐伯は、かすかに息を呑んだ。
彼女の直感は、予想以上に鋭かった。
「ええ」
「でも」
凪は続けた。
「それは、この世界の価値を否定するものではないんですよね?」
その言葉に、佐伯は深く頷いた。
まさに、自分が人類から学んだ真実。
「その通りだ」
二人の頭上で、桜の花びらが舞い落ちる。
その一つ一つが、儚くも美しい生命の証だった。
観測者として。
そして人として。
佐伯は、その両方の視点から世界を見つめていた。
それは時に矛盾を生むが、その矛盾こそが新たな発見をもたらす。
experiment(実験)という言葉の語源は、experience(経験)と同じ。
つまり、この実験も一つの経験なのだ。
人類にとっても。
観測者にとっても。
そして、佐伯自身にとっても。
「さあ、そろそろ学校の時間だ」
佐伯は立ち上がった。
「私たちには、まだやるべきことがある」
凪も頷いて立ち上がる。
その背後で、朝日が燦々と輝いていた。
それは、新たな一日の始まり。
そして、人類の新たな一歩の始まりでもあった。




