第1話 転生
見渡す限りの白だった。地面も白。
空も、これを空といっていいのか分からないけれど空も一面白である。
すべてが白であるため、空間、空と地面の境界があいまいで不思議な感じもする。
田中義剛は今度、自らを注目する。
ランニングシューズにランニング用のハーフパンツにTシャツ。
彼がランニングをするときのいつもの格好だ。
「そうだ、俺はランニングをしていて……」
車がゆっくりと自分に近づいてくる。
彼の脳裏にスローモーションのように映像が――――車がブレーキを踏む音と、物体が衝突する音とが響き渡る。
「そうか……俺は死んだのか。…………だとしたら、ここはどこだ?」
真っ白な空間。少なくとも三途の川ではなさそうだ。
彼が知っている死後の臨死体験の中にこのような光景はない。
一歩ずつ恐る恐る歩いてみる。
床が抜けたり、実は液体だったりする箇所はどうやらなさそうだ。
床を触ってみる。石でも鉄でもプラスチックでもなさそうだ。
その触覚から感じ取れる感覚は未知のものであった。
風はなく、音もしない。
無音という音がするかのように音がしない。
静寂と白。この空間にあるのはそれだけだった。
精神と○の部屋。
彼の脳裏にとある漫画のその部屋が連想される。
確か時の流れが特殊で遅いという設定の部屋だった気がする。
居住空間があり、それ以外は何もない空間だったはずだ。
今のこの空間には居住空間も何もないが。
その時、彼の目の前、地面の一部分が液体のように変化した後――
そこから大きな卵のようなまた真っ白いものが隆起してきた。
人のほどの大きさのある物体は隆起しきると、液体と化していた地面は固体へと戻った。
卵が地面から生えたようになっている。
音もなく現れたその大きな卵と彼はしばらく無言で対峙する。
しばらくすると卵がひび割れる。
そのひびはどんどん大きくなっていき、卵がその形状を維持できなくなると、中から裸の人間が現れた。
その体型からその人物が女性であることはわかる。
だがその女性の体に乳首はなく、秘部にあるはずの体毛などもない。
真っ白な肌に銀髪をしており、どことなく人間離れした超然とした雰囲気を纏っている。
その為か裸だがいやらしさというものを一切感じなかった。
まるで一つの芸術作品を鑑賞しているかのような、そんな感覚だ。
「ようこそ」
女性の第一声はそれだった。
「どうぞ、腰掛けてリラックスしてください」
女性が示した先には先程までなかったはずの椅子があった。
その椅子から視線を女性に戻すと女性はもう裸ではなくなっており、真っ白な服を着ている。
その服は古代ギリシアの人たちが着ていたような服に見受けられた。
彼女はいつも間にかできていた白い椅子に座る。
そして呆気にとられて突っ立っている義剛に不思議そうに視線を向ける。
「どうしたのです? 座らないのですか?」
義剛は不承不承といった感じで椅子に座る。
彼の頭には様々な疑問が渦巻いている。
何もない所にどうやって物体を出現させた?
いつ彼女は服を着た?
天使か? 死後の案内人というやつなのか?
一方、彼女は今度、モニターのようなものを近くに出現させてそれをタッチ操作している。
そのモニターには文字情報が表示されているけれど、日本語ではない。
見たことがない文字で彼女がなんの操作をしているのかわからなかった。
彼女は少しモニター操作をした後に義剛と向き直る。
「どうもはじめまして、私、エミリアと申します。今回はヨシタケ様のご案内を担当させて頂くことになりました。どうぞよろしくお願いいたします」
うやうやしく座ったままお辞儀をする。その言葉から感情は読み取れない。
表情からもだ。そもそも感情を有している存在であるかも不明だった。
「……案内ですか? 俺って死んだんですよね。ということはあの世への案内ってことですか?」
「あの世ではなく別世界への転生のご案内になります」
「別世界への転生ですか?」
「はい」
エミリアとの会話はまるでAIと会話をしているようだった。
この真っ白な空間も現実世界というよりはVRだったり、ゲームの世界と言ったほうがしっくりくる気もした。
別世界への転生……異世界転生とかそんな感じだろうか?
義剛は前に異世界転生系の漫画をいくつか読んだことがある。
剣と魔法のファンタジーな世界に現代人が転生して冒険などを楽しむストーリーだ。
そして転生者はその時、チートと呼ばれる能力を授けられて有利な状態で転生することが多い。
「別世界というのはどんな世界でしょう?」
「ヨシタケさんが生きておられた世界とは物理法則が若干異なります。ただ大きくは変わりません。特定の条件時にパラメーターが追加されるくらいのイメージです」
「そのパラメーターとは……もしかして魔法とかですか?」
若干の期待を込めて義剛は問いかける。
「ええ、その通りです。魔法が使用できるように前の世界とは物理法則が違っています。というか特定条件時に物理法則を無視するようになっているといった方が正確でしょうか。魔法は誰でも使えます。その分といってはあれですけど、科学はそれほど発達していません」
剣と魔法の中世のような世界。いいじゃないか。
だがそれよりも義剛には気になることがあった。
「異世界でもランニングはできますか?」
「……ランニングですか?」
「はい」
彼女は首を少しかしげた後にモニターを操作する。
すると何かを見つけたようで、
「ああ、ランニングとは走る運動のことですね」
「はい、そうです!」
「もちろん可能です。ランニングの物理法則についてはヨシタケ様がおられた元の世界と大差ありません」
義剛は一安心する。
次に気になるのは異世界転生といえばやはりチート能力だ。
その辺りの能力を授かれるのかというのはやっぱり気になる。
「俺はなにか特別な能力を授かれるのでしょうか?」
「特別な能力といいますと?」
「いや、こういうのって剣がめちゃくちゃ強いスキルとか、強力な魔法を使える賢者のスキルとか、そういうような能力が転生時に授かれたりするじゃないですか」
「……そのようなオプションはございません」
真顔で返されてしまう。
まあ彼女はいつも真顔ではあるのだが。
転生してもチート能力はないってことか。
「なるほど、じゃあ後、何かこちらの要望が叶えられたりするんですか?」
「申し訳ありませんが、そのようなオプションはございません。ヨシタケ様はこの後、20代の男性として別世界に転生して頂きます。その時に衣服は着用頂きます。それ以外には何も所持していない状態となっております」
「ちょっと待って下さい。別世界って言葉は通じるんですか?」
「それはご安心ください。言語については理解も喋ることも、読むこと書くことも可能です」
そこで義剛は今喋っているのが日本語ではないことに気づく。
だが喋れている。意味も分かるし、通じている。そういうことか。
「後、何かご不明点はありますか?」
ご不明点だらけなんだけど、と義剛は思う。
「その別世界の歴史だったり、決まりごとだったり、そういった事を事前に知りたいのですが」
「申し訳ありませんが、それについてはお答えできかねます」
じゃあ、なんで聞いたんだよと思わず返しそうになる。
がぐっとこらえる。この調子だと異世界の設定についての細かい点については聞いても答えてくれないのだろう。
異世界で生きていけるのだろうか?
義剛は若干の不安を感じる。それは懐かしい不安だった。
成人してはじめてひとり暮らしをした時のことを思い出す。
あの頃もこうした漠然とした不安を頂いていたような。
最もその頃はその不安を消し飛ばすかのような、根拠のない希望も同時に抱いていたが。
…………まあ、なんとかなるだろう。
というかするしかないのだ。大丈夫だ、俺にはランニングがある!
「その辺りが答えられないんだったらいいですよ、もう転生してもらって」
「かしこまりました。それでは転生処置を施させて頂きます。今回はエミリアがご案内いたしました」
最後にエミリアのテレアポのようなセリフを聞いた後に、義剛は光の粒に包まれる。
そういえばエミリアさん、あなた何者なんですか? というのを聞き忘れていた。
天使なのか、もしかすると神様なのか。なんでそんな感情がないような感じなのか。
聞こうとするけど、最初少しだった光の粒がどんどん多くなり、エミリアの姿が見えなくなった時、義剛の意識はふっと途絶えた。