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 突如として怪現象に巻き込まれた遠藤が多少なりとも冷静なままでいられたのは、同じ境遇の人間達とすぐに出会えたからだった。

 改札付近の階段前では遠藤以外にも四人の男女がいた。全員が地元の人間ではなく、先ほど着いたばかりの観光客だった。もちろん日本人。海外から来たと思われる連中とも会ったが、彼らとは話も通じず、聞き取れない言葉で何かを喚きながら別の場所へと去っていった。

「とにかく、ここで弱音吐いてるだけじゃ意味がねえ。俺は駅の中を調べてくる。あんた達はどうする?」

 遠藤が訊くが、彼に同調する者はいなかった。「この場で状況が変わるのを待つ」の一点張り。ある意味仕方がないかもしれないが、この状況で他力本願な彼らに僅かながらの苛立ちを覚えた。遠藤は感情を表に出さないようにしながら、「何かあったら、ここに戻ってくる」とだけ言い残して別行動を開始した。

 切符を入れずに改札を通り抜けても止められる事はなく、そのまま素通りする。

 ——分かってる事は二つ……。

 ——一つは、この現象に巻き込まれてねえと思われる連中は俺達を認識できねえ事。

 ——もう一つは俺達がこの駅の中に閉じ込められてるって事だ。

 両端の出入口以外にも、別の場所からの脱出を試してみたが、芳しい結果は得られなかった。確信できたのは、このままでは駅から絶対に出られないという事のみ。

 ——あとはやっぱり……こいつは気のせいじゃねえな。

 ここに着いてから体を襲う倦怠感が徐々に強くなってきている気がする。意識が朦朧とする……というほどではないが、荷物を持っているのも少しキツい。それが、この状況のせいなのかどうかは現時点で分からないが、少なくとも良い事でないのは明らかだ。

 鼓門のある東口の前まで来ると、出口の向こうにある骨組みとガラス張りの天井を見上げる。すでに午後五時を回っているというのに、空は夕暮れのまま固定されているかのようだった。

 橙色。

 夕焼け空として余りにも当たり前の色。しかし、遠藤はそこに違和感を覚えてしまう。その空には暖かみがなく、どこか無機質な印象を受ける。水彩絵の具で描いたような、まばらなグラデーションではなく、ペイントソフトで均一に濃淡をつけたような——本来、自然に存在してはならないものが堂々と鎮座している不快感、と言えば良いか。

 ——おそらくはこの気持ち悪い空が見えてんのも俺達だけ……。

 ——その証拠に他の連中は見向きもしねえ。

「ちッ」と遠藤は舌を鳴らした。「こっちは真っ当に観光客しにきただけだぞ……。何が悲しくてこんな——」

 思わず独り言が洩れた時だった。

 遠方で金切り声のような絶叫が上がる。意味を持たない悲鳴に混じって、日本語ではない言語で必死に助けを求める。声の上がった方角と用いている言語から考えて、先ほど別れた外国人ではないかと当たりをつけた。

 遠藤はもはや人目を憚る様子など微塵も見せずに、竹刀袋に収納していた日本刀を取り出す。腰のベルトに備え付けていたアタッチメントに鞘を嵌め、すぐに抜刀できるように準備を整える。声のした方向へと駆けていく。人の波を文字通り擦り抜け、観光案内所の自動ドアを潜り、受付のあるカウンターを素通りして一直線に目的地に向かう。すでに外国人の悲鳴は完全に止んでおり、喧騒の中に溶けるようにバリバリと何か硬いものを潰すような音が聞こえてくる。硬質な音と共に、熟した果実を地面に叩きつけたような水っぽい音も鼓膜を震わせていた。

 案内所の奥に行くにつれて、それらははっきりと輪郭を帯び、その正体を浮かび上がらせていく。

 しゃがみ込んだ金髪の美青年の姿があった。地毛を脱色して染めた遠藤の金髪とは違う、自然な色合いの髪。整った目鼻立ちに黒縁の眼鏡を掛け、同色のジャケットを羽織り、知的なイメージを想起させる容姿をしていた。

 美青年の手には人間のものと思われる腕があった。おそらくは右腕だろう。肘から先はなく、指も親指と人差し指が足りない。断面からは新鮮な体液がボトボトと滴り落ち、強烈な鉄錆の臭いが漂う。美青年の周囲には血液と肉片のこびりついた衣服の切れ端が無数に散らばり、薄気味悪いサークル模様を形作っていた。

 この光景を見て最初に頭に浮かんだ答えを、遠藤は無意識に否定した。しかし遠藤の視界の中央で腰を下ろす美青年は、遠藤の葛藤などどこ吹く風といった様子で、「もう少し待ってください。もうすぐ——食事が終わりますので」と明確な解答を口にした。まだ生気の残る人体にかぶりつき、肉を噛みちぎり、骨を噛み砕き、咀嚼し、飲み込む。蛇に睨まれた蛙と化した遠藤に一連の動作をたっぷりと見せつけ、全ての部位を食い尽くした美青年は、口の周りに付着した血を舌で舐め取った。

「……テメエ、ただの食人鬼(クズ)じゃねえな……?」

「おや、普段相手にする食事とは少し違いますね。あなたは」

 美青年は遠藤の態度に若干の興味を示したように眼鏡の奥の目を丸くする。

 彼は色気のある笑みを浮かべ、「——怪恨(かいこん)、と言っても分からないでしょうから……こう答えましょうか」と言った。「——ジェフリー=ダーマー。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「生前、狂ったように人殺しと食人をやった歴史的犯罪者……テメエがそいつ本人だとでも言いやがるつもりか?」

「信じる信じないはあなたの勝手です。……とはいえ、この現場を見られた以上、あなたを生きて帰すつもりはありません。『黄昏(たそがれ)(むくろ)』の隔離領域が閉じる前に事を済ませてしまいましょう」

 ——カイコン? 黄昏の骸? 意味の分からねえ言葉ばかり並べ立てやがって……!

 遠藤の胸の内から沸々と怒りが込み上がってくる。この短時間でいくつもの理解の及ばない現象に晒され、挙げ句の果てには自らを歴史的犯罪者と名乗る精神異常者が現れる始末。すでに我慢の限界だった。

「……まあ、でもよ。一つだけ感謝するぜ」遠藤は腰に提げた日本刀の柄に手を伸ばす。「ちょうど思う存分怒りをぶつけても問題なさそうなクソ野郎が目の前にいるんだからなあああ!!」と勢い良く刀を抜き放った。「こっちは虫の居所が悪いんだ! ズタズタの挽き肉にしてやるよ!」

「はは。良いですね。種族こそ違えど同類ですか。抵抗しない草食動物にも飽き飽きしていたところです。ここは一つ『狩り』でも楽しむとしましょうか」

 そう言ってジェフリー=ダーマーを自称する青年は、血に塗れた右手を前にかざす。直後だった。何も分からない遠藤には空間が歪んだようにしか見えなかった。虚空から巨大な棒状の物体が出現した。巨大な電動ドリルと槍を無理矢理合体させたような武器を携え、ダーマーは遠藤に言った。「同類の肉の味……非常に興味をそそります」

「殺す!」

 先手必勝。

 遠藤は日本刀を手にダーマーへと突撃。目線だけは相手の首に向けたまま、手首の動きだけで刀を振るい、脚を狙う。ダーマーもそれに気づいていたのか、電動ドリルの槍で地面を抉るように薙ぎ、直前で斬撃を弾く。人間離れした膂力。弾かれた日本刀ごと遠藤の体が持ち上がり、体勢が大きく崩れる。だが遠藤の相貌から闘争心以外の感情が湧き出る事はない。背負っていたリュックサックを振り回し、ダーマーの顔面に叩きつける。

「ぐむッ!?」とダーマーの体躯が僅かに傾いだ瞬間、遠藤はリュックサックを手放して着地。日本刀を中段に構え直し、床を蹴る。擦れ違いざまにダーマーの脇腹を斬りつけ、すぐさま踵を軸に反転。その勢いのまま背中を袈裟斬り。続いて同じ箇所を斬り上げる。刃を伝って手に通じる確かな手応え。ワンテンポ遅れて振り向きながら反撃を仕掛けたダーマーの懐に潜り込み、左のアキレス腱を破断した。

 遠藤はそれ以上の追撃はせず後方に跳び退き、刀を振って血を落とす。

 ——やっぱりな。

 と遠藤はある種の確信を持って、傷だらけの犯罪者を見やる。

 ——見かけ倒しだ。このキチガイには普段大阪で出会う化け物共ほどの威圧感はねえ。

 ——あのガキ……霧崎鷹とかいう奴の方がよっぽど強い。

 ダーマーはただの異形。見た目に怖じけづく必要はない。あのパワーと武器にさえ気をつけていれば、こちらが一方的に削り殺せる。

 そう結論づけた遠藤は、再びダーマーの元へ飛び込んでいく。ダーマーは膝を折った状態のまま電動ドリルを構え、遠藤を迎え打つ。しかし圧倒的に機動力で勝る遠藤に追いつけるはずもなく、ダーマーの掛けていた眼鏡ごと顔の左側を斬り飛ばす。眼球が嵌め込まれたままの顔面の一部が宙を舞い、汚い地面に落下する。遠藤はそれをダーマーの自尊心ごと破壊するかのように踏み潰した。気味の悪い感触が神経を撫でるが、今の遠藤にそれを気にするほどの良心はなかった。

「……戦い慣れ、していますねッ……!」

「殺した人数だけならテメエの方が上だがな」

 体重を乗せた上段からの振り下ろしが電動ドリルの柄と激突した。ギリギリと互いの力が拮抗する。それだけで先刻までの常識外れの筋力が衰えかけている事が分かる。

「しょせん喧嘩の一つもした事がねえ一般人共だろ、テメエが殺ってきたのは」遠藤は蔑むようにダーマーを見下ろす。「こっちは、まがりなりにも『腕に自信のある奴ら』を相手に戦ってきてんだ。俺が三流だからって、侮ってもらっちゃ困るんだよ!」

 畳みかけるように何度も刃を振り下ろし、確実にダーマーの体力を消耗させていく。日本刀が多少刃こぼれしようとも構わない。切っ先の刃さえ無事ならば好機を狙って殺し切れる。

 ダーマーの顔が疲労に負けて歪み、電動ドリルの槍を持った腕から僅かに力が抜ける。遠藤はそこを逃さず、渾身の力で鈍器による一撃をぶち込む。ガードが完全に開いた。その流れのまま靴底を一直線のダーマーの相貌へと突き込んだ。鼻の骨を折る感触と共に、食人鬼の体躯が吹っ飛ばされる。

「詰みだ! くたばれ!」

 迷わずダーマーへ肉薄。先述の通り、刀の腹がナマクラになろうとも先端さえ使いものになれば問題ない。無防備となった首めがけて斬撃を繰り出す。これで決着。そう確信した。

 だが、「ぼぐえッ!?」遠藤の視界がブレた。顎に鈍痛が走る。先ほどまで、しっかりと目線はダーマーを捉えていたはず——にも関わらず、今遠藤の目の前に見えているのは電灯の光る天井だった。

 ——反撃された!? ふざけんじゃねえ! こいつの体力は削り切ったはず……!

「……ふう、ようやく肉の栄養が回ってきたようです」

「——!?」耳許で余裕に満ちたダーマーの声が響いた。まずい、と思った時には手遅れだった。とっさに声の方向に日本刀をかざしたが、横合いから放たれた超重量の打撃が遠藤の体をガードごと打ち崩す。骨が軋み、内臓が圧迫される。空中で体躯が何度も回転し、硬い床に叩きつけられる。受け身が間に合っていなければ、全身に後遺症が残るレベルの負傷を負わされていたかもしれない。

 ——武器は……まだ離してねえッ……!

 感覚が希薄になってくる右手に神経を集中し、まだ得物を持っている事を確認する。眼球だけを動かして霞む視界でダーマーの姿を視認。遠藤は思わず息を飲んだ。

 ダーマーの体は元通りになっていた。

 遠藤が必死の攻撃で刻み付けた傷の全てが、最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱり消え去っている。斬り飛ばした左の顔面すら完璧に復元され、ないものと言えば肉と一緒に飛ばした眼鏡くらいだった。

「……どう、なっていやがる……!?」遠藤は痛みに支配される四肢を無理矢理動かし、刀を杖代わりに立ち上がる。もはや戦闘継続は絶望的なほどの状況だったが、それを悟られぬよう、決死の思いで日本刀を構え直す。

 満身創痍の殺し屋とは打って変わって無傷な状態を取り戻した殺人鬼は、「あなた、私をただの殺人鬼だと思っていましたね? 最初に言ったでしょう? 私は怪恨として現代に蘇った存在だと」と言った。「喰らった肉の栄養を元に身体強化や傷の修復を行う程度、朝飯前なのですよ」

「化け、物が……!」

「ええ、そうです。単なる人間が化け物相手に良く粘りました。褒めてあげましょう。そして——おとなしく私の血肉となってください」

 爆音が炸裂した。

 ダーマーの持っていた槍型電動ドリルが起動し、先端が高速回転する凶器へと姿を変える。

 ——くそが……こんなところで……。

 日本刀を握る指の一本一本から徐々に力が抜けていく。負傷と合わせて、何かとてつもない力に当てられているかのように倦怠感が強くなっていく。

「さぞ辛いでしょう? この隔離空間の主、『黄昏の骸』は閉じ込めた人間の生命力を糧とする怪恨ですからね。特に弱った人間からは駄目押しのように吸い取っていきますから……。ああ大丈夫です。私が好むのは、そういったスピリチュアルなものではなく言葉通りの『肉』ですので。あなたの体は髪の一本も残さずに胃に納めて差し上げます」

 ダーマーの気分が高まっているのか、彼の口数が目に見えて増えていく。

 遠藤に抵抗するだけの力がない事はすでに見抜かれている。けたたましく回転する電動ドリルを手に、ダーマーがゆっくりと距離を詰めてくる。

 ——……逃げれるか? いや、少なくとも今のままじゃ無理だ。

 ——どうにかして奴の気を逸らせないか……?

 ダーマーを撃退する事は諦めた。とはいえ死ぬつもりもない。ダーマーから逃走し、どこかに潜んで時間が過ぎるのを待つ。先ほどのダーマーの言葉が事実なら、時間経過によってこの隔離された空間から脱出できるはずだ。あとは人混みに紛れて逃げるだけ。

「…………」

 ダーマーに悟られぬように横目で何かを見やる。その先にあったのは消火器だった。

 ——ナイフで容器を切って煙幕に使えるか……?

 静かに腰の後ろに手を回す。ホルダーからサブウェポンのダガーナイフを抜いた。これを投擲して消火器の中身をぶちまける。上手くいけば数秒から十数秒は稼げるだろう。

 ——可能な限り引き付けて……。

 血を吸った革靴が徐々に近づいてくる。その優雅な足取りを肉食獣のような眼光で射抜きながら好機を待つ。

 ダーマーが数十センチずつ距離を詰めてくる度、遠藤の心臓の鼓動が自覚できるほどに大きくなる。恐怖と緊張で全身の血液が冷え込む。

 しかし、まだ動く訳にはいかない。行動に移すのであれば、相手が完全に油断しきった時だ。判断力が完全に緩んだ瞬間こそが絶好のタイミング。それまでは全ての感情を押さえ付けて待ちに徹する。

 やがて遠藤の目の前に濃厚な血臭を放つ美青年が立ち止まった。

 遠藤はその刹那、全ての神経をダガーナイフを握った左手に集中する。

「——穿て! 『凍閃華(とうせんか)』!」

 だが遠藤の手からナイフが投げ放たれる事はなかった。その代わりとでも言うかのように遠藤の背後から凛とした少女の声が響き、直後に肌を刺すような冷たい風が吹き抜けた。そして、そう思ったのも束の間。今まさに遠藤を殺害せんと電動ドリルを振り上げていたダーマーの全身に、高速で飛来してきた無数の『氷の刃』が突き刺さる。「ごぼあッ!?」と何が起きたか分からないといった様子のダーマーが喀血し、その場にくずおれた。

「良く耐えましたね。ここからは私に任せてください」

 いつの間にか遠藤の傍らに一人の少女が佇んでいた。地元の学生だろうか。白地を基調とした、襟とスカートが水色のセーラー服を着用し、防寒のためかベージュのカーディガンと黒地のショート丈ダッフルコートを制服に合わせている。日本人然とした綺麗な黒髪はミディアムロングに整えられ、二つ結びのおさげに結わえられている。特徴的なのは彼女の瞳。氷のようなアイスブルーのそれは、明らかに日本人の持つものとは違う。

 おそらく高校生ではないだろう。背や体格から見ても中学生ほどにしか見えない。遠藤より一○歳前後歳の離れているであろう少女は、遠藤の方に振り向くと安心させるように優しく微笑んだ。「大丈夫ですよ。すぐに元の世界に戻れますからね」

「お前は……一体……?」

滅恨士(めっこんし)……と言っても分からないでしょう。なので霞沢葉月(かすみざわはづき)——と名乗っておきます」と少女、葉月は出合い頭のダーマーと良く似た言い回しで遠藤を煙に巻く。そうしてアイスブルーの瞳で、うずくまる食人鬼を睨みつけた。「罪もない人々の命を奪い、その肉を喰らう……到底許せる行為ではありません。滅恨士として、あなたを確実に滅します」

「ふふふ……ツイてないですね。まさか我々の専門家までいたとは……」ダーマーは軽い調子で笑うが、余裕のなさを隠し切れていないのは明らかだった。あからさまなほどに声が震えている。遠藤と対峙した時とは大違いだ。

 ——このガキが、こいつの天敵……?

 葉月はダーマーから視線は外さずに、静かに右腕を前にかざす。やはり先ほどのダーマーと同じだ。虚空から何かが練り固まるようにして、武器が現れる。電動ドリル型の槍……などという異形の武器などではなかった。もっと分かりやすいもの。柄と鍔、そしてすらりと伸びた刃で構成された得物。つまりは遠藤の扱うものと全く同じ——一振りの日本刀であった。

 だが、その容貌は遠藤の持つ量産品とは全く異なっていた。

 柄と鍔には儀礼用のような装飾が施され、刃に至っては明らかに鍛造された鉄などではない。まさに氷。光にかざせば透けてしまうほどの透明度を持った刀身は、具現化されてからずっと強烈な冷気を放っていた。

「世に徒なす怪恨よ。私の『雪舞閃(せつぶせん)』からは逃れられませんよ」少女はアイスブルーの瞳を湛えた目を細め、圧倒的な威圧感を以ってダーマーを睨みつけた。遠藤に向けた表情とは大違いだ。

「……たとえ滅恨士と言えども、私の食事の邪魔はさせませんよ。私は彼を食べたいのです。同じ殺人鬼の肉を!」

 ダーマーは勢い良く立ち上がり、自らに刺さった氷の刃を強引に引き抜いていく。怪我の度合いの割に出血は少ない方ではあるが、それでも明らかに『治り』が遅い。遠藤がつけた傷はすでに完璧に塞がっているのに、だ。

「ふふ……やはり滅恨術(めっこんじゅつ)を伴った攻撃は厄介ですね……! 全く再生が追いつかない……」

「このまま治す暇も与えずに滅してあげますよ!」葉月が手にした刀を横に振ると、それを合図にしたかのように先ほどと同じ氷の刃が出現する。「穿て! 凍閃華!」と同時に無数の刃がダーマーへと射出された。

「二度も同じ技が通用するとは——」ダーマーが電動ドリルの槍を構え、「——思わないでほしいですねえッ!」と目にも留まらぬ速さで振り回す。爆速で回転するドリルは襲来した凶器の全てを削り落とし、迎撃する。

 とはいえ葉月も防がれるのは折り込み済みだったようで、顔色一つ変えずに床を蹴り抜いてダーマーに接近する。彼女自身が『雪舞閃』と呼んだ日本刀を用いて攻撃を仕掛ける。ガード直後の体制が崩れた瞬間を突き、左肩から裂く袈裟斬り。冷気を纏った刀身が異形の体躯を引き裂き、そこを基点にさらに畳み掛けていく。その動きはまるで舞踊。流れるように振るわれる刃が間髪入れずにダーマーの皮膚を服ごと斬り裂いていく。遠藤の実戦のみを想定した喧嘩殺法とは正反対の剣術だった。

「——ッ!!」連撃の中で葉月が動く。刀を持たない方の手を上に掲げると、ダーマーの頭上に氷の柱が精製される。その数およそ八本。「——廻れ! 『凍獄樹(とうごくじゅ)』!」と葉月が掲げた腕を振り下ろす。瞬間、一斉に柱が降り注ぎ、ダーマーの周囲を囲い込むように突き刺さった。

 葉月は躊躇しなかった。

 氷の柱がダーマーの動きを阻害したと同時に、両手持ちした刀での横薙ぎを叩き込む。破砕音。氷の監獄ごとダーマーの筋繊維が引きちぎられ、「ぐああああああッ!!!」と絶叫が迸る。さらに、そのうるさい声を黙らせるために放ったかのような氷の刃が追撃していく。

 全身に治らない傷を刻みつけられたダーマーは荒い息を吐きながら、倒れないように決死の表情で痛みを堪えていた。

 ——圧倒的……。

 ——奴があの状態から回復できねえなら、もう霞沢とかいうガキの勝ちだ。

 勝敗は決したと確信する。葉月という少女の正体は謎だが、こちらに危害を加える意思がないのであれば気にする必要はない。目下、最大の脅威であるジェフリー=ダーマーさえいなくなってしまえば問題ない。

 葉月の方も次に取る行動は決めているようだ。アイスブルーの鋭い眼光は、ダーマーを自称する食人鬼を見逃すつもりが一ミリもない事を示していた。

「終わりです。あなたは人を害し過ぎました。後悔しても、もう遅いですよ」

「ふふ、果たしてそうでしょうか……?」

「はったりです。滅します! 怪恨!」

 葉月が日本刀をダーマーの脳天にかざす。彼女が刀を振りかぶると、それを待っていたとでも言うかのようにダーマーが歪に口角を吊り上げた。

 ダーマーは遠藤と葉月の死角となっていた場所——受付カウンターの陰から何かを引っ張り出した。それは胴体に頭部と四肢を繋げた生物、要するに気絶した状態の人間だった。葉月よりは歳上と思われる若い女性を盾にするように掲げるダーマー。当然、遠藤のようなクズさえ助けようと異形に立ち塞がる気概を持った少女は思わず刀を振り下ろすのを躊躇してしまう。

「馬鹿野郎! 止まるんじゃねえ!」と遠藤が怒号を飛ばすが、意味を為さなかった。一瞬の隙を突いてダーマーが反撃に転じる。肉の盾の隙間から爆音を鳴らす電動ドリルの刺突が放たれる。

 一手出遅れた葉月にカウンターという選択肢は取れなかった。ギリギリで間に合ったガードの上から、化け物の膂力で繰り出された一撃が襲う。ドゴアッ!!! というとんでもない爆音が炸裂した。葉月の華奢な体躯が宙を滅茶苦茶に舞い、背中から壁に打ち付けられた。目を見開き、血を吐き出す。

 ダーマーは盾にした女性を適当に放り捨てる。殺さない辺り、すでに他の人間に対する興味は失せているらしい。それを幸と取るべきか、不幸と取るべきかは分からなかった。あの女性がダーマーの凶刃の対象外ならば、次に矛先が向けられるのは間違いなく遠藤達だからだ。

「さて……邪魔が入りましたが、これは思わぬ収穫ですね」とダーマーが嬉しそうに言った。倒れた葉月と遠藤を交互に見やり、「楽しみが二つに増えたのですから」と血塗られた歯を剥き出しにして笑う。「先に滅恨士の少女の方をいただくとしましょうか。……あなたを喰らっている時に回復されても困りますからね」

 ダーマーが俯せに倒れ伏した葉月に近づいていく。

 遠藤の内に焦りが走る。

 ——駄目だ! あのガキが殺られれば、こっちの打つ手がなくなっちまう!

 先刻の攻防を見ただけでも分かる。この場でジェフリー=ダーマーに致命傷を与えられるのは葉月という少女だけ。一般人を盾に取られて敗北したが、間違いなく実力は葉月の方が上だ。

「……くそッたれ。やるしかねえか」遠藤は刃こぼれだらけの日本刀を再び握り締めた。

 全身の痛みは多少マシになっていた。万全とは言い難いが贅沢は言っていられない。ここで動かなければ、その先に待っているのは確実な死だ。

 ——あのガキが回復するまで、俺が時間を稼ぐ!

 決意すると同時、遠藤は地面を蹴り抜いた。今にも引きちぎれそうな筋繊維に鞭を打ち、わざとダーマーに察知されるように大振りの一撃を繰り出す。

 すぐにダーマーも迫ってくる遠藤の存在に気づいた。「まだ動けましたか!」と爆速回転する電動ドリルを向ける。

「うおらあッ!!!」と吠えながら日本刀を振り下ろしていく遠藤。しかし全ての動きは陽動に過ぎない。遠藤が見据えているもの。今最も重用視すべきもの。それは——

「——ほう!?」ダーマーが驚きに目を見開く。殺し屋を迎撃するために放った振り回しは呆気なく躱され、脇を擦り抜けられる。

 遠藤は全速力で葉月の元へと飛び込み、お姫様抱っこの要領で華奢な体を抱え上げる。そして迷いなく逃走を開始する。人混みに紛れ、一気に距離を離していく。盾にされた女性が気掛かりと言えば気掛かりだったが、そこまで救う余裕も義理もない。せいぜい運良く生き残ってくれと内心で呟いた。

 ——こいつを助け出すのは上手くいったが……ここからどうする?

 ——少しの間、身を隠せる場所でもあれば……。

「……ごめんなさい。私を助けてくれた人……」腕の中の少女が力のない声で遠藤に呼びかけた。

 遠藤は葉月の方を見やる事もせず、「悪いが、義理だけで助けたと思うなよ」と釘を刺した。「お前に死なれたら、こっちも困るんだ。怪我してようが何だろうが馬車馬のごとく働いてもらうぜ」

「大丈夫、です……。怪恨を滅するのは……私達の、役目……ですので……」

「ここを切り抜けたら、きっちり話してもらうぜ。お前の事や、あの食人鬼の事。こっちは観光に来ただけなのに何度も死にかけてんだ」

「……そうですね。ここまで見られてしまえば……もう隠し通せません、しね……」

「ダーマーとは俺がやる。お前はその武器でも、さっき使ってた能力でも良い。とにかく確実に殺せるって場面で奴に奇襲を仕掛けろ。手負いの俺達が奴を殺るには、もうこれしか方法はねえ」

「……それなら……お願いが、あります……」

 葉月はそっと遠藤に耳打ちする。遠藤はそれを聞くと、ニヤリと笑った。

「面白え。やってやろうじゃねえか。お前も失敗すんじゃねえぞ」


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