2.水城さんと僕 2023/8/4
アパートの扉を開ける。僕はスニーカーを脱ぐのもままならず浴室に転がりこんだ。便座のフチに右腕をかける。口いっぱいに溜まっていた唾液を軽く吐きすてた。
ぷ。
吐いた。
天カス、潰れた枝豆、慣れない酒の苦み。その全てが一緒くたになって鼻を抜けていく。酸い熱。ひとたび止んで、すぐに始まる。きうう、う、うっ、喉が絞められる感覚。呼吸が止まる。しゃくりあげるように空気を吸って、その匂いでまた吐いた。
「んっ、お、おええッ」
収まらない吐き気に脳が黄信号を出している。ざまあみろ。僕なんて、このまま死んでしまえばいい。体の芯を貫く苦痛が心地よかった。
だらりと垂れさがった左腕。もらったばかりのブレスレットが、酔いのせいかひどく霞んで見えた。
◆
僕が初めてサークル会館に足を踏みいれたのは丁度一年前、大学一年生の八月だった。数ある音楽系サークルのどれ一つにも目をくれず、その足は『イノハマカルテット』の部室へと向かった。
「こんにちは」
深淵の黒から美しさだけを切りだしてきたかのように、彼女は僕を出迎えてくれた。
水城弥生。彼女にピッタリの名前だ。
流麗な脚をぴっちりと包むスキニーのボトムス、品の良いブラウス、流れるような黒髪。肌は大理石のように白く、ガラス細工のように華奢だった。
可愛い──だなんて、僕が感じ入るのもおこがましくて、頭の中で意味もなく『美しい』と訂正してみた。
美しい。水城さんは美しかった。
僕はイノハマカルテットへ入部した。
◆
「そう、そう。段々慣れてきたわね」
部室で埃を被っていたヴィオラという楽器。小柄な僕にはやや手に余る大きさで、経験のあるヴァイオリンと比べて取り回すのが大変だった。
「チェロは大変でしょうし、ヴァイオリンにはもう先約がいるのよ」
先約……『姫、姫』と口を開く度にうるさいアイツだ。水城さんと並んで、このイノハマカルテットの部員の一人。気取った燕尾服の袖口からのぞく黒色のレザーブレスレットは、水城さんからの貰い物だという。
ふん、なんだよ。ほんの数ヶ月、先に彼女と会ったからって。
水城さんと、アイツと、僕。イノハマカルテットの部員として、僕たちは一年近く一緒にやってきたのだった。
マックス・レーガー、『無伴奏ヴィオラ組曲・第一番』。弓を弦に滑らせて、頭の中のアイツを追いだす。僕にできるのは、水城さんから任せられたヴィオラを完璧に仕上げることだ。
今、部室には僕と彼女の二人きり。彼女は僕の弾くヴィオラに時折相づちを打っては、目を閉じたままほんの少しだけ頬を緩める。
なんて素敵なんだ。
その慎ましやかな微笑みは、こうして一緒にいる僕でなければわかるものではないだろう。もしかするとアイツでさえ気付いていないんじゃないか。きっとそうに違いない。
「かなり上達したじゃない」
「あ……ありがとうございます」
水城さんが試験に追われていたこの二週間、僕も伊達に練習通しだったわけではない。
「みっ、水城さん」
「ところで、今夜なのだけど」
僕と水城さんの声が重なった。
緊張にうわずった自分の声に赤面して、僕は彼女に先を促した。件の笑顔で、彼女は次いだ。
「今夜。ご飯を食べに行きましょう。試験も終わったことだし」
◆
大学にほど近い蕎麦がウリの居酒屋は、学期終わりの金曜日にも関わらずほとんど客が入っていなかった。僕たちは席に着くと、お通しの枝豆をつまみながらドリンクをオーダーした。
「烏龍茶をお願いします」
注文を取りに来た女性店員は数秒固まってから、水城さんの注文を伝票に書きつけた。水城さんの美しさは性別を問わず通用するということだ。そのことに感じ入るのも束の間、聞き慣れた声が「私も烏龍茶を」と注文を入れた。
…………。
水城さんと二人きりでご飯だなんて、僕には縁の無い話だったのかもしれない。アイツの右腕で鈍く光るレザーブレスレットが鬱陶しかった。こんなところにまで燕尾服を着てやってくるなんてどうかしている。ちょっと彼女に信頼されているからってナイト気取りだ。
僕はぶつぶつと呟きながらメニューを繰る。僕まで烏龍茶では芸がない。何かないか……。って、ちょっと!
驚いたことに僕の注文を取らずに厨房へ向かおうとしていた店員を呼びとめる。無視するなんてひどいじゃないか。
「すみません。僕はビール、お願いします」
どのみち芸のない注文に店員が振りかえる。彼女は見たこともない表情をしてから伝票に目を落とした。
「……ええ、と。はい。烏龍茶でなくビールということで、よろしいでしょうか?」
くそう、根暗そうに黙りこくっている僕が酒なんて飲むわけないと思っていたのか。それともまだ二十歳にすら見えないってことか。
「そうです!」
僕が声を上げると水城さんはくすりと笑った。店員は少し首を傾げて店の奥に引っこんだ。
「やめたまえよ。姫はそんなこと望まれていない」
「……うるさいな」
「二十歳に見えないのも仕方ない。誕生日は先月なのだから」
ふん、そうさ。僕の二十歳の誕生日は先月だ。先月の……。
…………。
コイツは、水城さんから、今年も何か貰ったのだろうか?
枝豆をつまんでいる右腕を盗み見る。あのブレスレットは去年の誕生日に貰ったものだといつか零していた。ならば今年は? ネックレス、万年筆、ヴァイオリンのなにがしか……思い当たるものはなかったが油断はできない。
……油断。
油断だって?
僕は運ばれてきたビールのジョッキを乾杯も待たずに飲みほす。またしても水城さんはくすりと笑う。アイツの深い溜息が耳に障った。ビールの弾ける苦みが舌の奥にジットリと染みついた。すぐ店員に二杯目を注文する。
一体僕が、何をどう油断してこうなったっていうんだ。
僕はこれほど、水城さんのことを愛しているのに。
まるで世界に言い訳するかのように、僕は運ばれてきたジョッキに口を付けた。これほど。これほど。これほどだ。飲みゆくビールの量だけ愛が深まってゆく。
「体に響くぞ」
「これから天ぷらに、お蕎麦もくるのよ」
構うもんか。
くそっ。僕はちょっと、彼女と出会うのが遅かっただけなんだ。頭に響く二人の声が甘ったるく混ざりあう。アイツの腕に巻きついたブレスレットの絆。僕は、ちょっと出遅れたってだけでその相手になれなかった。それが無性に悔しい。
ほどなくしてやってきた天ぷらと蕎麦は確かに美味しそうだったが、腹に溜まったビールがそれを拒否した。だぷだぷ、だぶだぶ。直に四杯目がやってくるだろう。
水城さんオススメのお店でなにをやってるんだ。自責の念が遅れてやってきたがもう遅い。目の前で徐々に平らげられていく天ぷらをボンヤリと眺めることしかできなかった。
「美味しいです。姫」
まあた気取った声上げて。なんだい、お前だって腹一杯で苦しいくせに、良い格好しいが。思ってから、自分に欠けているのはこういった振る舞いなのだと気付いて、僕はまた顔を伏せた。
「ねえ、彼、ヴィオラもかなり上達したのよ」
「それはそれは、姫のご指導のおかげでしょう」
話題を振ってくれる水城さんの優しさが身に染みた。後に続いた声は無視して、僕は感謝の言葉を返す。
「ありがとうございます。水城さんのおかげですよ」
「ううん、あなたが頑張ったからよ」
「あまり褒めすぎないでください、姫。調子に乗ります」
混濁していく意識に、僕の舌打ちが溶けていった。
◆
「ねえ、起きて。もう閉店よ」
耳元で囁くような水城さんの声に跳ねおきる。さっきの店員と水城さんとが顔を見あわせて少し笑った。
「すみません」
「いいえ。すぐ起きてくれて良かったわ」
さっきまでの皿はほとんど片付けられていて、残っているのはお冷やのグラスだけだった。グラスは汗もかききって、底には小さな水溜まりができている。
水城さんはグラスを示す。
「お水。飲んだ方が良いわ」
僕はぼやける視界で頷く。ボワボワと煙った五感を、何より柔らかい温水の感触が刺激する。撫でていく。視界にかかった霧が徐々に晴れていくように、水城さんと目が合った。焦点。僕は照れくさくてすぐに目をそらした。
支払いはもう終わっていた。どうせアイツが格好つけて全額払ったに違いない。よろける足取りに気を付けながら僕は店を出る。
アパートに戻ろうと一歩踏みだすと、水城さんが声をかけてきた。
「ちょっと待って」
「……はい?」
僕は覚束ない視界で振り向いた。
お、とと。
「……だいぶ酔ってるわね」
「……いえ。すみません、手間かけさせてしまって」
酔い潰れる前の記憶がぼんやりと頭の中にこびりついていた。っぷ。あれほど見苦しいこともない。水城さんの目にはどう映っただろう。
「それで、何か、用ですか」
「ええ」
僕のぶっきらぼうな返事に気分を害した様子もなく、水城さんはいつものカバンから濃いグリーンの包みを取りだした。夜道に突っ立っている僕にそれを差しだす。
「これは」
「プレゼントよ」
僕はその一瞬、酔いも忘れて包みと彼女を見比べた。
視線を上げて、下げて、上げて、下げて。ぐらぐらと回り出した頭を片手で押さえて、「プレゼント」、どうにか一言。
「ええ。そうよ。誕生日プレゼント。この二週間、試験で忙しかったから。遅れてしまってごめんなさい」
「い、いえ!」
僕は自分の頭をかき乱すようにぶるぶると首を振る。
プレゼント。プレゼントだ。水城さんが、この僕に。
「気に入ってくれるといいのだけど」
「そんなの、勿論」
僕は震える両手で包みを受取る。開けていいのだろうか。水城さんに視線で問うと、彼女は僕にだけわかるくらい小さく頷く。僕は包み紙を止めるテープをゆっくりと剥がして、中の箱を手に取った。さらにその箱を開けて──。
入っていたのは、見慣れたレザーブレスレットだった。
色も形も全く同じ。アイツの右腕で鈍く輝いている、僕が何より欲しかったものだった。
欲しかった。
それは水城さんからの信頼の証。
欲しかった。欲しかった。欲しかった。
アイツの代わりになれたらと、ほら、ついさっきまで僕は夢想していたのだ。
なら、これはなんだ?
熱っぽい吐息をついた。僕はここに、全く喜んじゃいない自分を見つけた。
今、僕はどんな顔をしているだろうか。ゆっくりと顔を上げる。月明かりにいやというほど美しく輝く、水城さんの顔。
「──っ。…………」
これはどういう意味ですか──開きかけた口を押さえる。馬鹿野郎、聞くまでもないじゃないか。
僕は、たった一言「好きです」と言う前にフラれたのだ。
僕は彼女の唯一になることができない。
決したのだ。
「…………ありがとう、ございます」
僕はたっぷり時間をかけて、それだけを吐きだした。僕にできる精一杯の抵抗だった。
「気に入ってくれて良かったわ」
彼女は僕の心情を知ってか知らずか、またほんの少しだけ微笑む。
「じゃあ、また今度」
「水城さん」
その後ろ姿に、ああ、僕はどんな声もかけるべきではなかった。だって、なあ、そうだろう? どんな言葉も恥の上塗りにしかならないのに。
振り向く彼女。
「水城さん」
僕が一歩近づいても、彼女は身を退かなかった。
それは、僕を受け入れているから、ではない。
「水城さん」
「ええ。何かしら」
「その、大学生とかになると、水城さんの気持ちも考えずに無理矢理、とか、そういうヤツもいるかもしれないし……もし! 何かあったら…………僕、か、アイツに、連絡してくれれば。絶対、言いなりになっちゃ、駄目、だよ」
水城さんはきょとんとした顔で僕を見た。
馬鹿。
水城さんの表情が今にも変わってしまうのが怖くて、僕は目を伏せて走りだす。
馬鹿野郎、馬鹿野郎だ。僕は。
こみ上げてくる吐き気が夜の熱と混ざりあった。