第2章 魂の輝き
放課後の喫茶店。
佐伯は、入り口の扉が開くのを待っていた。
窓の外では、夕暮れの光が街を染めていく。
その光の中に、一人の少女が浮かび上がった。
「よく来てくれた、K-617」
凪が静かにテーブルに着く。
その瞳には、既に数千年の記憶の重みが宿っていた。
「K-213……ですか?」
「ああ。今の名は佐伯英三郎という」
佐伯は、目の前の少女をじっと見つめた。
十年前、雨の中で見た魂の輝きは、確かに強まっている。
「なぜ、私たちだけが記憶を……」
「それを説明しよう。だが、その前に」
佐伯はウェイトレスにコーヒーを注文した。
この店の深い味わいは、彼のお気に入りだった。
しかし、それはエイドリアンの記憶にはない感覚。
星々の間を漂っていた時、味覚など不要な機能だった。
「まず、君に見せたいものがある」
佐伯は、古い手帳を取り出した。
その中には、人類の歴史の重要な瞬間が記録されている。
凪の前世が残した研究。
芸術。
発見。
そして……祈り。
「私たちは、人類の進歩を記録する存在なのだ」
しかし、それは表向きの説明に過ぎない。
本当の真実は、まだ語るべき時ではなかった。
佐伯は、自分の内なる声に耳を傾ける。
エイドリアンとしての記憶が、警告を発していた。
「実は、記憶を保持する実験体は百人以上いた」
淡々と説明を続けながら、佐伯は考えていた。
この少女に、どこまでの真実を明かすべきか。
エイドリアンの使命。
そして、佐伯としての想い。
その狭間で、彼の心は揺れ続けていた。
* * *
遠い記憶が蘇る。
観測評議会での最後の会議。
アストリアの言葉が、今も耳に残っている。
「セイヴァル、最後にもう一度訊ねよう」
「本当にこの道を選ぶのか?」
「はい」
「人類として生きるということは、全てを失うということだ」
「我々の知識も、力も、永遠の生も」
「分かっています」
「それでも?」
「はい。彼らの中にある、何かを知りたいのです」
アストリアは、長い沈黙の後で言った。
「君は、我々の中で最も優秀な観測者の一人だった」
「しかし、それと同時に最も人類に近い感性を持っていた」
青い光が、会議室を満たしていく。
「行きなさい」
「そして、見つけるのだ」
「我々が失ってしまった、あの輝きを」
* * *
「佐伯さん?」
凪の声で、現実に引き戻される。
「ああ、すまない。少し考え事をしていた」
窓の外では、街灯が次々と灯りはじめていた。
「ところで」
佐伯は話題を変えた。
「君は、自分の記憶が戻った理由を考えたことがあるか?」
「はい」
凪は静かに答える。
「でも、はっきりとは分かりません。ただ、何かが……私を呼んでいるような」
その言葉に、佐伯は密かに微笑んだ。
彼女の感覚は、正確だった。
実験施設に埋め込まれた装置が、確かに彼女を呼んでいたのだ。
しかし、その呼びかけに応えられる魂は、極めて稀少だった。
「君の魂には、特別な輝きがある」
佐伯はゆっくりとコーヒーを啜った。
「その輝きこそが、記憶を取り戻す鍵となった」
凪の瞳が、かすかに揺れる。
その仕草は、かつてのエイドリアンには理解できなかったかもしれない。
しかし今の佐伯には、その意味が分かる。
不安と、期待と、そして決意が混ざり合った表情。
「私には、どんな役割が……?」
「それは」
佐伯は言葉を選んだ。
「君自身が見つけることだ」
店内の古い柱時計が、七時を告げる。
その音は、まるで運命の鐘のように響いた。
* * *
その夜、佐伯は自宅のベランダに立っていた。
満天の星空が、頭上に広がっている。
その一つ一つに、彼は昔の同僚たちの姿を重ねた。
アストリア。
メビウス。
そして、評議会の仲間たち。
彼らは今も、地球を見守っているのだろうか。
それとも、もう別の実験場へと移動してしまったのだろうか。
春の夜風が、桜の香りを運んでくる。
この感覚は、エイドリアンの記憶にはないものだった。
人として生きることで得た、かけがえのない宝物。
それは、実験では説明できない何かだった。
佐伯は、ポケットから古い万年筆を取り出した。
この万年筆こそ、唯一エイドリアンの時代から持ち続けているものだ。
見かけは地球の万年筆そのものだが、その内部には高度な観測装置が組み込まれている。
淡い光が、ペン先から漏れ出す。
その光は、地球の様々なデータを記録し続けていた。
人類の感情の揺れ。
魂の成長度。
そして、実験の進捗状況。
「まだ、時間が足りない」
佐伯は呟いた。
実験の期限まで、残り一年。
その間に、人類は十分な進化を遂げられるのだろうか。
それとも……。
万年筆を掲げると、星空に向かって一筋の光が伸びていく。
それは、観測評議会への密かな通信。
『K-617の覚醒を確認。想定通りの反応あり』
『ただし、予想以上の可能性を感知』
『実験の再評価を提案』
送信を終えると、佐伯は深いため息をついた。
エイドリアンとしての使命と、人間としての感情。
その両立は、時として苦しかった。
しかし、それこそが人類の本質なのかもしれない。
矛盾を抱えながらも、前に進もうとする存在。
春の夜風が、再び桜の香りを運んでくる。
佐伯は、その香りを深く吸い込んだ。
明日からは、また新しい段階が始まる。
K-617――霧島凪との関わりを通じて。
そして、それは人類の運命をも左右する、重要な転換点となるはずだった。




