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 早朝——と言っても一月の五時前など、ほとんど深夜と変わりない。冬空は未だ深い藍色に染め上げられたままで、痛いほどの冷たい風が肌を撫でていく。

「またか」と赤松(あかまつ)は嘆息した。「せめて痕跡くらい残さないでおいてほしいよ、全く」

 金沢駅の土産物店の近くのロッカールームには、スーツ姿の男性と紺色の制服に身を包んだ男性が数人ずつたむろしていた。制服の方の集団の背中には『石川県警』のロゴが表記されており、スーツ組も含めた彼らが警察官である事を示していた。

 金沢東警察署の赤松は無造作な黒髪をガシガシと掻きつつ、ロッカールームの至る所に刻まれた細かい傷を見やる。次いで手にしたスマートフォンの画面に視線を移す。ディスプレイには、誰かが端末のカメラで撮影したとおぼしき動画が映っている。再生されている場所は、まさに今赤松がいるところと同じ。しかし、その様相は一八○度異なっていた。

 半壊した室内。重機で削り取ったかのような傷が刻み込まれた壁やロッカー。赤松は実際の景色と画面の中の景色を交互に見る。破壊の度合いこそ違えど、傷のある箇所についてはかなりの精度で一致していた。

「何か分かりましたか」と隣にいた若い刑事が訊いてくる。

 赤松は気怠そうに頷き、「おそらくは、こことは異なる世界で起きた事の一部が反映されてるんだと思うよ」と言った。「金沢駅と全く同じ構造の建物がある別世界……そこから生きて帰ってきた人達の撮った動画と証言を合わせると、そんな風に考えられるんじゃないかな」

「……去年に引き続き、減る様子がないですね」

「当たり前さ。僕がここに来る前から、この手の事件は続いていて、そして誰も手を打てなかったんだ」赤松は壁の傷を指でなぞり、面白くなさそうに笑った。「姿が見えなくとも、確実に存在している化け物……僕達にはどうしようもないね」

「そうでもねえよ。怪恨(かいこん)はテメエらが考えてるほど常識外れの存在って訳じゃねえ」

「……誰ですか、あなたは」

 いつのまにか警察官の集団の中に紛れ込んでいた初老の男性に対し、赤松は目を細めた。スーツと防寒着のレザージャケットを着込んだ出で立ちに、獰猛な肉食獣を思わせる顔立ち。ただ者ではないな、と赤松は男に対しての評価を下した。

「すまねえ。紹介が遅れたな」男はレザージャケットの内ポケットから黒革の警察手帳を取り出して、赤松達に見せてきた。「警視庁から派遣されてきた武田(たけだ)だ。ここ最近、金沢で不可解な現象が続いてるっつう報告を受けてな。調査に来たって訳だ。まあテメエらの話を聞いた限りじゃ、最近なんてもんじゃねえみたいだがな」

「警視庁……」赤松は僅かに身構えた。

「心配すんな。そっちが化け物相手に何十年も太刀打ちできなかった事について、とやかく言う気はねえ」

 武田は無遠慮に現場へと踏み込むと、ロッカールーム内に刻み付けられていた細かい損傷を興味深そうに観察する。

「確かに昨日ジェフリー=ダーマーを名乗る怪恨が暴れてた痕跡と一致するな。『隔離された空間内で起きた事の一部は現実世界にも表れる』っつってたな。奴から可能な限り情報を引きずり出してやったが、まだまだ知らねえ事も多そうだ」

「ジェフリー=ダーマー? アメリカの大量殺人鬼が何か関係が?」

 赤松が眉をひそめると、武田は自身のスマートフォンを彼に投げ渡した。そこに映っていたのは、ズタボロの美青年が武田の手によって拷問されている現場だった。

「……これはッ……!? あんた、いったい何を……!?」

「安心しろよ。そいつは人間じゃねえ。話によると石川……というよりも主に北陸に出没するみてえだな、怪恨っつう化け物は。そんで奴らには大きく分けて三つのタイプがいる。人間に対する怨嗟の感情が練り固まって実体を伴った奴。同じ出来方だが実体を持たない奴。最後に過去に死んだ奴が何らかの原因で霊となり、それを骨組みとして怪恨としての力が肉付けされた奴——ダーマーの野郎がこれだな」

 やがて動画の中の拷問が終わる。仕上げとでも言うかのように、命乞いするダーマーの頭部をショットガンの銃撃が粉砕する。グロテスクな死体は数秒ほどビクビクとうごめいたのちに、完全に機能を停止した。動画はそこで途切る。赤松から端末を奪い取るとスラックスのポケットにしまい込んだ。

「ちなみに、こいつは隔離空間の中で自分の欲求を満たすために好き勝手やってただけ。俺や一般人を捕らえてたのは、さっき言った二つ目のタイプだ。ダーマー曰く『黄昏(たそがれ)(むくろ)』とかいう怪恨は、自前の隔離用の世界にランダムで生き物や化け物を放り込んで、生命力を吸い取るらしい。実際、俺もあの場にいる時は倦怠感がヤバかったからな」

「……確かに、生き残った人間からも同様の証言は得られている。突拍子もない話だが、辻褄は合うな」

 赤松が言うと、「助かるぜ。物分かりが良くて」と武田はニヤリと笑った。「テメエらが何も知らない無能共なら、俺の話を鼻で笑い飛ばしてただろうな。だがテメエらは違う。今の俺の話をまともに聞いてた。それなりに怪恨の事には精通してやがるな」

「あの連中を怪恨と呼ぶ事は今知ったよ。そいつらに種類名や個体名があるという事は、僕達以外にも奴らを知っている者がいるという事かな?」

 武田と話を合わせつつ、赤松は考える。

 ——警視庁から通達もなく派遣された切れ者……厄介だな……。

 ——彼は僕達をどうするつもりだ……?

 ——さっきの言葉を信じるなら、いきなり上に報告されて処分されるなんて事はないだろうが……。

 目の前にいる初老の刑事は、赤松の内心を知ってか知らずか、その事について触れるつもりはないようだ。彼自身の判断なのか、そういう指示が出ているのかは分からないが、武田は今のところ怪恨のみにしか関心がないらしい。

 武田は赤松の手から端末を取り戻すと、何かしらの操作を行いながら、「まだ確信があるだけだが」と自信があるのかないのかどっちつかずの表現で切り出した。「怪恨を殺す力を持った奴はいる。一人なのか複数いるのかも分からねえが、ダーマーの野郎と黄昏の骸はそいつが倒したんだ」

「……? その動画に映っていた青年を殺したのは君じゃないのか?」

「俺はとどめを刺しただけだ。元々放っといても勝手に死ぬくらいにはボコボコにされてたからな。黄昏の骸については、そいつがいなかったらお手上げだった。何せ本体に近づく事さえできなかったんだからよ。……お、あったあった。こいつだ」

 目的のものを見つけたらしい武田が、再びスマートフォンの画面を見せてくる。

「女の子……? 中学生くらいか?」

「おそらくはただのガキじゃねえ」と自信に満ちた声で言う武田。「このガキが昨日怪恨共をぶっ殺した張本人で間違いねえ。滅恨士(めっこんし)とかいう肩書背負って怪恨を殺しまくってるらしい。昨日は話聞く前に現実世界に戻っちまったが、とにかくこのガキを見つける事さえできれば、怪恨への対抗策は組み立てられるようになるはずだ」

 ——なるほどな……。

 段々と話が見えてきた。武田は赤松に対して『物分かりが良い』と評価を下したが、それはこちらの台詞でもある。上に報告したところで、まず信じてもらえないだろうという確信を持っていたはずの異形について、初老の刑事は『既知のもの』として話していた。つまりは怪恨とはまた別の異形が世の中には存在していて、武田を含む警視庁の人間達はそれらの対策を講じるのに慣れている。

 そこから導き出される答えなど容易に想像できてしまう。

「今すぐ対怪恨を想定した対策チームを作るべきだ。警視庁からも可能な限りのバックアップを——」

「お断りだ」

「……ああ?」

 ノータイムで武田からの提案を突っぱねた瞬間、赤松に鬼のような形相が向けられる。

「今、何つった……? 俺の聞き間違いじゃなければ、『警察官としての役割を放棄します』って聞こえたんだがな……!?」

「面白い事を言うじゃないか、武田さん。異形の相手が警察の役目だなんて聞いた事がない。僕らが取り締まるのは『人間』が起こした事件だけ。法律には、化け物を逮捕する権利も殺す権利も明記されてはいない。その代わり、逮捕・殺害しても罰則はありませんがね。だから、やりたい者達だけで勝手にやってれば良い。それだけじゃないのか?」

「事件を取り締まるのが警察官の役目じゃねえ! 市民を守るのが警察官の役目だろうが!」激昂した武田が力任せに赤松の胸倉を掴み上げる。「怪恨共に好き勝手されて市民を殺される事に何の感情も抱かねえってのか!? テメエは!」

「感じないさ。むしろ、あんたの話を聞いて少しほっとしているくらいだ」赤松は無理に手を振り解こうとはしなかった。「僕らの代わりに怪恨とかいう化け物を退治してくれる正義の味方がいるんだろう? なら任せてしまえば良いじゃないか」

「その専門家共だけじゃ手が回り切らねえから市民が犠牲になってんだ! この現状を変えるには俺達警察の側から奴らにコンタクトを取るしかねえ!」

「そもそも警察が怪恨に対抗できるっていう前提が間違っているんじゃないかと思うよ。僕らは特別な力なんて持ってない。本質的には怪恨の犠牲になる一般市民と何も変わらない」

「だから見捨てても良いって言いやがるつもりか!?」

「そう熱くなるなよ、武田さん。ただの適材適所だろう?」

 ——良い歳して正義感に満ちあふれたその性格……苛つくね……。

 この年齢になるまで警察官としての理想を捨てずに持っていられるのは立派なものだ。正反対の考え方を示した赤松に対して感情を爆発させた辺りからも、武田のブレない正義感を読み取れる。

 だからこそ相容れない。広い視点を持って、広い世界において大多数の人間を守る道を選べる者などほとんどいない。

「ここにいる他の者達も僕と同じ意見だ。少数派はあんただけ。分かったら、さっさと東京に帰ってくれ」

「腰抜け共が……!」

「いくらでも罵ってもらって構わないさ。僕らは自分の命こそが一番大事な……ただの無力な人間なんだから」

 張り詰めた空気が続く。数秒か数分か。やがて、「ちッ」と舌打ちして、武田は赤松の胸倉を掴んでいた手を離した。踵を返してロッカールームの出口に向かう。

「悪いが、しばらくは金沢にいるつもりだ。テメエらが役に立たねえなら仕方ねえ。俺は俺でやらせてもらう」

「せいぜい首を突っ込み過ぎて死なないようにしてくれ。こっちの責任にされたら堪ったものではないからね」

「言ってろ、玉無し共が」

 勇敢なマイノリティがいなくなり、現場に残ったのは臆病なマジョリティだけ。赤松は大きな溜息をつくと、苦い表情で立ち尽くす警官達に向かって言う。

「気にするな。間違っているのは彼だ。僕らは正しい。だからこそ、これまで化け物に殺される事がなかったんだ」

 その言葉は他人に向けているようでいて、自分自身にも言い聞かせていた。その事に気づいてしまっているからこそ、余計に腹立たしい。赤松はズタボロになった壁を眺めながら、「……やっぱり『異物』ってのは、厄介な事この上ないね」と溢していた。


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