第15話 地獄門
「なんなの? この鬱陶しい呪文字は、邪魔なの。んま゛ぁ!!」
パウラは先ほどと同じように音魔法の衝撃波を発するが、彼女の周囲を覆った呪文字一つひとつがその衝撃を吸収する。
リディアはまた強烈な痛みが到来すると身構えていたが、痛みは起きずに拍子抜けする。
【無駄だ。お前が発するすべての音魔法は俺の呪文字で無効化される。音魔法については過去対戦して対策済みでな】
「そ、そんなはずはないの。音魔法の使い手は過去数百年間人間界に現れていないはず……」
【私は混じり者でな…………人外魔境の魔界出身者だ!】
パウラが驚愕の表情とともにその唇を噛む。
強い差別を受ける混じりものが大成することは珍しい。
大概人生の途中で道を踏み外す。
まして魔術師の極みの魔極者になど、誰がなれるだろうか。
リディアは口には出していないが、密かにグリシャをリスペクトしていた。
「くっ、じゃあ、肉弾戦あるのみなの! 悪魔大公爵のアスタロト様、一の配下をなめるんじゃないの!!」
グリシャは黒のローブを脱ぎ捨てる。
パウラが躍りかかると同時に、グリシャは自ら発した呪文字に体全体を覆われる。
グリシャを覆った呪文字は彼の体中をまるで蟻のようにうごめく。
それは異様な光景であった。
「はぁあーーーーーーっ!!」
パウラの振りかぶった拳が漆黒の輝きを発する。
振り下ろした拳をグリシャが両手で受け止めると轟音と衝撃波が発生する。
グリシャを覆っていた呪文字はいつの間にか彼の全身に入れ墨のように刻まれている。
呪文字の一つひとつが異なる光を放っており、彼自身が奇妙な発行体となっていた。
【身体強化、音吸収、衝撃吸収、炎に氷、水、雷吸収、硬質化、まだまだあるぞぉ、私に刻まれた呪文字の効果わぁ!!】
「んまぁ! なんでこんな奴が人間界に!!」
パウラは一度グリシャと距離を取る。
その時、リディアたちの上空に突然、巨大な鋼鉄製と思われる漆黒の扉が出現する。
「………………んまぁ! 間に合ったの!」
【なんだ…………まさか……】
「地獄門である」
アスタロトが宣言する。
「きひひひひひひひひぃ! 我らの勝利はこれで確定したの! 人間界の支配はここからはじまるの。始まりの土地に選ばれた栄光に感謝するの!」
その扉が少しずつ開かれていく。
するとその扉の隙間から我先に外へ出ようとする無数の手が伸び出る。
悪魔たちの怒号と歓喜の咆哮が扉の隙間から聞こえてくる。
なんということ……。
絶望の淵に追い込まれたリディアがその顔を青くしている、その時――
大空一面を一瞬で呪文字が覆う。リディアは一瞬我が目を疑う。
しかしすぐにその呪文字が、グリシャによってもたらされたものであると悟る。
呪文字は陽の光を遮り、辺りは暗闇に包まれる。
大空でうごめく呪文字は、まるで生命と意思をもった下等生物のようで不気味だ。
【視力と聴覚を引き換えに得たこの呪文字の力――――己が魔極者と呼ばれる所以を思い知らせてやる!!】
咆哮のような大声でグリシャがそう言い放つと、彼から信じられないような魔力が消費されていることがわかる。
呪文字は突然光を放ちだし、上空に浮かぶ巨大な扉の前方へと集まっていく。
集まっていく呪文字はいつしか十字を構成していく。
十字は呪文字が集まるにつれてその光度を増していく。
すべての呪文字が十字に集中し、その光度が眼を開けていられないほどの光度となった時――――
『究極十字魔法!!』
十字の中心から扉の入り口へと向かって閃光が放たれる。
目を開けていられないような光度の閃光だ。
リディアは咄嗟に目の前を塞ぐ。
十字からの攻撃による轟音と衝撃は凄まじく、空間ごと衝撃が波及して地響きも併発される。
と、同時に地獄門から人間界に侵入しようとしていた悪魔たちの断末魔が扉の隙間から聞こえてくる。
轟音と悲鳴と地響きと眩すぎる閃光。
この世の終わりのような光景がしばらく続いた後――
最後、いくつかの悪魔の断末魔が遠耳に聞こえた後に、十字と地獄門は徐々にその姿を消していった。
しばし訪れる静寂の時。
パウラは怒りからその顔を徐々に真っ赤に染めていく。
「んまぁあああああああ!!! なんてことを! なんて罪深いことを! 一体何人のアスタロト様配下、悪魔たちの命が今の一撃で失われたことか! 数百年の時を費やして人間たちの魂を集め、やっとのことで地獄門が開かれようとしていたのに!!」
【数百年の努力がパーか。それはそれは、随分と悪いことをしたなあ】
グリシャは発話する内容とは真逆に口元に笑みを浮かべている。
「お前は殺すだけは済まさないの。魂を捉えて――」
そこまでパウラが話した所で、彼女は四方形の透明な箱に突然閉じ込められる。
内側から透明な壁を叩き何事か叫んでいるようであるが、外にはその衝撃も声もすべてが遮断されていた。
【うるさいからお前はそこで少し待ってろ。後で料理してやる。さて、】
そう告げた後、グリシャはアスタロトと向き合う。
遂に訪れたアスタロトとの直接対決の時。
リディアは緊張からゴクリと唾を飲む。
アスタロトはどこから取り出したか突然傘をさす。
今、雨は降っていないし、降りそうもない。
すると――――ぽつ、ぽつと空から雨が降り出す。
雨が自らの体に降り落ちた時、ジュウと音をたてる。
その箇所から火傷をした時のような痛みが生じる。
これはただの雨ではない。
「酸系の毒雨よ! 常時回復の効果を超えているわ!」
【任せろ】
透明なドームがリディアたちを包み込むように突然出現する。
雨足は次第に強まり、本降りとなっていく。
毒雨が地面を溶かす音が絶え間なく響く。
降り落ちた雨は粘着性の強い液体となって、アスタロトの足元へ集まっていく。
アスタロトの足元に紫色のゼリー状の液体が広範囲に広まった時、雨はやんで、アスタロトは傘を閉じる。
彼の足元にあるゼリー状の液体はスライムのようにうごめいており、生命をもっているようであった。
それは一瞬のことであった。
アスタロトの足元のスライムが突然、先端が鋭い槍のようになってグリシャに伸びる。
スライムはグリシャの体を容易に貫く。
呪文字によって身体強化され、鋼鉄の如き肉体となっているはずのグリシャの体を。
その場に膝をついたグリシャの体が紫色に染まっていく。
リディアには攻撃の初動はまるで見えなかった。
目の前の敵の余りの強さに一気に冷や汗が吹き出る。
【ば……馬鹿な……】
「ぐふふふふふふふふ。苦しめ、苦しめ。苦しみぬいて極上の毒を存分に味わうがいい。お前の体内には極小の我が毒スライムが投入されたわ」
リディアは更にグリシャへの回復効果を強める。
だがグリシャの体はどんどん紫色に染まっていく。
毒の侵食が回復効果を上回っている。
グリシャが倒れたことにより、箱に囚われていたパウラは解放される。
リディアは魔力も残り少なくなっている。
常時回復魔法を発動しているため他のことをする余裕もない。
リディアは絶体絶命の危機にその顔を青くする。
「アスタロト様、お手を煩わせて申し訳ないの」
解放されたパウラはまた戦いの前線に立つ。
パウラはリディアとその目をあわせると、ニヤリと笑みを浮かべる。
リディアはその笑みに見覚えがあった。
それは絶対的な強者が弱者を蹂躙する時に向ける笑みだった。
自分では絶対にパウラとアスタロトを相手にすることはできない。
自身が蹂躙される嫌な想像が頭をもたげる。
背筋が凍りついていく。
「マリーン様、どうかお救いください……」
半ば自棄になって教国の女神に祈りを捧げたその時――
一人の男がリディアたちの元へと駆けつける。
願いが通じたかと一抹の希望を持ってその男を確認する。
しかし男は剣を背負ってはいるようだが、兵士ではなく、強そうにも見えない。
リディアは絶望の淵でその膝を折った。