第十五戦
「あら、リアナ? それは?」
皇后は、そう言うと姫の手元に視線を向けた。
「こちらですか? ミーシャが使っていたものですよ? 昔、預かっていて、いつ返そうか迷っておりました。今は、遺品に、なってしまいましたが……」
「そう…… 少し見ても良いかしら?」
姫が、ハンカチを手渡すと、皇后は、それをじっと見つめた。やっぱり、ミーシャは、このハンカチを私達の前では、まったく見せようとしなかった。私は、またまた、それを知っていたけど、お母様は知らない。お父様は、どうなのだろう……
「リアナ。貴方は、今の生活は楽しい?」
何の質問だろうか。姫は、僅かに考え込んだ。
「はい。何不自由ありません。リアナは、満足しています」
「そう…………」
皇后は、じっと黄昏るように窓の外を見つめた。何か、思い出に浸っているのか、その瞳を僅かに泳がせた。
「なら、良かった。でも、満足してはいけませんよ。出来ることは、何でもやりなさい。後から後悔が残らないように」
「お母様は、何か後悔していることでもあるのですか?」
皇后は、軽く微笑むと姫の顔を見つめた。
「実はね。私、昔はワインが大好きだったみたいなのよね。毎日のように飲んではパーティーを楽しむ。それが私の生きがいだった……」
「だったみたい……?」
皇后は、なぜか他人事のように自分語りを始めた。
「記憶が無いのよ。ある時を境に。それより前の記憶を無くしてしまった。原因は何だと思います?」
「足を挫かれて、頭を打たれたり…… でしょうか?」
姫は、困惑した。初めて聞く、皇后の過去に。
「違います。正解は…… ワインを飲んだからよ」
「えっ? どういうことですか? ワインは毎日飲まれていったて……」
「なぜでしょうね…… でも、ある日を境に、ワインを飲むだけで呼吸困難になったり、身体中に蕁麻疹が出るようになったの。まるで、呪われたように。稀に起こるみたいなのよね。なんといったかしらアレルギーでしたっけ? ある日突然、特定の食べ物が身体にとって毒になる。触れるだけでも私には危険な物。私は、それが『ぶどう』だったみたいで……」
「初めて知りました。だから、いつも、お母様だけはワインを嗜んでおられなかったのですね。でも……」
姫は、食いつくように皇后に詰め寄った。
「周りの方々は、それを知っているんですか?」
「いいえ。サリエフと料理長、そしてオルディボだけが、これを知っています」
「それは大丈夫なのですか? もし、それを間違って、お母様の近くに置いたりしたら……」
「ダメなんですよ。周りの人間がこれを知ってしまったら私は…… 簡単に殺されてしまう。それも、完全な暗殺が出来る。だから、誰にも伝えられない。でも、リアナ? 貴方には伝えておきたかったの」
「どうして……」
「いい? 人間、生きてるだけが全てではありません。ある日突然、自分の好きなことが出来なくなってしまう。そんなことだってある。だから、貴方には我慢してほしくない。好きに生きて良いのよ。私みたいに、後から、もっとしておけば良かったと思わないように。まあ、私は、記憶がない分、後悔も少ないのだけどねリアナ?」
「はい…… 分かりました……!ッ」
突然、全身に温もりを感じた。良く見れば、皇后は、ただ静かに姫を優しく抱いていた。背中を摩り、僅かに微笑む。
「大丈夫…… この国のことは、私とサリエフに任せておけば良いから…… 貴方は、今しか出来ないことを存分に楽しんで……」
なんで…… そんな事を言うんだろう…… なんで、安心させようとするんだろう…… 何も無いならわざわざそんなこと…… だってそれは…… 危険の裏付けなのに…… 何か…… 起こるの?
「早く寝ましょ? 明日は朝から大忙しですからね? そうでした! 朝食は何が良いかしら? 好きなものを用意させますからね。それに……」
「リアナが好きなもの…… 覚えていませんか?」
僅かに静寂が流れた。
「えっと…… その…… 確か…………」
やっぱり。お母様は、何も変わってなんかいない。ただ、取り繕っているだけ。私のことなんて、本当は何も考えてなんかいない。変わるわけがない……
「無理しなくて構いませんよ。お母様。リアナが好きなのは……」
「"マカロン!"」
姫は、思わず、瞳を大きく開いた。
「マカロン…… 貴方の大好物…… やっと…… 覚えられた……」
姫は、固唾を飲んだ。
「なんで…………」
「なぜでしょうね…… なんだか今は…… 凄く気分が良い。いつぶりかしら、こんな感覚。分からないけど、なんだか懐かしく感じます」
皇后の視線は、窓の外の夜景を、黄昏るように楽しんでいた。分からない。お母様が、何を考えているのか私には…… まったく、分からなかった。でも、なぜだろう。今日は、なんだか…… 私も気分が良い……
「リアナ?」
互いに見つめ合う中、皇后はゆっくりと口を開いた。
「それじゃ…… おやすみ」
「…………はい。おやすみなさい。お母様!」
そうだ…… 私も………… 笑えたんだ!




