第百二幕
姫は微笑んだ。あと、数歩前に進めば手が届きそうな距離。しかし、男は姫の瞳から、その覚悟を読み取ったのか、踏み出しかけた足を、そっと止めた。
「私さ…… 疲れちゃったみたい…… これでも、今日まで頑張ったのよ? 誰にも頼らずに一人でね…… でも…… ダメだったみたい…… 最後まで自分を貫けなかった…… あーあー…… こんな事になるぐらいなら何も見なければ良かった…… お父様の言う通り、何もしなければ良かった…… 本当…… なんで私…… 生きたいだなんて…… 思ったのかしら…… ごめんね。こんな姿見せて……」
男は、姫の瞳をじっと眺めた。
「話したい事があるのなら、最後までお付き合いします……」
男は、以外にも冷静な態度を見せた。
「ありがとう。でも…… これで最後よオルディボ。良かったわね。明日からはミーシャに仕えられる。あの子、真面目だから扱いやすいと思うの。……お父様に頼まれて仕方なく、やっていた護衛も今日で終わり。私が死ねば…… 皆んな幸せになると思うの。もちろん私もね…………」
姫は、大きく息を吸った。
「ねえオルディボ…… 貴方は…… 前と後…… どっちの地獄に私を導いてくれるのかしら? お父様の命令通りに私を助けてくれる? それとも、このまま私を…… 見殺しにする?」
外から吹き荒れる風が姫の髪を散らす。姫は、その瞳から溢れ落ちそう雫を隠す様に男に背を向ける。眼前に広がる夜景。幾度となく見た景色。そして、最後に見る、この景色。夢にまで見た、空の旅。姫は、羽ばたくかの様に足を一歩前に踏み出す。
「お待ち下さい。姫様!」
背後から男の声が聞こえた。姫は、足を止めた。さっきよりも近い。今の一瞬で距離を詰めたのだろう。助けに来てくれたんだ…… 助けに…… あーあー…… 最後くらい…… お父様じゃなくて…… 私の望みを…… 叶えて欲しかったな……
結局、皆んな…… 私の事なんか…… 誰一人…… 見てなかった……
姫は、涙を浮かべ、そっと後ろを振り返った。
「"お供します"」
何度か見た事がある。皆んな、そうやって私を見上げてた。でも…… 貴方のそれは…… 初めてみた……
男の言動に姫は、唖然とした。膝をつき、体を屈める、その仕草は、まさしくこの国における最上級の平伏の構えだった。片手で姫の手を握ると、男は何食わぬ顔で、姫の側へと詰め寄った。
「オルディボ…… どういう……」
「まったく…… 何をするかと思えば……」
男は、そう言うと姫の窓枠に飛び乗ると姫の横に控えた。
「正直、私は天国に行く予定でしたが。姫様が、地獄に向かわれると言うのであれば、私もここで一つ…… 罪を犯しておきましょう。共に、地獄へ参れるように」
「えっ…………」
男は、涙を浮かべる姫に視線を向けること無く。遠くの景色を眺めていた。
「なんで………… 私………… 本気で…………」
「私は姫様の護衛です。姫様が行くと言うのであれば、地獄へでも何処へでもお供します。正直、地獄が、どんな所かは存じ上げませんが…… 野蛮な者が多いと聞きます。そんな所に姫様を一人置いて行くわけには行きません。さて……」
男は、姫の手を握りしめたまま、三階の窓から下を見下ろした。
なんで…… 一緒にって…… 私、今から死のうとしたのよ? なのに何で貴方まで…… 一緒に死ぬ理由なんて…… 何も無いのに…… なんで……
「ねえ…………」
「姫様、これを」
男は、そう言うと視線を逸らしたままポケットから一枚のハンカチを取り出した。
「窓を開けたせいで、外の埃が眼に入っておりますよ。お使い下さい」
姫は、手渡されたハンカチを手に男の横顔をじっと眺めた。誰かに似てる…… ずっと昔に見ていた…… 私の…… 憧れ…… でも…… その人は、もう…… いないと思ってた…… なのに……
「ふぅ…… 三階ともなると、そこそこの高さになりますね。ただ、当たりどころが悪いと、しばらく苦しむことになるかもしれません。しっかり、頭から行けるように私が姫様を支えましょう。それと……」
「フフッ…………」
思わず声が溢れた。なんで…… 気づかなかったんだろう……
「……姫様? 何か、変なことでも……」
「"ばーーか"」
男は、唖然とした。姫は、男の手を払うと、そっと窓枠から部屋の方へと飛び降りた。手渡されたハンカチを顔に当てると、密かに笑みを浮かべる。
「姫様ッ!?」
姫は、持っていたハンカチを男に投げつけると、腕を組み、男の瞳を見つめた。
「本当…… この宮殿には馬鹿しかいないのかしら?」
姫の態度に男は、頭を抱える。
「……自虐でしょうか?」
「謙遜してるのよ! 貴方まさか私が本当に飛び降りると思ったの? ちょっと、驚かせようとふざけただけなのに、すぐ本気にして…… 馬鹿みたい……」
男は、やれやれと言わんばかりの態度で、そっと窓枠から降りると、返されたハンカチをポケットへとしまった。本当…… バカ……
「……それは、あんまりではありませんか姫様。私も、それなりに覚悟を決めたつもりだったのですが……」
「それなりって何よ! あと、貴方、私が地獄行きって言ったことに関しては何も突っ込まないのね。そこは普通、『一緒に天国へ行きましょう』って言うところじゃないのかしら?」
「自覚があることは良い事かと思いまして。それに、姫様だけが天国に行くのは少し、心苦しいのです」
「どういうことかしら?」
姫は、眉を顰めると、男の顔を凝視した。
「御家族に会えません」
男は、さも当然かのように言ってみせた。
「まったく…… 怖いもの知らずね貴方…… フッ それと! 貴方、カッコつけたつもりかもしれないけど。何、当たり前のように一緒に飛び降りようとしてるの? 護衛なんだから、しっかり止めなさいよ。本当…… 護衛としては、0点ね!」
姫の言葉に男は、ただ茫然としていた。
「申し訳ありません。最善の手をとったつもりだったのですがッ!?」
「でも…………」
突如、姫は男にしがみつくように腕を回した。そして、下から覗くように応えた。
「"合格よ。オルディボ!"」




