第八十九幕
ご令嬢は、ゆっくりと手を握りしめた。まったく…………
「すまない。待たせてしまった。では、礼拝を始めましょう」
太く低い男性の声が聞こえた。声の主は、落ち着いた面持ちで、舞台袖から姿を見せると、スーツを身に纏い、手には聖書を持っていた。長く伸びた髭が、男の品格を示す様だった。
「……おや? これは、リアナ皇女ではありませんか。礼拝の時間に姿を見せるとは、何か心境の変化でも、お有りでしたかな?」
「…………いえ。気分よ」
姫の応えに牧師は、演台の前に立ったまま、しばらく姫の表情を伺う。
「そうですか……」
"バンッ"
突如、牧師は演台に広げた聖書を再び閉じると、姫に視線を送った。
「礼拝を始める前に、一つお話を。皆様ご存知の通り、我らがディグニス帝国の国教はビブラム教ただ一つです。全てのものが身分を問わず、等しく信者である。もちろん、全ての民が礼拝に参列出来るほど余裕があるとは考えておりません。しかし、それほどまでに、帝国と教会は密接な関係にあると言う話です。では、なぜ帝国の民達は、神の代弁者である教会ではなく、皇帝陛下に従うのでしょうか。それは、神が皇帝陛下に力を与えたからです。皇帝とは、神から力を与えられた者を指す言葉に過ぎません。神に見放されれば、ただの民へと堕ちることでしょう。ましてや、皇帝陛下になろうという者が、神を崇拝するどころか、その存在すら否定していたなら……」
牧師は、口を止めた。
「…………何が言いたいの?」
姫は、声を細くして応える。
「"神のご加護が在らんことを"」
牧師は、左の親指を額に当てると体をなぞる様にして、腹部まで降ろした。
——
「ねえ、少しくらい散歩に行かせてくれても良いんじゃないの?」
姫は、ベットに横たわりながら、話した。先ほど、ご令嬢に渡された聖書を枕代わりに、姫はため息を吐く。
「申し訳ありませんが、それは出来かねます。皇帝陛下から不要な外出はさせないようにと命を受けておりますので」
男は、またいつもの様に腕を組んでいた。結局これ。多分、この感じだと一日の大半は部屋の中で過ごすことになりそうね。それに、この男に監視されているせいで、ミーシャとまともに話も出来ない。
「トイレは?」
「三時間に一度までです。次は、二時間後ですね」
男は、淡々と応えた。
"トンッ トンッ"
部屋の扉が叩かれた。男は、姿勢を戻すと、ゆっくりと扉へと向かった。
「こちら、リアナ皇女のお部屋です。要件は?」
男は、扉越しに応えた。
「こちら、レナード中将。オルディボ閣下に用がある。扉を開けてもらいたい」
中将の言葉に、男は、つかさず扉を開けた。
「……要件はなんだ。レナード中将」
「少し、問題が発生した」
中将の言葉に男は、目を細めた。
「この後、地方の領主が宮殿に来られるのだが、あいにくミーシャ様が体調を崩されてしまった。それほど重症にはならないだろうが、領主との会談には間に合いそうにない。現在、皇帝陛下はおろか、皇后陛下すら不在の状態だ。リアナ皇女も部屋から出られない。そこで、貴殿に代理として対応をお願いしたい。このまま帰らせるわけにもいかないからな」
「ミーシャ様が? 朝は問題なかったはず……」
「私にも分からない。急だったのでな。……もう、敷地内まで来ているらしい。バーグフ大将も不在の今、私が案内を行う。着いて来てくれ」
「そうか…… 分かった」
男は、ふと振り返ると姫に視線を向けた。
「姫様。一度、事態の確認に参ります。すぐに戻りますのでしばらくお待ち下さい。では、失礼します」
男は、そう言うと、念入りに扉に鍵をかけると、部屋を後にした。
「珍しいわね。あの子が体調を崩すなんて…… 何かあったんじゃ……」
姫は、身体を起こすと、部屋中を見渡した。まったく…… 裏の鍵も取られているせいで、完全に出られなくなった。結局、何も出来ないのよね……
"トンッ トンッ"
聞き馴染みのある声だ。姫は、咄嗟に扉へと視線を向けた。
「……ミリア? 昼食にしては、少し早いんじゃ……」
「私ですよ!」
扉の向こうから聞こえてくる女の肉声。姫は、思わず、扉へ耳を近づける。
「その声…………」
「"はい。元気な元気な、ミーシャですよ。お姉様!"」




