第11話 約束
ジーンはトン、トン、トンっと沼地の岩場を軽快に走り進めていく。
最初はすぐに気分が悪くなり、治癒魔法を使い続けて魔力もすぐに枯渇していたけど、大分走り進められるようになってきた。
このまま沼を抜けられるのではないかと期待感が湧いてきた時のことだった。
「うわっ!」
沼地から突然巨大なカエルが飛びかかってきた。
カエルから舌が伸ばされてくるが、それは身体強化された手で弾く。
体色は紫を基調としていて、所々赤筋で何かの模様が入っている。
大きさは大型犬くらいあった。
「痛っ!」
防御した手に痛みが生じる。見てみると、手は紫色に腫れていた。
治癒魔法をすぐさま集中的にかける。
若干の快感とともに、紫色から元の色に手はみるみるうちに回復していく。
恐らくは強力な毒がある舌攻撃――だろうか。
今度、カエルは足の筋肉を一瞬膨張させると――猛スピードでジーンに突っ込んできた。
前足の攻撃を咄嗟に防ぐと、金属と金属のぶつかり合うような大きな音が周囲に響き渡る。
カエルの前足はナイフみたいに鋭くなっていた。
(身体強化した手で攻撃するか?)
その考えがジーンに浮かぶが、カエルの体色からして体中どこでも毒がありそうで触りたくない。
武器になるような適当なものが落ちていないか周りを見回すが、そのようなものは近くに落ちていなかった。
ランニングはもちろん中断されている。
しばらくの間、魔物のカエルとにらみ合いをするが、ジーンは諦めて踵を返す。
しばらく後方を気にしながら走るが、カエルは後を追ってきてはいないようであった。
その後、次の障害となるあのカエルをどう料理するか、ジーンは走りながら考えていた。
「おかえりなさーい」
「ただいま」
今日もまたランニングから帰ると、宿の前で掃除をしているマリーナの花咲くような笑顔に迎えられる。
「あの、これ……」
マリーナはタオルを差し出す。
「ああ、ありがとう」
ジーンは渡されたタオルで汗を拭った。
「あの…………気を悪くしないで欲しいんだけど、少し聞いてもいい?」
マリーナは上目遣いでお願いするかのようにジーンに尋ねる。
「ん、なんだろ?」
「ジーンはなぜランニングをしているの?」
「………………」
予想外の質問に虚をつかれてジーンは少しの間、固まる。
なぜランニングをするのか――それはジーンの人生哲学にも触れる質問であった。
その様子を見て何を思ったのかマリーナは慌てた様子で、
「ああ、ごめん! 失礼だよね、こんな質問! ひとそれぞれ性癖とかある訳だから!」
「性癖?」
なんのことだろうかとジーンは首をかしげる。
ランニングはあくまで趣味であって性癖ではない。
「あ、いや別に気に障ったとかではないので。ただ少し思考停止してしまっただけで…………。そうだな、ランニングの理由……か。ランニングってするとしんどいよね」
「ええ、しんどいわ」
マリーナはやはりそうかというような表情をした後、今度は恥ずかしそうにしてその頬を赤く染める。
百面相のように次々と表情を変えて忙しい。
そのようなマリーナの様子に怪訝な表情をうかべながら、ジーンは話を続ける。
「自分は人生というのは結局の所は苦痛の連続だと考えている。一時的にその苦痛を回避できても、その場合、それは後から返済しないといけない。そしてランニングというのは自分にとって苦痛の前払いだ」
「苦痛の……前払い?」
「そう、苦痛の前払いだ。ランニングをすることで苦痛の総量は、結局の所、多くなってしまうのではないかと普通の人は考える。それはそれで間違っていない。だが、ランニングをすることで……これは個人差があると思うけど、苦痛をやり過ごせるようになる。ランニングをすることで苦痛をやり過ごせるようになるので、ランニング後に感じる苦痛についてもやり過ごせるようになる。だからランニングをすることは苦痛の前払いだ」
「は、はあ……」
マリーナの頭の上には、はてなマークがいくつか浮かんでいるようであった。
ジーンは腕を組み、片手を口に持っていって少し考えてから続ける。
「そうだな…………わかりやすい所でいうとランニングをすることで、体力の増強、不眠の改善、脳への好影響や精神の安定などのいい効果がある」
「ええ、それはすごい! じゃあ、私もランニングやってみても……でも、無理だよね。私みたいな体力のない人間には……」
「そんなことはないよ。ランニングは性別問わずにできるスポーツだ」
「それじゃあ、今度教えてもらっても……」
「じゃあ、今度一緒に走ろうか?」
「やったぁ、ぜひ!」
マリーナはピョンピョン飛び上がって喜ぶ。
「喉乾いたでしょう。食堂でお水、飲んでいって」
そうしてジーンは導かれるままにマリーナと宿の中へと戻っていった。