1-4
1
遠藤が動く。
身を低くし、鞘には収めてないが居合い抜きの要領で刀を構えて突進していく。
——ほらよ。あからさまな的だ。狙ってこいよ!
池の縁の土を蹴り上げ、そのまま裏切り者の滅恨士めがけて攻撃を仕掛ける。
——伊庭さんよお!
すぐさま四つ足の怪恨を従える伊庭が迎撃に動いた。泰牙を守るように下級怪恨の群れが飛び出てくる。予想通りの行動に遠藤は獰猛な笑みを浮かべて、そのまま怪恨を斬り払う。
「へッ、学習しねえ奴だな!」
遠藤が体を捻ると同時、後方から連続した銃声が木霊した。四十沢の放った援護射撃が防御の手薄になった伊庭を襲う。
しかし、すかさず泰牙のフォローが入る。目にも留まらぬ速さで善討槍を振るい、ボディアーマーを貫く威力を有した銃弾を一発残らず弾き飛ばした。
「ちッ!」
その余波を受けて体勢を崩され、遠藤の体が背中から水面に叩きつけられる。水を切り裂いた感覚はなく、コンクリートの地面に激突したような衝撃が神経を圧迫する。
——痛ってえ……! って事はこいつらが水の上に立ってんのは自前の滅恨術の効果じゃねえのか……!
鈍い痛みに支配される関節を強引に稼働させ、目前まで迫っていた伊庭の大鉈による一撃を受け止めた。
「——廻れ、『凍獄樹』!」
ドガガガッ! と伊庭の上空から現出し降り注いだ氷の柱が非正規滅恨士を取り囲む。葉月の滅恨術によって一瞬の隙を得た遠藤は、全速力で逃走して距離を離す。
「くそッたれ。最初の不意打ちで決められれば良かったんだけどな」
「伊庭が防御に徹するのならば短期決戦は望めないだろう」と四十沢が言う。「どうにかして奴らを分断したいところだ」
「呑気に作戦会議してる暇なんか与える訳ないだろうが!」泰牙が突っ込んでくる。もはや実力を出し惜しみするつもりもないらしい。彼のアメジスト色の右目に光が灯る。
「やべえ! 来るぞ!」
「——喰らえ! 『万象壊侵夜』!」
闇で創造された槍の雨が一気呵成にこちらへ雪崩れ込んだ。この技の威力を身をもって経験している遠藤(おそらくは四十沢も)は、日本刀による防御を脊髄反射的に諦め、回避行動に移る。
僅かな隙間に身を捻じ込むようにして安全地帯に退避し、一撃必殺の威力を内包するエネルギーの槍をやり過ごす。
さらに中距離からの攻撃手段を持つ四十沢は、驚異的な照準精度をもってしてカウンターを敢行。散発的な銃声が響き、「ぐッ!」という短い呻きが聞こえた。
——チャンスだ!
地面に突き刺さった不定形のエネルギー体はまだ消えていない。つまりは敵対する者同士、互いに姿を視認できなくなっている。だが今の四十沢の反撃によって泰牙は自らの居場所を露呈したに等しい。彼の発した苦鳴から、ある程度の方向と距離の見当はつく。
遠藤はそびえ立つ障害物を盾に、泰牙がいると予想される地点に回り込む。予測は的中。左肩を押さえ、苦痛に顔を歪める泰牙と彼を守るように周囲を警戒する伊庭と下級怪恨が確認できた。
これでもまだ多対一。不利極まりない状況だ。
だが遠藤は迷わず突っ込んだ。
——問題ねえ。
——こういう場合にどう動けば良いか……ちゃんと教えたはずだからなあ!
奇襲を仕掛ける遠藤に気づいた伊庭が下級怪恨を動かそうとした瞬間、「——穿て! 『凍閃華』!」という滅恨術発動の号令が轟いた。飛来してきた氷の刃が身動き一つ許さず四つ脚の怪恨を殲滅する。
「ちッ……本家のガキかっ!」と伊庭が苛立ちを露わにする。
両サイドから遠藤と葉月が仕掛ける。今の伊庭に防御の手は足りない。どちらかの攻撃は喰らうしかない。
——テメエ一人が落ちるだけでもかなり楽になる。
——だからおとなしく斬られやがれ!
横一文字に一閃するように刀を振りかぶる。反対からは必殺の威力を有した雪舞閃が迫る。
伊庭は歯を食いしばると遠藤に背を向けた。より威力の高い方を迎撃する構え。つまり——
——葉月の攻撃を凌いで泰牙の野郎を生かすのを選んだか。
ならば容赦はしない。ここで確実に息の根を止める。日本刀が空中に描く銀の軌跡が凄まじい勢いで非正規滅恨士へと突き進んでいく。
「しまいだッ——ぐぎッ!?」
白刃が男の胴体を破断したと思ったその時、遠藤の手首を尋常でない衝撃が駆け抜けた。勢いをつけ過ぎた分、その反動は相当なものだ。コンクリートに人体を思い切り叩きつけたかのような鈍痛が神経を支配する。
刀は伊庭に届いていない。まるで見えない壁に——いや、実際に見えない壁なのだろう。おそらくは防御術式のようなもの。それに遠藤の斬撃はあっさりと防がれてしまったのだ。
——非正規の連中はまともな術が使えねえって話のはず……!
——なら俺の刀を止めやがったのは……!
挟み撃ちが失敗した事に少なからず葉月も動揺したのだろう。攻撃の鋭さが鈍った。そこを突いた伊庭は大鉈を逆袈裟に振り抜き、雪舞閃を弾き飛ばす。
「野郎!」腰に仕込んだホルダーからダガーナイフを引き抜く。しかし投擲する暇もなく下級怪恨が再び投入される。
さらに体勢を立て直した泰牙も反撃に移行する。圧倒的なプレッシャーが津波のように押し寄せ、それだけで意識を刈り取られそうになる。
「葉月!」
「分かっています!」
滅恨士の少女は辺り一面に氷の壁を生やし、味方と敵勢力を分断した。とはいえ今の泰牙にとってこの程度の盾など紙切れに等しいだろう。
稼げる時間は一瞬。
それを理解しているからこそ、遠藤と葉月は一寸の迷いもなく距離を離すという判断を下した。
素早く四十沢のいる地点まで引き返し、遠藤は武器をグロック17に持ち替える。葉月も雪舞閃を指揮棒のように構えてすぐに遠距離攻撃術式を放てるように備えている。
「ッ! 来やがったぞ!」遠藤が吠える。
連続した轟音と共に氷の壁に無数の亀裂が入った。僅かな皹の隙間から漆黒のエネルギーが滲み出し、それが壁を引き裂くようにしてバリケードが崩壊した。
突破してきた者の姿を視認する前に、遠藤達は示し合わせたように攻撃を開始した。拳銃の引き金を連続して引く。滅恨士の少女も指揮棒を振り、無数の氷の刃を射出した。
しかし。
「何だ……!? 手応えが……!?」
「上だ!」すぐ隣にいるにも関わらず、四十沢が鼓膜をつんざくような声で警告した。
それに釣られて視線を上に移す。思わず目を見開いた。
バリケード破壊という派手な現象に注意を引かれて気がつけなかったのだろう。大きく跳躍した下級怪恨達が視界の外から奇襲を仕掛けてくるところだった。
——俺達がバリケードを壊した泰牙を攻撃するのを見越して奴らをけしかけてやがったのか!?
すでにグロック17の弾倉は空になっている。次弾を装填する余裕もない。四十沢の方は弾切れしたMP7を投げ捨て、サブウェポンのグロック18を構えていた。
「葉月! 俺と四十沢で下級怪恨を捌く! お前は泰牙と伊庭の攻撃に備えろ!」
「わ、分かりました!」
「頼んだぜ!」
急降下してくる下級怪恨へ視線をやりながら、遠藤は右手だけで日本刀を持ち、左手でダガーナイフを引き抜いた。
直後に隣でマズルフラッシュが瞬く。四十沢のフルオート射撃が降り注ぐ下級怪恨の群れを薙ぎ払っていく。一瞬にして撃ち尽くされた弾丸によって半分近くの怪恨が光の粒子と化した。
攻撃手段のなくなった四十沢が後退すると、代わりに遠藤が前に出た。
「うおらああああッ!!」
日本刀とダガーナイフをジャグリングのごとく振り回し、後続を八つ裂きにしていく。だが全てを迎撃できた訳ではない。間一髪で生き残った四つ足の化け物達が陣形の中へ割り込んできてしまう。
おそらくはこの瞬間を狙っていたのだろう。横合いから二人の敵性滅恨士が飛び出してきた。先ほどの意趣返しのつもりか、ご丁寧に遠藤を挟撃する形だ。
「——廻れ、『凍獄樹』!」
とはいえ先手は打っていた。ノータイムで葉月が術を発動し、伊庭の周囲を氷の柱が埋め尽くす。
「——広がれ、『氷散煙』」
さらに術を行使する。葉月を中心として何もない空間から濃霧が溢れ出した。根本が冷気の塊なのか、上着を突き抜けて凄まじい冷たさが突き刺さる。
——逃げるなら今しかねえ……だが……。
葉月が冷気の煙幕を撒いたおかげで泰牙の目を晦ます事はできたが、視界が塞がれているのはこちらも同じ。下手に動けば味方と分断される恐れがある。
逡巡している間に、「……こっちです!」と耳許で囁かれ、ぐいっと手を引かれた。霧で覆われていはいても、これだけ近くにいれば顔の判別はできる。葉月の切羽詰まった表情が見て取れた。
遠藤は葉月に促されるまま霧の中を進む。
「すまん、助かった」
「一度仕切り直しましょう。……泰牙さんとあの非正規滅恨士の関係……私達の見立てとは少し違うようですから……」
「みてえだな」
遠藤は先ほどの出来事を脳内で反芻する。伊庭を狙った斬撃を止められた時の事を。
——防御したのは間違いなく泰牙の奴だ。
——俺らを釣り出すっつう狙いがあったんだとしても、泰牙は無防備な自分より伊庭を守る事を優先した訳だ。
今、この戦いにおいて伊庭が直接的な戦力になっている訳ではない。実際、撹乱以上の役割は果たせていない。
逆に言えば、圧倒的な力を有する泰牙がそれでもなお切り捨てたくないと考えている駒だという事だ。
——伊庭は泰牙にとって単なる兵隊って訳じゃねえ。
——俺達の知らない何かがある。
——願わくば、そこが突破口になってくれりゃあ良いんだが……。
2
一方的な虐殺。
それは異形から人間へ下されるものであり、矢印が反転する事などありえなかった。
だが、それは人間側の思い込みが招いていた結果だったのかもしれない。
「がああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!」獣のような雄叫びを上げながらダーマーが回転ドリルの槍を振り回す。その動きは敵意を持った攻撃動作ではなく、ただ恐怖に怯える弱者が平静を失っているだけに等しかった。「来るな! 無力な人間共が! 私を愚弄するなあ!」
そして、そんな駄々を捏ねるだけの子供のような存在など、警察官からすれば恐れる対象にはならない。
ダーマーを包囲した石川県警の警官達が一斉に発砲した。怪恨の驚異的な身体能力を持ってすれば一人の銃撃程度なら余裕で対応できたかもしれない。だが、警察側は一回の攻撃に参加する面子だけでも一〇人以上はいる。当然、人の形を模した怪恨が三六〇度全方位を警戒するなど不可能。美青年の肢体には鼠算式に弾痕が増えていく。
「ぐはあッ!」
「まだ声出す余裕があるか」
距離を詰めるのを厭わない武田が踏み込む。もはや何度目になるか分からないショットガンによるゼロ距離射撃を叩き込んだ。ダーマーの腹部の肉がズタズタに引き裂かれ、赤黒い血液と一緒に中身の方も飛び出した。
ダーマーは後方に吹っ飛びながらもすんでのところで踏みとどまり、槍を杖代わりに立ち続ける。
「くそッたれ。これでも倒れねえか」武田は毒づくが、顔に焦りは見られない。
「今のところ敵は消耗しているようには見えるが……僕らの銃撃は本当に効いているのか?」
赤松の質問に対し、「見りゃ分かんだろ」と武田は吐き捨てた。「実体を持つ異形相手に銃弾が効かなかった事なんざ一度もねえ。どんなに通りが悪かろうと、死ぬまで叩きこみゃ死ぬんだよ」
散弾銃に次の弾を装填しつつ——
「人間って奴らは自分を過小評価し過ぎなんだ。銃は人間が命を奪うために本気で研究し尽くした殺意の集大成だ。数で囲んで袋叩きにするだけで、化け物とだって対等に戦える」
「その結論に辿り着くまでに一体どれだけの化け物と戦ったのか知りたいね……」
「一〇〇匹手にかけりゃ嫌でも思い知る」
「一匹だって遠慮したいよ、本来ならね」
「ごちゃ、ごちゃと……お喋りとは余裕ですね……!」怨嗟の感情を滲ませながら、再びダーマーが動き出す。服も皮膚もズタズタに引き裂かれたその姿はさながらゾンビのようだった。しかし食人鬼の眼光には意思ある者にしか宿らない鋭さがある。
「余裕なのはテメエの方だろが」と武田もダーマーを睨みつける。「何で怪恨としての能力を使わねえんだ?」
「怪恨の能力……?」赤松は眉をひそめた。
「こいつの厄介さはフィジカルと異常性だけじゃねえ。人間の肉を傷の回復と身体能力の強化に使える点にある。遠藤の兄ちゃんや葉月ちゃんはそれに苦戦させられた訳だからな」
「くくっ……何を言い出すかと思えば……」ダーマーが肉の爛れた口角を持ち上げて不気味に笑った。「私の本来の力など使うまでもないのですよ……あなた方のような脆弱な存在……素の筋力だけで十分で」
「嘘だな」
断言するような口調だった。武田は相手を挑発するように自身のこめかみを人差し指で突いた。
「俺は全部見てたんだぜ。だから全部覚えてる。テメエが遠藤の兄ちゃんに追い詰められた時、すぐに能力を発動しやがったのをな」
「……ッ!」
「テメエにそんな御大層な信念はねえ。相手が誰であろうと追い詰められれば簡単に本性を曝け出す。殺人鬼らしいプライドもへったくれもねえクズ。それがテメエっつう犯罪者の正体だ」
警官達とダーマーの間にはそれなりの距離がある。しかし、それでもなおダーマーが奥歯を軋ませる音がはっきりと聞こえてくるほどだ。
「これで分かった。テメエは能力を使わないんじゃねえ。——使えねえんだ」
「使えない? こいつはあんた達が戦った事のある怪恨なんだろう?」
「さっき、このクソ野郎に奇襲した非正規滅恨士の連中を見たか? あいつら全員分かりやすい位置に『噛みつかれたような跡』があった。そんで今じゃもう俺らが流させた血で分からなくなってるが、こいつの口許は血で濡れていやがったんだ」
「……つまり、僕らが来る前に怪恨は人間の肉を食べていたと?」
「そういう事だ。三人分の肉を接種したにも関わらず、こいつの筋肉は肥大しねえし、滅恨術以外の攻撃でもガンガン消耗していく。……簡単な挑発に乗ってくれて助かったぜ。労せずこいつが劣化してるのを確信できた訳だからな」
ジェフリー=ダーマーは自らを『残留思念』だと言った。この場に残った想いが『終末の回廊』によって肉づけされたものであると。
ダーマーをこの世界に繋ぎ止めたものは、自身の尊厳をへし折った武田への恨みだ。それが今の食人鬼を構成する主なエッセンス。だからこそ、元々彼自身の異常性を表していた能力が消え去った。人間を食べたいという欲望よりも、自らを陥れた人間を葬りたいという欲望が勝った。超常現象に超常現象を重ね塗りした突飛な推測だが、おそらく間違ってはいないだろうと武田は結論づけた。
「さて、と」武田は追い詰めた犯罪者を見る目で眼前の異形を見やった。「そろそろ退場してもらうぜ。こっちはテメエ以外にも相手しないといけねえ奴がわんさかいるからな」
「……そうですか」
ダーマーが歯軋りをやめた。糸の切れた人形のように手足をだらりと伸ばした。
「良いでしょう。認めてあげましょう。私がミルウォーキーの食人鬼としての矜恃を捨て、個人的な復讐に取り憑かれた化け物に成り下がってしまったと……」
自身の内心を余すところなく暴き出され、心が折れて抵抗の意思を失った——側から見ればそのように映ったかもしれない。
だが、「——ならば」とダーマーの声色に一瞬にして力が篭った。「私は怪恨の風上にも置けない出来損ないとして! 私をコケにした警察共を一人残らず八つ裂きにしてやるまでですッ!!」
ドパッ!!! と。
空気が撹乱され、衝撃波が発生すると同時にダーマーの姿が消えた。
武田、赤松及び数人の勘の良い警官達が横っ飛びで回避挙動に移ったが、ほとんどの人間が出遅れた。食人鬼は凄まじいスピードで突撃し、電動ドリルの槍を乱暴に振り抜いた。
直後、ダーマーの包囲網が一気に崩される。半分以上の警官が轟音と一緒に宙を舞った。
「あいつ! まだこんな力を残していたか!」赤松が面食らった様子で叫ぶ。
「ペースを乱されんな。ただの悪足掻きだ」
石川県警の者達全員がダーマーから距離を離そうとする中、たった一人——武田だけが前に出ていた。
M500散弾銃をぶっ放しながらヤケになった食人鬼へと肉薄していく。
ダーマーの肉体がさらに弾け飛び、その様相はもはや動く惨殺死体となる。
——微塵も動じねえか。
もうダーマーは止まらなかった。何かしらの能力を使っているのか、無意識的に痛覚を遮断したのかは定かではないが、電動ドリルの槍の先端はしっかりと武田の左胸を狙っていた。
「武田さん!」
赤松が叫ぶが、武田の方も止まらなかった。
M500を至近距離で放ち、電動ドリルを迎撃する。ダーマーの得物とそれを携えていた右腕が木端微塵に爆散し、人型の怪恨が僅かにのけぞった。
「おるあああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!」
そこを好機と捉えたのか、武田はM500を棍棒のように持ち替え、ダーマーを滅多打ちにしていく。銃身が凹み、ひしゃげていくが微塵も気にした様子はない。
——ここで仕留めさせてもらうぜ!
ドグシャアッ!!! という鈍い音が炸裂した。フルスイングされた鈍器がダーマーの側頭部を砕き割り、耐久力の限界を超えた銃身が真っ二つにへし折れた。
武田は壊れたM500に一切執着せず、鉄屑と化したそれを乱暴に放り投げた。両の拳を握り込み、さらに突っ込んでインファイトに持ち込む。
「あぼあがああッ!」ダーマーがぐちゃぐちゃになった口から断末魔にも似た雄叫びを放つ。こちらも残った左腕の拳を握り、武田を屠らんと接近戦に応じてくる。
——一発でも良いのをもらったら仕舞いだ……!
肉、骨、内蔵全てを一撃で粉砕するほどの威力を有した突きを頭を振って紙一重で躱す。耳許で銃弾のような擦過音が通り過ぎ、背中に冷たい感覚が走る。
湧き上がってくるあらゆる恐怖心を理性で押さえ込み、武田は左足を踏み込むと共に全体重を乗せたアッパーを放った。岩のような拳がダーマーの下顎を正確に捉えた。
痛む拳を引き、今度は反対の拳で鳩尾を殴りつける。
手応えはあった。だが——
「くそッたれ!」武田は切羽詰まった表情で毒づいた。
やはりダーマーは殴打程度の痛みなど気にかけず、至近距離で武田を殺害しにかかる。高速で流れていく視界の中、かろうじて視認できたのは握り拳ではなく手刀。不味いと思った時にはすでに遅かった。とっさに身を捩ったが、怪恨の刃のような指が武田の右脇腹を突き刺した。
「がッ——はあッ!?」
刺された箇所を起点として言葉にできないほどの激痛が神経を駆け抜ける。込み上がってきた吐き気を抑え切れずに喀血する。
赤松達が、「早く下がれ!」とまくし立てているのが聞こえた。
——駄目だ……! まだ……! まだ崩し切れてねえ……!
武田は歯を砕き割る勢いで噛み締めた。未だ自身の体を貫いたままの腕を両手で掴み取った。
「悪いが、一回死んだ犯罪者を裁く法律はねえんだ」
そして無理矢理ダーマーの腕を引き抜くと同時に体を反転させ、腕力だけで怪恨の体軀を持ち上げた。
「ッ! 貴様……!」
「だから——」
ダーマーが宙を舞ったのも一瞬。
「——もういっぺんあの世へ行ってきやがれ!」
技術も何もない不格好な背負い投げによって、食人鬼は背中から床へと叩きつけられた。
「ごっ……!?」
ダメージが入っているのかどうかは分からない。だが武田は確信した。——勝った、と。
武田が体を転がせてダーマーから距離を取ったのと、再び包囲網を完成させた石川県警の警官達がニューナンブを構えたのは同時だった。
武田も懐から自らの回転式拳銃を抜き放ち、震える腕で照準を定める。多少狙いがズレたところで関係ない。三メートル程度の距離で外すほど老眼は進んでいない。
「ぶっ放せ! 腰抜け共!!!」武田の怒声が合図となった。
武田、赤松、包囲網を形成する警官達——さらには先ほどダーマーに薙ぎ倒された者達も最後の力を振り絞って回転式拳銃の引き金を引いていた。
花火を打ち上げた時のような轟音が辺り一面を埋め尽くした。絶え間なく発射され続ける銃弾が怪恨の四肢、胴体、頭部を食いちぎっていく。誰も攻撃の手を緩めるような下手は打たない。弾倉が空になると同時に再装填し、照準してトリガーを引きまくる。全員が手持ちの弾がなくなるまで撃鉄を起こし続けた。
やがて武田が最後の一発を撃ち終え、金沢駅に静寂が戻る。
「……やった、のか?」赤松が半信半疑といった声色でダーマーがいた方向を見やった。
武田はおもむろに拳銃を下ろし、「ああ」と肯定した。
先刻まで絶対的な力を持った異形がいた場所には、形あるものは何一つ残されていなかった。ただ宝石のように煌めく光の粒子が舞っているだけ。それこそが怪恨に打ち勝った証であると知っているのは武田だけだった。
だから、この場で唯一それを理解している男は大きく息を吐き出してこう告げた。
「人間の力だけで異形をぶっ倒した。俺達の……いや、お前達の勝ちだ」
もはや一切の殺傷力を持たなくなった回転式拳銃を地面に置き、穴の開いた脇腹を押さえつける。鋭利な刃物ではなく人間型の指で貫かれた皮膚は歪な傷口が形作られていた。そのためだろうか、グロテスクな怪我の跡からは思ったほど血は出ていない。適切に処置すれば命に関わるような事はないはずだ。
「ちッ、このザマじゃあ他の連中の加勢には行けねえな……」
「武田さんの仲間は滅恨士って奴なんだろう?」すでに脱力し切った様子の赤松は苦笑混じりに言った。「それも特別強い部類のって話じゃないか。心配する必要はないんじゃないか?」
「まだ勘違いしてやがるみてえだが」釘を刺すように高圧的な声色で前置きする。一拍空けて一つの真実を口にする。「テメエらが雲の上の存在だと思ってる奴は、まだ中坊のガキだ。本来なら俺達大人が守って、そんで導いてやらねえといけねえ存在なんだよ」
それは数日前に遠藤にも言った事だった。
特別な力を持っていても、まだまだ未熟な子供。ほんの些細なきっかけで、どんな方向にも転び、どんな色にも染まってしまう。
「おそらくは、あいつみてえにな」
「あいつ?」
「黒幕だ。金沢をこんな状況にした張本人」
潮野泰牙という滅恨士がいかにしてこのような暴挙に出たのかは、部外者である武田には知る由もない。しかし葉月ほどではないにしろ、まだ大人になり切れていない彼を狂気に駆り立てるに至った原因——その具体的な内容ではなく、その悲惨さを想像する事ならできる。
「きっと誰かが止められたはずなんだよ」
「…………」
「泰牙の兄ちゃんに寄り添ってやれる大人がいりゃあ、あいつも道を踏み外す事はなかったんだ」
「……本当にそう言えるのかい? 性善説を否定する訳じゃあないが、こんな事を平気でできる人間が『叩けば直る感性』を持ち合わせてるとは思えないけどね」
「テメエにもいつか分かる時がくる」半ば確信したような口ぶりだった。「赤松、テメエはそういう世界に足を踏み入れた訳だからな」
「……肝に命じておくよ」
脱力を通り越してその場に倒れ伏した赤松その他県警の面子を横目に、今この瞬間も戦っているだろう者達の顔を思い浮かべた。
——つう訳だ。葉月ちゃんを頼んだぜ、遠藤の兄ちゃんよ。
——ま、俺からすればあの殺し屋もまだまだガキだがな。
3
原色のマーブル模様と化した金沢の空から降り積もる雪の勢いが強くなっていく。
もはや降るというよりも吹き荒ぶと言った方がふさわしいほどに激しさを増した天候によって、視界の明瞭さは失われ、四肢の感覚は薄くなっていく。葉月の目眩し用の術さえ必要ないほどだ。
「……て訳だ。憶測でしかねえが、やる価値はあると思う」
ダウンジャケットのファスナーを首許まで上げながら遠藤が言った。
無人となった小さな土産物店の陰で身を隠していた遠藤、四十沢、葉月の三人は、この僅かなインターバルの間で作戦会議をしていた。
空の弾倉に鉛玉を詰め込みながら話を聞いていた四十沢は、「賛成だ」と頷いた。「俺達と彼らで勝利条件が根本的に違うこの状況では、この望みに懸けるしかないだろう」
こちらが勝つためには泰牙と伊庭を倒し、邪魔者がいなくなった状態で『終末の回廊』を滅する必要がある。しかし泰牙達は必ずしもこちらを全滅させる必要はない。事態が膠着すればそれだけ街の被害は広がっていき、自らは何をせずとも目的を達成できてしまう。
「奴らは俺らがこうしてる今も、同じ場所でほくそ笑んでやがるはずだ。うだうだ迷ってる暇はねえ。どうする葉月」
「……私も遠藤さんの案に賛成します。手段は選んでいられません」葉月は少しばかり逡巡したが、それでもこれ以上の方法はないと結論づけたのだろう。首を小さく縦に振った。「動きましょう。時間は待ってくれません」
「よし、そう来なくちゃな」遠藤はニヤリと小悪党のような笑みを浮かべると日本刀を杖代わりに立ち上がった。
「実行は俺に任せてもらおう」再装填用の弾倉を作り終わった四十沢も腰を上げる。
「お願いします、四十沢さん」
遠藤が建物の陰から様子を窺い、誰もいないのを確認する。とはいえ明確に物を捉えられている訳ではない。兼六園の景色はもはや常人の目では、ぼやけたシルエットでしか視認できなくなっている。人一人くらいなら紛れ込んでいても分からないかもしれない。
それでも行くしかない。ここで動かなければ負けるのは遠藤達なのだ。
「行くぞ!」
遠藤、葉月の両名が飛び出す。お互いの姿が分かる程度の距離を保ちつつ、泰牙達がいる霞が池へと突き進んでいく。
「それにしても……良く分りましたね、遠藤さん」おもむろに葉月が口を開く。「私なんて……ずっと泰牙さんといたはずなのに、全く想像もしませんでした……」
「近くにいるほど気がつかない事もあるんじゃねえか。四十沢だって一歩引いた位置にいたからこそ、泰牙の野郎が裏切り者って感づいた訳だしな」
つい数日前までは、泰牙は彼女達にとって仲間だったのだ。彼を疑い、その腹の底を探れという方が無理のある話だ。
「お喋りはここまでだな。お出ましだぜ」遠藤が鞘に差した日本刀の柄に手をかける。
前方から足音と共に迫ってくる影が数体。その正体について今更言及する必要もないだろう。
遠藤は刀を引き抜き、走り抜けざまに下級怪恨を斬り捨てた。光の粒子を尻目に周囲への警戒を怠る事なく日本刀を振って血を落とす。白銀の地面に真っ赤な染みができた。
葉月と背中合わせになり、「来るぞ!」と警告する。
最初に仕掛けてきたのは非正規滅恨士の男だった。伊庭は両サイドに盾用の獣二匹を従え、遠藤へと肉薄してくる。
——おそらくは泰牙との時間差攻撃! 葉月のサポートは受けられねえ!
——俺一人で捌く!
僅かに膝を折って屈み、空いている方の手で地面の雪を鷲掴みする。それをノータイムで伊庭の眼前へと撒き散らした。
「ぐおっ!?」伊庭が思わず目を覆う。積もっているほどの雪とはいえ、その下は細かい石や砂。目潰しには十分過ぎる。
遠藤は続け様に肉壁二匹を叩き斬り、間髪入れずに伊庭へ仕掛ける。
「ちいッ!」視界が回復した伊庭はすんでのところで大鉈を上へ翳した。振り下ろされた刀身が鉈に打ちつけられ、派手な火花を散らす。
一瞬遅れて背後で爆音。遠藤と伊庭のちっぽなけ小競り合いではない。莫大な力同士の激突が起きたのだと確信できる。
「吹き飛ばせ! 『邪竜轟嵐』!!!」
「——っ、駄目! 遠藤さん逃げて!」
葉月の警告に反応し、遠藤は伊庭の腹部を蹴りつけて距離を離すと、首だけを動かして後ろを見やった。
——おいおい、マジかよ!?
泰牙を中心として漆黒のオーラが渦を巻く。その光景を確認できたのも束の間。前方位にオーラの奔流が解き放たれ、防御手段を持たぬ遠藤に襲いかかる。
体を伏せ、第一波をやり過ごし、続けて向かってきた第二波を転がって躱していく。雪と砂利の混ざったものが今度は遠藤に被害を及ぼす。冷たい雪が服の隙間に入り込み、尖った砂利が皮膚の表面をヤスリのように削っていく。
——余波だけでこれか……! 伊庭だけに集中できる訳でもねえな……!
認識を改め、視界の端で大鉈を振りかぶっていた伊庭を捉える。日本刀の峰を思い切り振り上げて鉈を弾き、返す刀で刃の方を振るう。横合いから突っ込んできた下級怪恨がすんでのところで盾となり、伊庭の身を守った。
「ヘタレ野郎が!」遠藤は毒づくと左手でグロック17拳銃を抜き放ち、牽制射撃を放っていく。伊庭が動く肉壁と共に後退し、大きく弧を描くように移動を始めた。泰牙との合流を図っているのは明らかだった。
——させねえよ。
遠藤は日本刀を腰だめに構えると一直線に伊庭へと突っ込む。非正規滅恨士が大回りして泰牙と合流するよりも、真っ直ぐに襲撃しにかかる遠藤の方が早い。
当然、伊庭も遠藤を警戒する。肉壁を追加して強引に目的地へと向かおうとする。
滅恨士でない遠藤に怪恨を一撃で薙ぎ払うほどの力はない。大量の盾で無理矢理突破しようとする伊庭の策は限りなく正解に近い。
——それが一対一ならな。
遠藤は下級怪恨の前までノンストップで接近すると、一気に軸足の踵を反転させて横合いに跳んだ。そして非正規滅恨士とは正反対の方向に駆け出す。視界の隅で駆け抜けていった黒髪の少女とすれ違う。
「——咲き誇れ。『瑠璃蓮華』!」
葉月が地面ごと雪舞閃で一閃するやいなや津波のような勢いで刺々しい氷の花弁が咲き誇った。美しい氷の花弁は直線上にいた下級怪恨を一瞬で光の粒子に変え、伊庭へ襲いかかる。面食らった伊庭はとっさに回避行動に移ったが、顔の右半分と右肩に花弁が食らいついた。
「伊庭!」
「ヒトの心配してる場合じゃねえだろうが!」泰牙へと接敵した遠藤が吠える。
強烈な踏み込みと同時に振り下ろされる刃を善討槍の柄が受け止めた。紫色の火花が散る。
——よし、予想通りだ。
——滅恨術で直接攻撃されねえ限りは俺の刀が壊される事はねえ。
泰牙の反撃と善討槍の切っ先に注意を払いながら、立て続けに攻撃を加えていく。
「——穿ち尽くせ! 『邪竜突牙・乱』!!」
「うお!?」
最小限の溜めののち、善討槍の切っ先に紫電が集まり、一気に放出される。目にも留まらぬ神速の突きが連続して放たれた。
滅恨術発動の直前に体を捩っていた遠藤のすぐ隣を無数の刺突が通過した。はっきり残像すら見えた刺突は冷たい空気を攪拌し、竜の嘶きのような轟音を発生させる。
——あっぶねえ……! やっぱ踏み込み過ぎたら不味いな……!
「遠藤さん、あんた達の思い通りにさせる気はないぞ……!」泰牙は肉食獣のような眼光で遠藤を射抜きつつ、「さっきから姿を見せない四十沢さんを俺が警戒しないとでも思うか?」と問うた。「あんた達の対応に精一杯になったところを狙い撃つ気だろうが、そんな子供騙しで俺を殺せると思わないでもらおうか!」
「イキるなよ、クソガキが」遠藤は相手の自尊心を刺激するように鼻を鳴らした。「断言してやる。テメエらはその子供騙しにしてやられるんだよ」
「そうか。ならクソみたいな妄想に取り憑かれたまま絶対的な滅恨術(力)の前にひれ伏せ!」
泰牙の体から紫電を纏ったオーラが渦巻く。エネルギー体の槍を大量に射出する滅恨術、『万象壊侵夜』発動の予備動作だ。
圧倒的な質量のゼロ距離攻撃。遠藤に防ぐ手立てはない。
だから、「——バトンタッチだ」と遠藤は言った。
次の瞬間、遠藤のすぐ前の地面から氷の壁が迫り上がっていく。鼓膜が破裂するかと思うほどの激突音が連続し、結晶のバリケードが砕け散る。そして宙に煌めく欠片に混じって雪舞閃を手にした滅恨士の少女が突っ込んでいった。
「ちッ!」
「じゃあな。テメエは葉月に手も足も出ねえまま、使えねえ部下が八つ裂きにされるところを見ときな」
「良い気になるなよ部外者が! すぐに善討槍の錆にしてやる!」
激昂する泰牙をスルーし、再び非正規滅恨士の方へと意識を向ける。
——結構な綱渡りだったが、泰牙の野郎を焚きつけるのには成功した。
——あとは……こいつを料理するだけだな。
決して浅くはない傷を負わされた伊庭が、それでもなお明確な敵意をこちらに向けてくる。
「良いじゃねえか、その目。雑魚同士仲良くやろうぜ」
「泰牙様の障害になる者は何者であろうと……排除するッ……!」
伊庭は大鉈を握り締め直すと、積もった雪を蹴り抜いて突進を敢行。消耗し過ぎたのか肉壁用の下級怪恨を召喚さえしていない。もはや特攻としか言いようのない無謀さ。だが血に濡れた顔面から溢れ出す闘志は、勝負を投げ出した者のそれではなかった。
——単純な腕比べで俺に勝てねえ事なんざ折り込み済みだろ。
——無策で向かってきてる訳ねえ事くらい分かるんだよ。
伊庭の一挙手一投足を見逃すまいと目を凝らす。
大鉈を片手で携えた非正規滅恨士が肉薄。白刃が遠藤の喉元めがけて突き進む。
一瞬後には頸動脈を断ち切られているだろう状況に陥ってもなお、三流の殺し屋は眉一つ動かさなかった。日本刀でガード——する素振りすら見せず、もう片方の手でダガーナイフを引き抜く。
刃渡り一五センチほどのナイフで大鉈の一撃をいなす。正面から斬撃を受け止めるのではなく、力の流れに沿うようにして受け流す。
視界の片隅で伊庭のもう片方の腕が揺れる。黄色の安っぽいプラスチック製のホルダーから薄い刃が煌めいた。大鉈は遠藤の意識をそちらに向けさせるためのフェイク。本命は意識外からのカッターナイフ。
だが潜り抜けてきた場数が違う。
容易に伊庭の思考を読み切った遠藤は空けておいた日本刀でカウンターを仕掛ける。
踏み込みざまに安物の文房具を明後日の方向へ弾き飛ばし、次の一撃で大鉈による防御を誘う。あっさりと狙いに乗ってきた伊庭がギリギリのところでガードすると、そのまま視線を非正規滅恨士へ向けたまま軸足を蹴り抜いた。一瞬何が起きたか分からないといった顔をして、体勢を崩された伊庭が尻餅をつく。
「派手に死にな!」
「誰がッ!」
遠藤が日本刀を振り下ろす。脳天をカチ割る勢いで放った一撃だ。泰牙からのフォローも期待できない状況では、伊庭にこれを防ぐ手立てはない——はずだった。
「ぬおっ!?」遠藤の口から素っ頓狂な声が洩れる。視界が九〇度ほど傾き、そのまま景色が下へ流れる。直後に肩への鈍い衝撃。一瞬遅れて意趣返しのごとく自らの軸足を払われたのだと気づく。
——この野郎……!
さすがに伊庭の方もやられるだけではなかった。幾度にも渡る対人戦を経て慣れてきている。
そして攻守が逆転した瞬間を敵が見逃すはずはない。立ち上がる行為すら省き、速攻で遠藤を仕留めんと大鉈が振るわれる。
「甘いんだよ!」
こちらも倒れた体勢のまま対処に移る。腕と膝の力だけで自身の体を射出させ、伊庭へタックルを仕掛けた。体重を乗せた突進でこそなかったが、まともな構えを取れていないのは向こうも同じ。非正規滅恨士の鳩尾に肩がめり込み、そのまま押し倒す。
互いの手にはまだ得物が握られていたが、この距離で使うには刀も鉈も長過ぎた。だから遠藤は拳を握り込み、それを馬鹿正直に伊庭の顔面へと突き下ろした。ゴギャッ! という怪音が鳴り響き、伊庭の顔が不細工に歪む。
「はははッ! 怪恨と見間違えるくらいにしてやるよ!」
悪辣な笑みを溢しながら何度も拳を叩き込む。その度に指の関節に鈍痛が走り、その痛みと比例するように伊庭の顔もひしゃげていく。
——ほらよ! 御膳立てはしてやった!
——仕掛けてこいよ!
「遠藤さん!」と少女の声が警告を飛ばした。
——ドンピシャだ!
遠藤は一切の逡巡を見せなかった。一から一〇まで想定通りに事が運んだのだ。行動に迷いが生まれる余地などない。
もはや伊庭の方へは何の興味も示さず、遠藤は体躯を横に捻ると同時に背後へ振り向いて突撃を敢行した。すぐ側で空振った善討槍が通過する。
「——な!?」驚愕の表情を見せていたのは予想通り泰牙だ。背中側から強力な滅恨術を纏わせた槍で奇襲を仕掛けたはずが、あっさりと躱された事に動揺している様子だった。
「こいつがよっぽど大事らしいな?」
「まさかっ——!」
「そのまさかだよ! 裏切り者があ!」
すでに攻撃動作を終えてしまった泰牙とこれから攻撃に移る遠藤。どちらの動きが速いかは火を見るより明らかだった。
——狙うはあの場所だ!
すれ違いざまに日本刀を薙ぎ払う。切っ先から柔らかい人体を抉った感触が伝わり、「あぐああああああああああああああああッ!!!」という青年の絶叫が轟く。
刀を構え直すと共に泰牙へと向き直る。キルティングジャケットの青年は苦悶の表情を張りつけて、自らの右目を押さえていた。顔面には明らかに痛みとは異なる理由で吹き出したと思われる脂汗が見て取れ、遠藤は自身の仮定が正しかったのだと判断した。
「全部陽動って奴だよ、この間抜け。大人を出し抜けると思うなよ」挑発するように吐き捨て、「四十沢! 出番だ!」とどこかに潜伏している射手へと合図した。「蜂の巣にしてやれ!」
とんっ、と横合いに跳び、自分自身という壁を取り払って泰牙の姿を正面から露わにする。
その時だった。
四方八方から黒い影が飛び出し、無防備な泰牙を守るように立ちはだかった。それは伊庭の使役する下級怪恨。見れば上体だけを起こした伊庭が歯を食い縛りながら、遠藤を睨みつけていた。
「——馬鹿共が。勝負ありだ」
乾いた銃声が連続して炸裂した。吹雪と一緒に血飛沫が舞った。しかし、それは遠藤の眼前で再生された光景ではなかった。未だ無傷で立ち塞がる下級怪恨と満身創痍の泰牙よりも離れた場所——つまりはこの四つ足の怪恨を差し向けた張本人がいる場所だった。
「——え」信じられないといった表情を浮かべていたのは伊庭だ。自身の胴体に穿たれた銃創から赤黒い体液が噴出している。それに疑問を隠せないという様子だった。
そう、遠藤達の狙いは最初から伊庭だった。
「テメエらが姿を隠した四十沢を警戒するのなんて百も承知だ。そんで普通ならここぞという時の狙撃要員として使うと思うだろうな」遠藤は雪の上から地面を蹴り抜き、一直線に泰牙へと突っ込む。「その考えは間違ってねえ。だから少しだけ定石をズラした」
遠藤が踏み込んだのと同じタイミングで四十沢の方も姿を現す。彼がいたのは遠藤が空けたように見せた射線の延長線上ではなく、伊庭のすぐ近くの茂みの中だった。
「くそッ! この部外者共が! 俺達を嵌めやがったな!」
「最初に仲間嵌めようとしたのはテメエだろ。因果応報って奴だ!」
パキパキと大気中の水分が結晶化する音と共に、遠藤が持つ日本刀の刀身が透き通った刃にコーティングされていく。さらには伊庭へ肉薄していた四十沢の右拳も透明なグローブで覆われていた。
通常の武器に滅恨術の力を纏わせる。
非正規滅恨士が普段からやっている事を本家の滅恨士ができないはずはない。
葉月が用いる滅恨術が真人間二人の攻撃力を底上げしていく。同じ質の力を持つ滅恨士を一撃で葬れるように——。
——テメエは最大火力を自分にぶつけてくると思ってただろうが、そいつは間違いだ。
——意表を突いて必要最小限の火力を叩き込んでやれば十分に倒せる。
——いくら特別な力を持っていようが、しょせんテメエ自身の体は!
「ただの人間なんだからなああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」
逆袈裟に振り抜かれた氷を纏った刃が泰牙の体を下級怪恨ごと斬り裂いた。水の流れるホースに傷をつけたかのように血液が勢い良く噴出する。
滅恨士にとどめを刺した刀は纏った氷と共に砕け散り、雪に混ざってキラキラと煌めく。
そして、遠藤が泰牙を斬ったと同時に、四十沢も伊庭へ最後の一撃を放った。
全体重を右拳に乗せた強烈なボディブローが伊庭の腹部へ突き刺さり、男の体躯が後方に吹き飛んだ。葉月の術で筋力も強化されていたのだろう。莫大な運動エネルギーによって射出された非正規滅恨士の体は、一度も地面にバウンドする事なく吹雪のさなかへ消え去った。
「……やった、の……?」ぽつりと葉月が呟く。
「そいつは」と遠藤が刀身のなくなった柄を放り捨てる。「お前が一番良く分かってんだろ」
二人の滅恨士に勝利した事で少しばかり緊張の糸が解れたのか、一気に疲れと痛みが襲い掛かる。足を引きずるような格好で、仰向けに倒れ伏した泰牙に歩み寄った。
苦痛の表情ではなく、どこか安らかな笑みを浮かべる泰牙を見下ろしながら、遠藤は言った。
「こいつの中にいた怪恨は綺麗さっぱりいなくなったんだろ?」
「……さすがに……気づいて、いたか……」
途切れ途切れの泰牙の言葉に遠藤は鼻を鳴らして答えた。
「専門家が見りゃ分かっちまうだろ。そもそも、テメエも正体表してからは隠す気なかっただろうが」
「笑えるだろう……? 俺達分家の滅恨士は……ここまでしないと本家の人間には追いつけない……。強力な怪恨の一部をこの身に移植し……服従させる事でしか力を得られなかった……」
泰牙は先ほど右目に刻まれた凄惨な生傷にそっと触れて苦笑した。
分家であるはずの彼が本家次期当主の葉月にも匹敵するほどの力を手にし、『終末の回廊』なんて規格外な怪恨を呼び起こしてしまえた理由——それはあまりにも単純で、どうしようもないものだった。
「——だが、完全に制御できていた訳ではないだろう」と口を挟んできたのは四十沢だ。彼も彼で連日の無理が祟ったのか、重い足取りでこちらに近づいてくる。「俺は君の目的が分からなかった。これだけ大規模な破壊を起こし、本家を壊滅させ……それが終わったあとに何をする気だったのか。最後まで先を想像できなかった」
考えてみれば単純な事でしかなく、泰牙が正体を現した上で本家を叩き潰したところで彼に追従する者など一人もいないだろう。
もし本当に本家を蹴落として立場を確立したかったのなら、最後まで黙っていれば良かった。バレかけたのであれば、口封じだけに注力すれば良かった。一対一ならば、四十沢や遠藤を始末する事などあまりにも容易いのだから。
計画性と杜撰さが混在したような対応。おそらくは遠藤達が金沢に来るよりもずっと前から水面下で動かしていた計画にも関わらず、肝心なところで詰めを誤った。
遠藤や四十沢、武田といったイレギュラーに筋書きを狂わされた——だけではない。
不確定要素の介入だけではない理由がある。
つまりは——
「泰牙さん本人も気づかない内に、怪恨に精神を侵食されていた……」葉月が結論を述べた。「『終末の回廊』が起き始めた事で、泰牙さんの中にいた怪恨が凶暴化して、主導権を奪っていった」
緻密に組まれた計画を滞りなく遂行するよりも、本能に任せた破壊へ突き進むのを選んでしまった。だから、どう転んだところで手詰まりではあったのだろう。理性を持たず暴れるだけの異形は、専門家によって葬られる運命が決定づけられているのだから。
「……なあ、伊庭はどうなった?」と不意に泰牙が言った。彼は残った左目だけを動かして周囲の様子を探っているようだった。
「さすがに生きてたらおかしいだろうが」
遠藤は横目で伊庭が飛んでいった方角を見やった。
「そうか……」泰牙は落ち着いた声で返すと、残された左目も隠すように右腕で顔を覆った。「……俺はまた……失うんだな……」
「お前の過去を聞いてやる気はねえぞ。お前も伊庭も倒されてしかるべき敵——そうじゃなきゃ不都合が起こる。特別な力持った連中だろうが、お前らがデカい組織の一員である以上、このルールは崩れねえはずだ」
少しでも敵方の言い分を聞いてしまえば、彼らは絶対的な悪ではなくなる。
それでは本家として葉月達も示しがつかない。
だから問答無用で消し去るべきなのだ。
「葉月様」倒れたままの泰牙の声色がまた変わった。「不躾ながら頼み事がございます」
それは敵対者に向けるものではなく、対等な立場の者に向けるものでもない。
下から上へ。
分家から本家へ。
潮野泰牙から霞沢家次期当主、霞沢葉月へ。
「私の体はすでに怪恨に蝕まれ、手遅れとなっております」
「ああ?」と遠藤が眉をひそめる。「さっき泰牙の中にいた怪恨はいなくなったって……」
「その言葉に肯定した覚えはない」やはり敬意を以って接するのは葉月だけらしい。「奴は……俺という器ごと斬り伏せられた事で休眠状態にあるだけだ。じきに目を覚ますはず……」
泰牙は自身の顔面を覆っていた腕をゆっくりと取り払っていく。
遠藤によって潰された左目が——怪恨の一部を移植されていた部位が露わになる。
「「なっ……!?」」思わず息を飲み、遠藤と四十沢の二人が再度武器を構えた。
遠藤はダガーナイフを逆手で携えた状態で、「……まだやる気か?」と問うた。
潮野泰牙の左目の空洞から、血液以外の物質が滲み出していた。毒々しい紫色をした煙が豪風を無視してゆらゆらと立ち昇る。
その意味を葉月だけが理解した。
「……ちょっと……待ってください……そ、そんな……」
彼女の顔がみるみる内に青ざめていく。先ほどまで果敢に戦っていた滅恨士としての面影は見当たらず、ただ恐怖に恐れおののく少女がいるだけだ。
「おい! どういう事だ!? 俺らにも分かるように説明しやがれ!」
「待て、遠藤」激昂した遠藤を四十沢が片手で制し、「潮野泰牙。君は自分の事を器と言ったな」と確認を取るように告げた。「ならば怪恨をその身に宿す君自身が死亡した場合……何が起きる?」
「簡単だ。意識と肉体の主導権を完全に奪われる」
泰牙は自らに待っている唯一つの結末をあっさりと種明かしした。潮野泰牙という人間がこのまま死んでも戦いは終わらないという事。そうなれば葉月達の目的が達せられないのは明白だった。
そして。
前述の結末を覆すための方法が一つしか残されていない事を遠藤、葉月、四十沢の三人は理解してしまっていた。
「葉月様」と再度泰牙が一人の滅恨士の名を呼んだ。「——私を……私の身に宿る怪恨ごと滅してください。その刀、雪舞閃で」
「わ、私……できないです……! ここに来たのだって泰牙さんを止めるためで……! このまま病院に運び込めば……!」
「街中は怪恨に溢れ、病院は一般市民の怪我人で溢れているでしょう。私はもう助かりません」
「……っ!」
「迷っている時間はありません! こうしている今も市中は怪恨の脅威に晒されている! 裏切り者を前に手をこまねいて被害を拡大させるのが本家次期当主のやる事ですか!?」
血反吐を吐き散らしながら泰牙がまくし立てる。全ての元凶である彼が言えた義理ではないだろうが、今葉月を動かせるのも彼だけだ。
「葉月……」
「う……裏切り者を介錯するのも……次期当主の役目……」葉月は自身に言い聞かせるように呪いの言葉を紡ぎつつ、震える手で雪舞閃を握り直した。「私は……霞沢家の……本家の跡取りだから……皆に示しをつけないと……」
たっぷり一〇秒以上かけて透明な刃の刀が頭上に掲げられる。あとはそれを振り下ろすだけ。雪舞閃の一閃で潮野泰牙の身を怪恨と共に葬り去れば、『終末の回廊』を守る者はいなくなる。もはや戦いは終わったも同然。
あと一太刀。
それで全てが終わる。
なのに——
「わ……わた、し……は……」
葉月の相貌は汗でびっしょりと濡れ、小さな肩は小刻みに上下する。見開かれたままの瞳孔が、まな板の上の鯉と化した裏切り者を見据える。気持ちを落ち着かせるためにやっていたであろう深呼吸は段々と吸って吐く間隔が短くなり、もはや過呼吸と呼んで差し支えないほどになっていた。
いくら待っても少女が動く様子はなかった。
振り上げられたままの刀は行く宛もなく、ただ宙に固定されているだけだ。
やがて吹雪が弱まり、静まり返った空気が周囲を覆う。空は変わらず極彩色のマーブル模様で塗り潰されていた。
「それ、借りるぞ」
そんな断りと共に葉月の手から雪舞閃が奪い取られる。固く握り締められていたはずの刀の柄はあっさりと抜けてしまった。
葉月の得物をいつも通りの調子で握り、本物の氷以上の冷たさが皮膚に突き刺さるのに僅かに驚きつつ、「今じゃなくて良い」と遠藤は言い放った。「葉月、お前が将来どれだけ立派な看板背負う事になるとしても、今すぐこんな業まで背負うこたあねえ」
「遠藤……さん……?」
葉月の方はここまでされても三流の殺し屋が何をしようとしているか分かりかねているようだった。
だから遠藤は簡潔に述べた。「手を汚すのは駄目な大人が引き受けりゃあ良いんだ」
そこでようやく滅恨士の少女も理解したらしい。「だっ、駄目です……!」と遠藤から雪舞閃を奪い返そうと手を伸ばす。しかし力と覚悟の込められていない少女の細腕は簡単に振り解かれてしまった。
「四十沢、葉月を頼む」少女から視線を外し、倒れ伏した泰牙へと向き直る。「悪いな。御主人様に引導を渡してもらえなくて」
「いや、むしろ感謝するさ」泰牙は小さく笑い、「本当に……葉月様は良い仲間を得ましたね」と溢した。
「過大評価だ。俺達は部外者で——本来ならお前を断罪する資格さえないクズだ」
「いいや。そうやって本家の滅恨士と並び立ち、背中を預け合って戦う……俺達が憧れ続けて、それでも最期までなれなかった姿だ」
「…………」
「本当に……それだけだったんだ……」どこか遠くを見るような目で、泰牙は極彩色の空を見つめる。「どこで違えてしまったんだろうな……」
「良くある事だ。真人間だろうが滅恨士だろうが関係ねえ。お前の場合、それが偶々後戻りできねえところまで行っちまっただけだ」
「……遠藤さんは……後戻りできたのか……?」
「さあな。まだ分からねえ」
泰牙が力なく吹き出した。「そこははっきり答えてくれよ。そうじゃないと……安心して逝けないだろう?」
「さっき教えてやったばかりだろうが。俺は他人に対して偉そうに説教する資格なんかねえ。——だから見ててくれよ。俺がちゃんとやり直せるかどうかをよ」
4
全てが収束する。
虹色の空は一斉にその色を失い、本来の姿を取り戻す。
全ての元凶たる『終末の回廊』が消滅した事で、街を蹂躙していた怪恨の活動は一気に沈静化し、雪と瓦礫が積もる廃墟の様相と化していた。
世界が終わったあとのような景色のさなか、薄く白い息を吐き出した少年がいた。詰襟の学生服に袖を通した黒髪の少年——泉亮は額に浮かぶ汗と返り血を乱暴に拭った。
「くくく……ははははっ……!」押し殺すような笑い声が徐々に荒々しいものへと変化していく。「はははははははははははははははッッ!!」
亮の周囲にあったのは瓦礫だけではなかった。
死体。
折り重なる異形の残骸。
とどめを刺された事で活動を停止した怪恨が夥しいほどに積み重なっていた。
やがてそれは一体、また一体と現世から消滅し、光の粒子となって天に昇っていく。降りしきる雪と輝く欠片に囲まれながら、少年は手にした自らの得物を見やる。
滅恨士として生まれた時に手にした刀剣——ではない。亮の右手に携えられていたのは黒光りする金属の塊。直線的なシルエットで構成された現代の武器。
すなわち銃。
ボディアーマーを貫く威力を有するそのPDWの正式名称はH&K MP7といった。
外からやってきた大男が愛用していたものと同じだった。
MP7を握り締めた亮はひとしきり笑い終えると、「……これで見返せる」と口角を吊り上げた。「俺はこの力で……本家の奴らを……! 葉月の奴を見返してやるんだ……!!」




