1.姫と私 2022/7/20
J.S.バッハ、『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第二番:シャコンヌ』。
譜面は見ない。目を閉じて、弦を這う己の指先だけに集中する。瞼の闇、私たちを取りまく旋律の渦。四本の弦に乗せた私の思いが、すぐそばで耳を傾けてくださる姫のもとへと届く。
ヴァイオリンは不思議だ。このたった四本の弦から無数の音階が生まれる。喜びも、哀しみも、怒りも。私の内でじりじりと焦げつくこの激情さえ、言葉なんかよりもずっと細やかに世界へと紡ぎだしてくれる。
そうして編まれゆく声音に耳を澄ませる。この情念は、その一筋一筋、一条一条に至るまでが広大無辺の彼方まで解け、その意味を携えて再び結実する。
(姫、愛しています。姫)
開闢と終末の淡いたるこの世にあって、仮に唯一確かなことがあるとすれば。それは私の内からあふれ出る、このパトスだ。
(姫、私はあなたと共に)
縋るように音を奏でる。縋るように。私はそう表現することにしていた。この心を表すは、音楽に、ヴァイオリンに縋りつく私でしかありえないのだ。
私は、このパトスを。
(決して、姫、わかっていただけますね。決して、これがリビドーだなどと諒解されませんように。姫)
美麗な旋律を退けて滲み上がるは、軽薄で卑賤、分を弁えない淀んだ感情。いけない。指を伝うシャコンヌの旋律にとくと耳を傾ける。骨を伝う音の清水が、すぐに私の心を洗い流してくれる。
(姫。姫、どうか)
湧きあがる一切のパトスを世界に掻き現そうと、私は弓を力の限りに引いた。
(二人だけの世界へ。姫──)
────。
私の紡いだ音色の糸は、やがてその氷にも似た体をするすると解き、木々の緑の中に溶けこんでいく。
姫の可憐なる拍手が私に向けられる。
「良かったわ」
その御声に、全身の細胞が震えかえるのを感じた。ゆっくりと目を開ける。
ああ。姫のお姿はそこにあった。
姫がひとたび腰を下ろせば、それはまさに絵画そのものだ。何の変哲もない石造りのベンチが白亜に輝いていた。
目尻のほんの少しだけ上がった二重の目。すうと落ちる形の良い鼻先。小さな口元はほんのりと微笑を湛えている。持ち上げられた頬が誰にもわからないほど(ああ、それでも私にはわかるのだ)微かな丸みを持って、姫の表情、その全てを象徴していた。
その尊顔を優しく包みこむ、頬の辺りで切りそろえられた黒髪。木漏れ日に濡れ、白金のように視界に眩しい。
ゴシック調で固められた服は、日の光を嫌うように気品をもって空間を占めていた。ここが日本でも、蝉鳴きむしる猛暑でも、あるいは騒々しく学生の行き来する『語らいの森』でもなければ、私は中世ヨーロッパに迷いこんだと錯覚してしまっていただろう。
そして──。
そして……。
(……暑い)
肌着がじっとりと汗に滲んだ。全ての空気がのしかかってくるような暑苦しさに包まれる。燕尾服の襟を開きかけて、姫の前だぞと思いとどまった。
「また聞かせてね」
追い打ちのように響く姫のお言葉に、二重の意味で焼死しそうになりながら「はい」と努めて冷静に応える。
「勿論です」
「ありがとう。じゃあ、わたしはそろそろ三限だから」
姫は石造りのベンチから軽やかに立ちあがる。ベンチに被せていた花柄の敷物を手際よくたたむと、すぐ脇のライトモスグリーンのサッチェルバッグにしまった。私も今し方弾きおえたヴァイオリンを手早くケースに戻して肩にかける。私の荷物はこれだけだった。
「お手を。姫」
「ええ」
土に埋まった飛び石に足を取られないよう、細心の注意を払って姫をエスコートする。綿毛のように軽く触れただけでも、姫の指先から伝わる熱は私をひどく感激させた。
水曜日の三限には、姫の受講する『西洋音楽入門』がG3の大講義室で開かれる。姫の優雅な足取りにつかず離れず、蝉にも増して騒々しい講義室の前までやってきて、私は深く一礼。
「それでは、姫。私も三限がありますので」
「ええ。終わったら部室に行くから」
「はい。どうかお気を付けて」
姫は軽く微笑んで(なんて繊細な笑顔だろう)講義室に入る。その背に数人の集団が続いた。
男たちは姫を横目に眺めながら、その二列ほど後ろの席に腰を落ち着ける。それらは入れ替わり立ち替わり姫を盗み見てはニタニタと気味の悪い笑みを浮かべている。遠目に眺める私に気がつくと、不機嫌そうに目を吊り上げた。
…………。
私は精一杯の軽蔑をやってからそれらに背を向けた。授業など放り出して姫をお守りしたかったが、それではまた姫にお叱りを受けることになる。
大方やつらは姫に惚れて(なんておぞましい!)いて、まるで私が姫に惚れて(なんて──!)いるかのように勘違いしているのだ。あまつさえ、あの姫がそんな低俗な感情に呼応しているかのように見誤っている。
(そんなこと、ありえない)
私は深く息を吐く。肩にかけたヴァイオリンを一撫でして三限の教室へと向かう。
◆
教授に連れたつように講義室を後にした。
相変わらず額から吹きでる汗をハンカチで拭いながら、大学の端に位置するサークル会館までやってくる。大学の擁する三十余りのサークル・部室部屋が所狭しと並ぶ三階建ての自治棟だ。
部室の前にかかった『イノハマカルテット』の立て看板を横目に部屋の鍵を開け、電気を点ける。十畳と少しの部室。部屋の半分を旧式のグランドピアノが占めている。夏の日差しで籠もった熱気に息が詰まった。古びたエアコンの電源を入れた。
パイプ椅子に腰を下ろす。気付けば、左手は虚空を撫でるように細かな動きを始めている。練習中の運指を確認するのは私のルーチンだ。
「練習熱心ね」
部室の扉を開け、三限を終えた姫が顔を覗かせた。
「お疲れ様です、姫」
「ありがとう」
姫は私の用意した椅子に腰を下ろす。バッグの中から何か取りだそうとしているらしい。慎ましやかな微笑を浮かべている。
「今日はあなたに渡したい物があるの」
バッグの中からシックな色の包みを取りだす姫。
この私に、渡したい物?
「そうよ。だって今日、誕生日でしょう」
おずおずと受取る。姫に促されるまま、私はその包みを開けた。
「ありがとう、ございます」
入っていたのは黒のレザーブレスレットだった。
私は流れるように右腕にそれを着ける。バックルをサイズ穴に通して、部屋の明かりにかざしてみる。その表面に細かく刻まれたシボが蛍光灯の光を優しげに反射した。
「嬉しいです」
「気に入ってくれて良かったわ」
「ひ、」
め。
私が再度感謝を述べるために視線を下ろすと、姫と目が合った。
漆黒の瞳。細やかに整った睫毛の一本一本さえ数え取れるような距離で、姫は私の瞳をジッと見つめていた。
吐息がかかる。甘い、吐息。
「ねえ、これからもわたしと一緒にいてね」
瞬間、私はいくつもの感情に引き裂かれた。
それは今にも、私が私でなくなってしまうような感覚。世界が押し縮められる。激しい鼓動が鼓膜を揺さぶった。体中から淀みが吹きだすような錯覚。首を振る。ぐらぐらと視界が揺れた。
「いけません……姫……」
その細い肩を押しかえそうと手を載せる。姫はそれに構わず、その顔をさらに私に寄せた。
(ああ──どうか、姫)
「どうか、そんなことを、なさらないでください」