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1-11


     1


 そこは見慣れた景色だった。

 大阪の薄汚れた路地裏。

 生きる価値のないクズ共の巣窟。

 同類を食い物にする事でしか生きられない者達が集う場所。

 遠藤(えんどう)の視界の中央には、こちらを見上げる青年がいる。猛禽類のような鋭い眼光を湛え、ステンカラーコートの袖から人殺しのために造られた鉤爪を覗かせる殺し屋だ。

 遠藤がどう足掻いても永遠に追いつけない存在——霧崎鷹(きりさきたか)

「……っ、……っ」水の中で窒息しているような、声にならない苦鳴を発する遠藤の体躯は文字通り宙に浮いていた。尋常でない握力で首を掴まれ、力任せに体を持ち上げられているからだ。

 霧崎鷹は遠藤の首を持っていない方の手をゆっくりと顔に近づけていく。当然、袖から伸びているのは鋭利な刃を持つ特注の鉤爪だ。それが無防備な皮膚の上で振るわれれば、どうなるかは明白だ。

 彼はいったい何を見ているのだろうか。少なくとも遠藤を見ている訳ではないだろう。霧崎鷹という選ばれた人間にとって、明確な敵意を向ける意味すらないのだ。ただ息をするように命を奪う。刈り取った生命に想いを馳せる事すらない。

 ——ふざけ……やがって……!

 遠藤は奥歯を噛み締め、震える手で霧崎の腕を掴む。徐々に五指に力を込めていき、何とかして引き剥がそうともがく。しかし霧崎の表情は変わらない。眉一つ動かす気配はない。それが遠藤の神経を容赦なく逆撫でしていく。

 ——ふざけやがって! ふざけやがって! ふざけやがって!

 ——たまたま才能持って生まれてきただけの奴が! 俺の人生を否定するんじゃねえ!

 自分の首の皮膚がズタズタに引き裂かれるのも構わず、強引に霧崎の手を振り解いた。宙に浮いていた体が重力に従い落下し、尻から地面に叩きつけられる。立ち上がりざまに転がっていた日本刀を拾い、その勢いのまま霧崎に斬りかかる。

 ——殺す! 殺してやる! 俺の苦しみを思い知りやがれ!

 刀を霧崎の脳天目掛けて振り下ろすが、その刃が鉤爪使いの殺し屋に届く事はなかった。軽く振られた鉤爪が遠藤の両手を手首から切断し、次の瞬間には眼前で振り抜かれたもう一振りの爪が、左右の眼球を真っ二つに斬り裂いた。

 一瞬にして視界が黒く染まる。脳の神経を直接掻き毟るような激痛が走る。

 遠藤は無様に地べたを這い、物を掴む機能の失われた腕で日本刀を探す。

 しかし武器は見つからない。切断された両手も、まるで最初から存在しなかったかのように痕跡さえ確認できない。赤い切断面から同色の体液を撒き散らす腕が無意味に振るわれるだけ。

 ——俺は……俺は……まだ……!

 言葉だけは強がるが、抗うための手段全てを失った遠藤の戦意は徐々に削ぎ落とされていく。

 靴底が地面を踏み締める音が聞こえる。死神が確実な死を届けにやってくる。

 ——嫌だ……俺はまだ……あいつに何も伝えられてない……。

 ——……?

 ——()()()……? あいつって誰だ……?

 霧がかっていく意識の底で遠藤は一つの疑問に苛まれる。

 あいつ——ぐちゃぐちゃなパズルのピースを揃えていくように、ふと浮かんだ何者かの顔を思い出していく。

 黒髪で二つ結びのおさげが特徴の、遠藤より一回り以上年下の少女。髪色とは一八○度異なる日本人離れした青い瞳を湛えた相貌は、実際の年齢よりも幼く見える。瞳と同色のフレームのウェリントン型眼鏡は、遠藤の好みを見透かした彼女が常にかけるようになったものだ。

 滅恨術(めっこんじゅつ)という異能の力を用いて、怪恨(かいこん)と呼ばれる異形の化け物と戦う役目を負った一族の末裔。

 滅恨士(めっこんし)

 ——そうだ……俺はあいつの師匠で……。

 ——あいつは……こんな能無しに着いてきてくれた……たった一人の……存在……。

 ——…………葉月(はづき)……。

 少女の名を思い出したと同時、空気を裂く音が鼓膜を突き抜ける。

 一瞬だけ首に激痛が走ったのち、遠藤の意識は照明のスイッチを切ったように途絶した。


     2


 瞼の内側に眩い光が射し込む。突如として明るくなった世界に顔をしかめながらも、ゆっくりと重い瞼を開く。

 最初に視界に飛び込んできた景色はどこかの部屋の天井だった。敷き詰められた木の板の幾何学的な木目が、寝起きの目には優しくない。波打つ模様が視界を掻き回し、乗り物酔いに似た不快な感覚が襲ってくる。

 思わず瞬きし、首だけを動かして周囲を見回す。

 遠藤が寝かされていたのは和室だった。しかし体を預けていたのは布団ではなく、和風な雰囲気をぶち壊す白い骨組みのベッドだ。小中学校の保健室のような家具が並び、室内には薬品の匂いが立ち込めている。

「ここは……」掠れた声で呟きながら、調度品以外の全てが見慣れた内装である事に気づく。

 遠藤の宿泊している久穏荘の一室だ。ここが遠藤にあてがわれていた部屋なのかどうかは定かでないが、一週間近く過ごした施設の雰囲気を忘れるはずがない。

「……最悪な夢だ。くそッたれめ……」まだあちこち痛む体を無理矢理動かして上体を起こし、首の裏をさする。本当に斬られた訳ではないにも関わらず、この部分に焼きついた痛みが一番酷い。

 大きく息を吐き出し、ふと自分の脚に何か重い物がのしかかっているのに気づく。突っ伏すような形で葉月が布団に顔を埋め、寝息を立てていた。

 少しでも脚を動かせば彼女が起きてしまうのではないかと思い、ベッドから降りるのを逡巡していると、突如として無遠慮に部屋のドアが開け放たれた。「よう遠藤。起きたみたいだな」とヘラヘラ笑いながら入室してきたのは見知った顔だった。

刈谷(かりや)……? お前、何でここに……」

 現れたのは顔見知りの仲介屋であり、遠藤を金沢に行かせた張本人である刈谷満次だった。

 大阪にいたはずの刈谷がなぜここにいるのか。その答えはすぐに本人から返ってきた。

「呼ばれたんだよ。なぜか俺の個人情報を根こそぎ知ってやがったハッカーにな。『すぐにここに向かわなきゃどうなるか』なんて脅されたら、動かない訳にはいかないだろうが」

 遠藤は刈谷の言う人物が四十沢(あいざわ)の仲間の事だとすぐに合点がいく。次いで、一つの疑問が湧いてきた。「……四十沢は死んだのか?」

「あのデカいおっさんならピンピンしてやがる」と刈谷は間髪入れずに答えた。「なんならお前よりも早く目覚めて、霞沢の連中と動いてるよ」

「あの傷でかよ……とんでもねえ体力してやがんな……」

「その葉月って子と、あとはガラの悪い刑事にも感謝しておけよ? 気失ったお前を見つけて、滅恨術で止血したのがその子。そんでお前を抱えて病院まで運び込んだのが刑事のおっさんだ。ちょっとでもタイミングが遅れてたら、目覚める事なく死んでたってよ」

「……刈谷、お前」

「――んっ……」

 遠藤が何か言おうとしたところで、この騒々しさに耐えられなかったのか、葉月が目を覚ました。寝ぼけ眼で顔を上げ、遠藤と視線が合った瞬間、彼女の泣き腫らした両目が驚きに見開かれた。

「遠藤さんっ!」と喜びに満ちた表情で勢い良く抱き着いてくる。包帯でぐるぐる巻きの遠藤の胴体に顔を埋め、「このまま起きなかったらどうしようかと思ってたんですよ……! 良かった……本当に良かったあ……!」と今にも泣き出しそうな声で言う。

「……悪かった。それと助かった。お前がいなきゃ俺は今頃ここにいなかったみてえだからな」

 遠藤は未だ思うように動かない手で、葉月の頭を優しく撫でた。手の平を通じて葉月の震えが伝わってくる。それによって自分がどれだけ彼女を心配させてしまったのかを否が応にも自覚させられる。胸の奥がギリギリと締めつけられる感覚がした。

「俺は邪魔者みたいだな」刈谷が肩を竦めて二人を見やった。

「あ……ごめんなさい、刈谷さん。一人で舞い上がってしまって……」と謝罪する葉月を横目に、刈谷は特に気にした様子もなく、「構わんよ。君が遠藤に懐いてんのは良く分かってるつもりだ」とフォローする。

 だが、すぐに刈谷は目の色を変えて葉月と遠藤を射抜いた。「……ただ、忘れんなよ。まだ終わってない。なるべく早く十六夜(いざよい)さんのところへ向かえ」

「分かっています」と葉月は頷いた。「これは私達滅恨士の戦いです。絶対に逃げはしません」

「それなら良い」

 刈谷は踵を返すと、入ってきた時と同じように無遠慮にドアを開けて退室していく。

 あとには沈痛な面持ちの遠藤と、彼を見つめる葉月の二人だけが残った。

「…………」

「…………」

 しばしの間流れる沈黙。やがて、その空気に耐えられなくなったのか、遠藤が口を開く。

「……俺は浮かれてたんだ。この街に来て、お前に頼られて良い気になってた。自分が強くなったと勘違いしちまってたんだ」

 夢に出てきた霧崎鷹と、自身を完膚なきまでに叩きのめした潮野泰牙(しおのたいが)を重ね合わせ、遠藤は自らの驕りを自覚する。遠藤は弱い。生まれ持った才能がない。だからこそ弱者としての戦い方を徹底するべきだった。

「なのに俺は泰牙の奴と真正面から戦った。……馬鹿だよな。あいつは俺なんかが一生かけても辿り着けないところにいる。そんな奴に自分の力を過信した雑魚が勝てるはずなかったんだ……」

「遠藤さん……」

「そのせいで……もし葉月と武田(たけだ)のおっさんが来なかったら……俺も四十沢も……」

「それは違います!」葉月が語気を強めて否定した。「遠藤さんが泰牙さんに撤退を判断させるくらいに追い詰めたから、私と武田さんが二人を助けられたんです! 遠藤さんが自分の身を顧みずに泰牙さんに挑んだから、皆が助かったんですよ!」

 葉月は涙目になりながら、遠藤を真っすぐと見据える。

「……お前は優しいな。俺が人生で初めて出会えた真っ当な人間だ」思わず目の前の少女から目を背けてしまう。純粋な光そのもののような少女は、遠藤には眩し過ぎる。直視などできない。同じ目線で世界を捉える事ができない。

 だから——

「————俺さ、大阪で殺し屋やってんだ」

「……え?」

 唐突に遠藤の口から飛び出した単語に、葉月が唖然とした表情を向けた。

「この世の最下層。底辺以下の人間のクズが生きるために啜る泥水みてえな仕事だ。そんで俺はそこからも拒絶された存在だった。何もかも上手くいかなくなって、さっきの奴——刈谷に勧められるまま金沢に逃げてきた。そこで出会ったのがお前だよ、葉月」

 遠藤は変わらず葉月から目を逸らしたままだ。今、彼女がどんな顔をしているかも分からないし、それを確認する勇気もない。

 これまで言えずにいた自身の素性。汚物に染まり切った者の称号。

 今、打ち明けた。

 これで終わりだ。

「俺みてえなクズが師匠面して悪かった。俺が教えた事も、俺自身の事も全部忘れてくれ。正義の側に立ってるお前に、こんな汚ねえ戦い方は似合わねえよ」

「……てください」

「……?」

 後ろから潜もった声がかけられた。何を言っているのか分からず眉をひそめたところで、背中に激痛が走った。「いッッッ——!?」と声にならない悲鳴が溢れ、直後に背骨の辺りを殴られたのだと悟る。

「こっちを見てください! 見ろ! 今すぐ!」そして今度は鮮明に怒号が聞こえた。普段の彼女から想像もできないほどの声色と強い命令口調で、有無を言わせず遠藤を従わせようとする。遠藤が動くのも待たず、肩を乱暴に掴んで自身の方へ振り向かせる。

 彼女の表情が確認できてしまう。耐え難い怒りに満ちた鋭い眼光。眉間に寄せた皺。固く引き結んだ口許。針のむしろのような感情の全てが、遠藤ただ一人に向けられていた。

 ——何だよ、その顔は。

 ——そんな表情……お前がして良いもんじゃねえだろ。

「何でまだ向き合ってんだ!? 俺はお前の目標とする人間には程遠いんだ! 何で……拒絶してくれねえんだよ……!?」

「拒絶なんて……する訳ないじゃないですか」

「俺はただの半端者で人殺しだ……」

「いいえ、違います。あなたは……私の師匠です」葉月の視線は変わらず鋭利なままだ。しかし、その声色には確かな優しさが含まれていた。「私にとっては()()()()()()()()()()()()()の方が大事なんです」

「……お前の中の幻想は、もうとっくに崩れちまってるぞ」

「そんな事ありませんよ。剣の指導をしてくれて、兄のように接してくれて、そして背中を預け合える相棒になってくれた遠藤克巳という人間は確かにここにいます。だから——」

 葉月は肩を掴んでいた手を離し、震える遠藤の手に自らの手の平を重ね合わせた。

「——だから……自分をそんなふうに悪く言わないでください……」

「…………」

 葉月の温もりが伝わってくるにつれて、これまで心の奥に渦巻いていた靄が消え去っていくのを感じる。

 ——ああ。

 ——誰かに必要としてもらえるって……こういう事なんだな。

 それは初めての経験などではない。遠藤がこの世界に足を踏み入れて、霞沢葉月という滅恨士の少女と出会ってから、ずっと向けられていた感情だ。だが今まで遠藤自身がそれを受け入れるのを拒否していただけ。

 仲間を傷つけられ、仲間に裏切られ、自分自身を傷つけられ——大きく遠回りしてしまったが、ようやく自覚できた。

「だから俺は……あいつらみてえにはなれねえんだろうな。……でも、それで良い」

「……遠藤……さん?」

 葉月が若干不安そうな顔で覗き込んでくるが、すでに遠藤の表情は晴れやかだった。葉月を安心させるように頭を少し乱暴に撫で、「行こうぜ、葉月」と言った。「まだ終わってねえんだろ。このまま俺だけ気持ち良く寝とく訳にはいかねえからな」


     3

 

 一度自分の宿泊している部屋に戻って着替えを済ませる。扉の向こうで待っていた葉月と落ち合うと、一緒に久穏荘の外へ出る。

「よう、遠藤の兄ちゃん。生きてたみてえだな」

「すまない。迷惑をかけたな」

 出入口のすぐ側で武田と四十沢の二人が待ち構えていた。良く見なくともどちらもボロボロだった。体中包帯だらけで、露出している部分も生傷だらけ。睡眠すら録に取れていなかったのか、目の下には濃い隈ができていた。

「……おい葉月」と遠藤は滅恨士の少女の耳許で疑問をぶつけた。「……俺、何日寝てたんだ?」

「三日だ」すると聞こえていたのか、武田が簡潔に答えを口にした。

「武田さん達は遠藤さんが寝込んでいた三日間、ほとんど不眠不休で市街地に出た怪恨の対処に当たっていました。四十沢さんも一日で目を覚まして、怪恨と戦い続けてくれています」と葉月は詳細を語る。

「……悪かったな。あんた達が死に物狂いで戦ってる時に、呑気に寝ちまってて」

「構わねえよ」武田が疲れた顔に底意地の悪い笑みを浮かべた。「こっから挽回してくれんだろ?」

「期待に応えられるかは分からねえけどな」

「互いの生存を喜ぶのはここまでだ」と四十沢が割り込んでくる。「もう時間がない。霞沢十六夜の元へ向かうとしよう」

「……俺は起きたばっかでまだ状況が掴み切れてねえが——」そう言って遠藤は視線を上空へ移した。「——あれについてか」

 外に出ているというのに遠藤は今が昼なのか夜なのかも分かっていなかった。その理由は明白で、見上げた金沢の空は太陽もなければ月もなかった。雲に覆われて見えなくなっているだけという訳でもない。

 そもそも通常ではありえない色の数々が空を満たしていた。

 雨のあとにできた虹がさらに色彩を濃くし、そのまま見える範囲の全てを埋め尽くしてしまったような景色だった。無数のビビッドカラーが波打ち、雲と同じように流れていく。空は目が痛くなるほど明るいにも関わらず、遠藤達のいる地上は深夜のように暗い。御影温泉街のガス灯風の街灯の明かりだけが、周囲を頼りなさげに照らしているだけだ。

「明らかに物理法則から外れた現象……嫌ってほど記憶に残ってやがるな」

「同感だ」と武田も頷く。

 遠藤は金沢に来た初日の出来事を思い出す。

 そこで起きた事象を脳裏に浮かべて類似性を見いだし、今何が起こってしまっているのかを導き出す。

「——『終末の回廊』が目覚めちまったんだな」


     4


 先日、伊庭への対策について話し合うために遠藤達や滅恨士が集められた場所——温泉街のバス停付近の坂を登った先にある和洋折衷の建物の前まで来ると、「お待ちしておりました」という女性の声が出迎えた。

 思わず遠藤は眉をひそめた。眼前にいる女性が葉月の母親である十六夜だとはとても思えなかったのだ。着崩れた和服に艶のない髪の毛、そして武田達以上に濃い目の隈のせいで一気に老け込んだように見えてしまう。年相応の見た目になったと言えばそれまでかもしれないが、一児の母とは思えないほどに若々しかった元の姿を思い起こすと、今の出で立ちはあまりにも痛々しい事この上なかった。

「……お母さん……」

 葉月が悲痛な声で母を呼ぶが、対する十六夜は実の子供に向けるものとは思えないほど鋭い声で、「当主と呼びなさい」と制した。気圧された葉月がびくりと肩を震わせる。

 遠藤は葉月を庇うように前に出て、「で、話ってのは何なんだ?」と問いかけた。「あんたらが危惧してた『終末の回廊』が表に出てきて、てんやわんやになってる事くらいは俺でも分かる。こいつの討伐に向かわずに、こんなところで道草食わせられてるのにはそれなりの理由があるんだろ?」

 満身創痍の四十沢も遠藤の隣に踊り出た。「彼もまだ目覚めたばかりだ。まだ状況を捉え切れていない。情報の共有が先決だと俺も考えている」

 武田も軽い足取りで対立する双方の間に割り込んだ。「まあまあ、どっちもカリカリすんなよ。仲良くいこうぜ。仲間同士、家族同士——な」と目を細め、不敵な笑みで十六夜をねめつける。「時間がもったいないのはお互い様だろ?」

「……ふう。これでは、どちらが悪者か分かりませんね」十六夜は諦めたように溜息をつくと、改めて無能力者の男達に視線をやった。「着いてきてください。奥に沼井紗耶もおります」

「話が早くて助かるぜ」武田が薄く笑った。

 先導する十六夜に追随する形で屋敷の奥へ向かう。行き先は当然、先日対策会議を行ったフロアだった。大勢の滅恨士を収容していた室内には、現在たった六人の人間しかない。

 十六夜と遠藤達一行。そしてホールの中央で待っていた沼井紗耶だ。やはり彼女の身なりも他の者と大差ない。

「……まずは遠藤さん——あなたが眠っている間に起きた事からお話ししましょうか」

 十六夜の提案に対し、「ああ、頼む」と遠藤は答えた。

「『終末の回廊』が覚醒したのはあなたが潮野泰牙に敗れてから数時間後の事でした。空は虹色に染まり、怪恨は凶暴化……人目を忍ぶ事なく市民を襲撃し始めました。このままでは私達が対処できる範囲以上に怪恨の被害が拡大すると判断し、私、沼井重勝、泉透子の三人がかりで金沢の中心街に隔離結界を展開しました」

「……っつう事は、まだ見た目ほどどうしようもない状況にはなってねえって事か?」

「被害規模……という観点から見ればそうかもしれませんね。この空も、まだ街の外にまでは広がっておりませんし、結界の外で怪恨による被害が生じたという報告も入ってきておりません。しかし、本来であれば各地に散っていたはずの凶暴化した怪恨の群れ——それが全てこの中心街で猛威を振るっているのです」

「……なるほどな」と遠藤は改めて武田や四十沢に視線をやった。「戦える人間総掛かりで対処してたのが、この三日間だったって訳か」

「そういう事です」

「怪恨はまだ暴れてんのか? 今はどうなってる?」

 ここに来るまでの間ずっと疑問に思っていた事だ。滅恨士と怪恨の全面戦争になっている割には全体的に静か過ぎる。その上、戦闘員もかなりの数が御影温泉街で待機しているように感じた。武田や四十沢、葉月は言わずもがな、途中の道で覚えのある顔——非正規滅恨士の面々をちらほらと見た。

 街が怪恨で溢れ返っているのなら、こんな場所でゆっくりとしている暇はないはずだ。

 遠藤の内心を見透かしたように答えを口にしたのは、十六夜ではなく葉月だった。

「結界術の応用で、怪恨を鎮静化させるための術式が存在します」

「鎮静化?」

「場合によってはすぐに滅さずに生きたまま捕獲する事もあるのよ」と付け加えたのは紗耶だった。彼女は神妙な面持ちで腕を組んだまま、「でも、今回使ったのはそんなスケールの小さいものじゃない」と言う。「隔離結界の中全体に作用する超強力な代物」

 最後の説明は十六夜本人が引き継いだ。「皆さんが戦い続けていた三日の間に術式を組み上げ、それを今から六時間前に展開しました。その時点で滅恨士と戦っていた怪恨については動きを鈍らせたところを仕留められましたが、それ以外の怪恨は術の効果を受けると同時に身を隠しました」

「つまり……」

「今は休戦状態という訳です。隠れている怪恨を探し出して討伐しようにも滅恨士達の体力が保ちませんので」

「その術の持続時間は?」

「およそ半日。……しかし強力な怪恨はその限りではありません。個体によってはあと三時間ほどで活動を再開するでしょう」

 三時間。その言葉を遠藤は口の中で噛み締める。あと数刻で再び街は地獄に包まれてしまう。全ては彼らの——潮野泰牙と伊庭の思惑通りという事なのか。

「……あの裏切り者共の行方は掴めてんのか?」

「『あの場所』から大きく動いた訳じゃねえ」と武田が言った。「奴らは『終末の回廊』の側にいる。伊庭の野郎はともかく潮野泰牙については、俺らからしたら最悪の護衛だ。しかも、そいつらを囲むように大量の怪恨が湧いてやがった」

 その先の言葉を待たずとも言わんとしている内容は分かってしまった。誰も近づけていないのだろう。街中に放たれた怪恨を対処するために大部分の人員が裂かれ、本丸を叩くほどの戦力は残されていなかったのだ。

「だが、霞沢十六夜のおかげでかなりの数の怪恨を討伐できた」四十沢が一つの事実を口にした。「新たに怪恨が出現でもしない限り、隔離結界内にいる敵残存勢力は確実に削れている。黒幕達は確実に『撹乱用』の戦力を『終末の回廊』を防衛する怪恨の中から裂くはずだ」

「……なるほどな」

 段々と光明が射してきた。

「こちらも全戦力を投入して攻勢に出ます。そして『終末の回廊』の守りが薄くなったところを一点突破——潮野泰牙と伊庭の二人を撃滅し、怪恨を討伐します」と十六夜は方向性を示した。

 葉月にも引けを取らない使い手の泰牙に強力な怪恨。その二者を相手取るための戦力——当然、候補は一人しかいない。

「やれますね? 葉月」有無を言わさぬ口調で、十六夜が我が子に問いかける。

「……裏切った滅恨士を粛正するのも本家の勤めです」葉月はまだどこか迷いのある声色だったが、自分なりに覚悟は終えているようだった。「ですが」と前置きしてから続ける。「私一人だけでは力が足りません。誰を同行させるかは私が決めても構いませんね?」

「ええ、好きにしなさい。葉月、あなたが信頼に足る者達と共に使命を果たすのです」

「はい!」

 そう言って葉月は自分の周りにいる者達を見やる。遠藤、武田、四十沢、紗耶の四人を。

「おそらく最も厳しい戦いになります。それでも……私に着いてきてくれますか?」

 無言で頷く遠藤達——だったが、ただ一人、「悪いな。俺は別行動だ」と断る返事があった。不良刑事の武田は呆気に取られる葉月に笑いかけて言う。「葉月ちゃんは俺なんかがいなくても大丈夫だろ? 俺は()()()()()()()()()()()のところへ行く。結界の影響で特殊部隊が合流できなくなった今、滅恨士以外に頼れるのはあいつらしかいねえんだ」

 十六夜が訝しむように尋ねる。「……任せても良いのですね?」

「ああ、問題ねえ。今まで怪恨から逃げてた分きっちりと働かせねえといけねえからな」

「……それでは」と葉月が再度遠藤達を見回す。「もう一度言いますが、泰牙さんとの戦いが最も厳しい激突になるのは間違いありません。考え直すのであれば……今しかありません」

「何度訊かれようが俺の答えは変わらねえ」遠藤はすかさず断言した。「あの野郎をぶっ飛ばして借りを返す。そんでこの街を救う。俺の答えはこれだけだ」

 四十沢も遠藤に賛同した。「こちらも潮野泰牙には辛酸を舐めさせられている。個人的な恨みを晴らす——という目的だけでも、君に従う理由は十分にある」

 特攻を仕掛けるメンバーは決まった。

 鎮静化された怪恨達が動き出すと同時に最後の戦いが始まる。


     5


 作戦開始まで残り一時間を切ったところで、温泉街にいた滅恨士達が次々と動き出していく。彼らに紛れて武田も一足先に中心街へ向かって行った。

 一気に閑散としてしまった街の片隅で、遠藤と刈谷が向かい合う。

「ほらよ。わざわざ大阪から持ってきてやったんだ。こいつでしっかりと敵さんを仕留めてこい」

 そう言って刈谷は小さめのバックパックと真新しい日本刀を投げ渡してきた。バックパックの中には手榴弾や閃光弾、さらには大型の自動拳銃までもが収められていた。

「銃は趣味じゃねえって言ってんだろうが」

「そう言うなよ。相手は人間離れした能力持った化け物だろ? ただの刃物一つで敵うはずがない」

「俺の射撃センスのなさはテメエが一番良く知ってるはずだけどな」

「どんなノーコン野郎でもゼロ距離で撃てば当たる」

「……簡単に言ってくれるぜ」

 毒づきながらも遠藤は素直にバックパックを背負い、日本刀をベルト部分のアタッチメントに取り付けた。

 戦う準備が整ったところで、遠藤は訝しむような視線を腐れ縁の仲介屋に差し向けた。「刈谷……テメエ、どこまで知ってやがったんだ?」

 目覚めた直後の刈谷の口ぶりから、彼が滅恨士や怪恨の存在を知っていたのは間違いない。いつ、どこで知ったのかについても、わざわざこちらから問いただす必要はない。なぜなら刈谷は遠藤よりも前に、ここに訪れているからだ。

 遠藤が聞き出したいのは、刈谷が最初から霞沢とグルだったのかどうか——その一点だ。

「そんな目すんなよ。心配しなくても全部話すつもりだ」と刈谷はおどけるように肩を竦めた。「結論から言うと、俺は霞沢の内情なんてものは全く知らない。俺だって()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なんだからな」

「そんな碌でもねえ目に遭っといて、良く俺を金沢に行かせたな」

「お前まで同じ目に遭うなんて思ってもなかったんだよ。分かるだろ? 大半の奴らは怪恨なんて化け物に出くわす事もなく、普通に旅行に来て、普通に観光して、普通に楽しんで帰っていくんだ」

「あいにくと、まともに観光さえできてねえがな。戦う相手が人間から化け物に変わっただけだった」

「そうだな。……でもよ、やっぱり俺はお前をここに来させて正解だったと思うんだ」刈谷はニヤリと笑って遠藤を指差す。「――大阪にいた時よりも何倍も良い顔してるからな」

「……はッ」と遠藤は鼻を鳴らしてみせた。「初めて俺を必要としてくれる奴に出会っちまったからな」

「そうかい。なら何が何でも手放さないようにしなきゃな」

「言われるまでもねえよ。絶対に死なさねえ」

 葉月は光だ。一筋の光も射さない掃きだめの中で生きてきた遠藤が見つけた——自分だけを照らしてくれる光。だから何があっても消させない。たとえ相手が化け物だろうと、はるか格上の能力者であろうと。何が何でも喉元に食らいつき、食い下がってやる。

「必ず生きて帰れよ」刈谷が念押しするように言う。

「当たり前だ。死んじまったら、もうあいつの師匠でいられなくなっちまう」

 遠藤は踵を返す。自らが進むべき方向を見据え、腰に下げた刀の柄を強く握り締める。

 刈谷の言う通り、絶対に生きてここに戻る。葉月と共に。


     6


 これが自分の見たかった光景なのだと泰牙は言った。黒煙が立ち昇るビル群を眺望しながら、全ての元凶たる青年はそう断言したのだ。

 泰牙の顔にはカッターナイフのように薄い笑みが張りついていた。一人の客もいなくなった観光名所はかつての姿を取り戻したかのように静かだった。兼六園の中心部に位置する大きな池を背に、泰牙は仲間へと語りかける。

「もう少しだ。もう少しで俺達の悲願が成就する」

「……ええ。長かったです」と泰牙の隣に立つ伊庭が同意した。

「今日、霞沢本家の権威は完全に失墜する。多くの民間人の命と引き換えにな。だがこれは必要最小限の犠牲だ。何の対価もなしに古い体制を壊す事はできない。今後数世紀のために俺はどんな汚名だって被ってやるつもりだ」

 何も知らない第三者が見れば、泰牙の表情はさぞ晴れやかに見えただろう。いや、実際に彼は笑っている。

 だが伊庭には分かっていた。笑っているのは表情だけだと。泰牙の発する言葉には最初から最後まで一切の感情が込められていない。

 その理由を伊庭は理解している。おそらくは今現時点で伊庭だけが泰牙の抱える事情を分かっている。

 それを自覚した上で、やはり伊庭は泰牙の話す内容に賛同した。「はい。ここまでして、ようやく本家の連中は思い知るのでしょう。全てが壊れ、修復不可能になった時に自分達の無能さを——」

 大鉈を握る右手に力が入ると同時に、針の先端を突き刺したような細い痛みが皮膚を走った。連日の戦闘によって負った傷が開いたのかと思ったが違った。右手に視線をやると白い埃のようなものが付着していた。

 目線を上空に移すと、不気味なグラデーションの空から次々とふわふわの白い塊が舞い落ちてくるのが確認できた。

「雪か……」と同じように空を見上げていた泰牙が呟く。「酷くなりそうだ」

 その言葉通り数秒にして降ってくる雪は勢いを増し、視界を覆い尽くすほどの降雪量となる。

 伊庭は白く濁った息を吐き出しつつ、モッズコートのフードを目深に被った。

 もう後戻りはできない——そんな現実を突きつけてくるかのような大雪を前にして、伊庭の右手は未だ固く大鉈の柄を握り締めていた。

「……ここで、全てを終わらせてやる」


     7


「酷え様だな。いや、こんだけボロカスにやられておきながら死者の一人も出てねえ事を褒めてやるべきか?」

 武田が吐き捨てるように評すると、死人のような顔をした赤松が落ち窪んだ瞳を不良刑事に向けた。

「……笑いたければ笑うと良い。これが現実さ。特別でない人間じゃ束になっても化け物には敵わないんだ」

 警察署内にいる者達全員が赤松と似たような表情を浮かべていた。自らの無力さに打ちのめされた顔だ。

『終末の回廊』が目覚め、武田や滅恨士達が凶暴化した怪恨の対処に当たっていた間、県警もまた怪恨と戦っていた。しかし結果は火を見るより明らか。赤松達は一匹たりとも怪恨を仕留める事はできず、こうして返り討ちに遭っただけだった。

 武田はその事実を踏まえた上で、「違うな」と断言した。「テメエらが負けたのはただの人間だったからじゃねえ。化け物との戦い方を知らなかったからだ」

 赤松の胸ぐらを掴み上げ、憔悴し切った彼の顔をドスの効いた表情で射抜く。

「化け物に一回負けた程度で腐ってんじゃねえぞ。俺だって奴らに勝てた回数の方が少ねえんだ。本当に負けちゃならねえ時にきっちり勝てば良い」

「……それが今だって言うのか?」

「ああそうだ。滅恨士共は怪恨がまた動き始める時を狙って黒幕に攻勢を仕掛ける。俺達は一匹でも怪恨を引きつけられれば良い。それだけであいつらがかなり楽になる」

「本当に……役に立てるのか? 僕達なんかが……何の力も持ってなくても……」

「力を持ってる連中に全てを押しつけ続けられるんなら確かにそれが一番だ。だが現実はそうじゃねえ。俺らみてえな無能共が役に立たねえと解決できねえ問題もある。できるかできないかじゃねえ。やるんだよ。歯食いしばって化け物に立ち向かえ!」

 床に叩きつけるようにして赤松を解放し、武田は署内を見回す。

「テメエらもだ! 力がねえ事を言い訳にしてんじゃねえ! 勝てない事を正当化してる内にテメエらが守りたかったもんは次々に壊されていくんだ! 立ち上がれ! そんで俺らを見下してる化け物の喉笛噛みちぎってやれ!」

 武田は県警の者達に背を向けて出口へと歩いていく。今まではそうして自ら危険地帯へ赴いていくのは武田一人だった。しかし今度は違う。一人、また一人と瞳に闘志を宿した警官達が武田のあとを追っていく。やがて、「……くそ」と毒づいて赤松も立ち上がった。

 日本を守るための組織——警察がその本領を発揮する。


     8


 四十沢の私物であるジープに乗り込み、目的地へと向かう遠藤達。中心街の様相は想像を絶するほどに悲惨だった。道路のアスファルトは隕石でも落ちたのかと思うほどに滅茶苦茶に捲れ上がり、そこかしこで車が追突事故を起こしている。いくつか倒壊している建物もあり、壁や路面には乾いた血痕が張りついているのが見て取れた。おそらく少しでも窓を開ければ濃厚な血臭を吸い込む事になるだろう。

 助手席に座る遠藤が雪の降り出した街を眺めながら、「酷えな」と溢した。「こりゃあ相当数死んだんじゃねえのか?」

「金沢駅を始めとして大きな施設に生存者が集められている」ハンドルを切りながら四十沢が答える。「まだ正確な人数は把握できていないが、自然災害による死者数に比べれば幾分かマシだろう。滅恨士達の迅速な対処の賜物だ」

「駅を始めとした臨時の避難所には防衛のための戦力が割かれています」葉月が内容を補足する。「分家の当主や有力者がその役割を担っているので、やはり全体の戦力は不足気味です……」

「非正規の連中にも根性見せてもらわねえとな」遠藤は助手席の窓から荒廃した街の景色を眺める。人の気配もないが、怪恨が潜んでいる気配もない。大規模な戦闘が始まるまではまだ時間があるという事か。

「気を抜かない方が良いよ」後ろの座席から紗耶が警告を飛ばした。「動き回る車は奴らの格好の的になる。もう、いつ殺意満点の怪恨が襲ってきてもおかしくない」

「別に油断してる訳じゃねえよ。ただ、このまま邪魔されずに目的地まで行ければラッキーだなと思っただけだ」

「当たり前だが、やはりそう上手くはいかないようだ」

「あん?」

 口を挟んだ四十沢に怪訝な表情を向けた直後——

「全員、今すぐ降りるんだ!」と四十沢が怒号を飛ばした。

 遠藤は咄嗟に助手席横のドアを開け放ち、車の減速を待たずに飛び降りた。同時に耳許で擦過音。ヤスリのような路面に叩きつけられ、何度も地面を転がる間、かろうじて確保できた視界に映ったのは真正面から真っ二つに破断されたジープの姿だった。

 怪恨が襲撃してきた。

 分かったのはそれだけ。

 二つに別れた鉄塊を視認できたのもほんの一瞬。すぐさまジープの中にあったガソリンが爆発し、紅蓮の爆炎と共に四散する。

「ッ……! 四十沢!」

「武器を構えるんだ! 来るぞ!」

 周囲を埋め尽くした黒煙の中から四十沢の声が響いた。どうやら無事のようだ。

 遠藤は鞘から日本刀を引き抜き、すぐに攻撃に移れる構えを取りながら移動する。この場に留まるのは自殺行為だと本能が警告していた。

 ——くそッたれの化け物が……! こんなところで足止めされる訳にはいかねえんだよ!

 第二波はすぐだった。ズアッ! と爆炎を切り裂きながら鋭利な爪を持った異形が襲来する。その容貌は巨大な狼。大型ダンプカーと同等の大きさをした怪恨がジープを真っ二つにするほどの切れ味を有した爪を振りかぶる。

「当たるかよ!」

 大振りの一撃を姿勢を低くして躱し、狼型怪恨の懐へと飛び込む。そのままガラ空きの腹部めがけて日本刀を振り払った。獣の肉を裂く感触が手に伝わる。傷口から噴出した血液は赤色だった。

 遠藤は悲鳴を上げる怪恨の脇を擦り抜け、ベルトに挟んだ拳銃を抜き放つ。刈谷が渡したのはグロック17拳銃。四十沢が用いるグロック18と異なり、フルオート射撃はできないが、九ミリパラベラム弾の威力は命ある者を殺害するには十分だ。

 遠藤と狼型怪恨の距離はニメートルもない。遠藤の腕でも問題なく命中するはずだ。

 連続して引き金を引く。鼓膜を穿つような破裂音が木霊する。腕に伝わるリコイルの感触が久しい。吐き出された三発の弾丸が全てヒット。日本刀で刻まれた裂傷に駄目押しするように鉛玉が食い込んだ。

 しかし攻撃はそこで終わらない。怪恨の横合いから撃ち込まれたフルオート射撃がさらに追い討ちをかける。未だ周囲が爆炎に覆われているため姿は確認できないが、四十沢がグロック18かMP7のどちらかを使って援護射撃を行ったのだろう。標的の姿が見えないにも関わらず、寸分違わずに当ててくる辺り、彼の技量の高さが窺える。

 ——ここで殺し切る!

 遠藤は再び日本刀を携えて突撃する。動きの止まった狼の右前足をすれ違いざまに両断。巨体を支えるための支柱を失い、体勢が崩れたところを一気に畳み掛ける。首を落とす勢いで刃を振るう。

 しかし怪恨の方も簡単に諦めたりはしなかった。鬼の形相で遠藤を睨んだ狼型怪恨は頭部を捻り、自身の牙で斬撃を受け止めた。金属同士を打ち鳴らしたかのような甲高い音が響き、遠藤の攻勢が止まる。

「ちッ……!」すぐに跳び退り、怪恨から距離を取る。「葉月達はどこにいる……!?」

 やはり遠藤や四十沢では分が悪い。滅恨士の少女達の援護を期待したいところだが、未だ彼女らが出張ってくる様子はない。

 ——最初の一撃で逃げ遅れたなんて事はねえだろうが……。

 と、その時だった。——風が吹いた、と遠藤は感じた。四方八方から雪崩れ込んできた空気の流れが瞬く間に爆炎を吹き散らしていく。

 一気に視界が開けた。先ほどまでは数メートル先さえ見通せなかった景色が嘘のようにクリアになる。四十沢は遠藤から見て二時の方向にいた。彼が携えるMP7の銃口はしっかりと狼型怪恨を捉えている。

 葉月の姿は確認できない。だが代わりにもう一人の滅恨士の少女がゆっくりと怪恨に近づいていく。

「——葉月は先に行かせたから。あなた達もすぐに彼女を追って」

 分家の少女の手には地味な見た目の弓がある。一見、ただの武器にしか見えないそれは滅恨士が怪恨と戦う際に用いる特別製。

 風乱弓。

 霞沢分家、沼井家の滅恨士である紗耶の得物であり、彼女の司る力を端的に表すもの。

「この怪恨は()()が仕留める。だから遠藤さんと四十沢さんは気にせず先に進んで」

「達、って……ここには俺ら以外……——!」

 物陰から数人の男女が姿を現す。銃や剣といった本来の意味での武器ではなく、ホームセンターで買えるような物品を武器として扱う者達。

「非正規の連中……いつの間に……」

「気にするのはあとだ。この好機を無駄にしてはいけない。行くぞ」と四十沢が横から声をかけてきた。紗耶が怪恨に立ち塞がった際、すぐに動いていたのだろう。彼はすでに兼六園の方向へ歩き出していた。

「ちッ、分かったよ」遠藤は刀を鞘に戻すと四十沢に追随するように動き出した。最後に一度だけ滅恨士達の方を振り返ると、「死ぬんじゃねえぞ」と言った。

「私達は怪恨討伐のプロよ。それに遠藤さん達がこれだけダメージ入れてくれてるんだもの。負けるはずがないわ」

「……頼んだぞ」

「そっちもね。絶対に泰牙を止めてきてよ」

「心配すんな。こっちは人殺しのプロだからな」

 そう言い残すと遠藤も紗耶達から背を向けて走り出した。少しだけ先に進んでいた四十沢に追いつくと、彼が横目でこちらを見やってきた。

「何だよ」

「大丈夫だ」と四十沢は短く断言した。「俺達は俺達の役割を果たせば良い」

 内心で分家や非正規の者達の身を案じていたのを見透かされたのだろう。そんな遠藤の懸念を晴らすために四十沢はこう言ったのだ。そして彼の目には疑念や迷いは見当たらない。遠藤と違い、ここ数日滅恨士の戦いぶりを見ていたからこそ言い切れるのだ。

 ならばこちらも信じるしかない。

「せっかく連中が身を張ってくれたんだ。必ず裏切り者を潰す」


     9


 逃げ遅れた住民や観光客を匿うための緊急避難施設として使われていたJR金沢駅。

 そこの防衛の要として配置されていた女性滅恨士は疲れたように深く息を吐き出した。

「全く……こんな時に亮はどこに行ったのかしら……?」

 女性——霞沢分家、その内の泉家の当主である泉透子は息子の姿が見当たらない事に頭を抱えている。駅の防衛として配備された滅恨士は透子を含めて六人。彼女と息子である亮、そして非正規が四人。駅員にも協力してもらい、監視カメラを使って警戒はしているが、ただでさえ広大な敷地を見て回るには心許ない人数なのだ。

 ——亮が非正規にも劣るほどの力しかないとはいえ……これでは……。

 幸い、ここはまだ一度も怪恨の襲撃を受けてはいない。外で必死に戦ってくれている者達のおかげでもあるが、この結果は透子の扱う術による側面が大きい。戦闘力に特化した術は不得手ではあるものの、透子の扱う結界や隠蔽の術は本家の人間にも引けを取らない。怪恨を中心街から出さないために展開された結界術も、霞沢十六夜一人では組み上げる事は叶わなかった。

 ここに避難してきた人間達は皆一様に怯えた表情をしている。誰もが怪恨の存在など知らなかった。自らの命を容赦なく奪おうと襲ってくる化け物が街中に現れる事など想像もしなかったはずだ。当たり前の日常を突如として壊された被害者達に怖がるなと言う方が無理な話だ。

 ——残存している怪恨がわざわざここを襲撃してくる可能性は低い……。

 ——なのに……。

 透子は胸の内に渦巻く悪寒に眉をしかめる。

 鎮静化術式が効力を失ってから、金沢駅を包み込む雰囲気が変わったような気がする。自分の力を張り巡らせた絶対の領域に差し込まれる謎の違和感が気持ち悪くて仕方がなかった。

「…………」透子は思わず目頭を押さえて俯く。「……杞憂、だと良いのだけど」

 この三日間、戦闘には直接参加してはいないが、やはり防御術式を展開し続けるのは体に堪える。透子の疲れもピークに達していた。それにより無意識に精神がマイナス方向へ振り切っている……というだけならば問題ないのだが、長年の滅恨士としての勘が『これを勘違いで済ませるな』と警告を発していた。

 透子は私物のスマートフォンを取り出すと、駅内を見回っているであろう非正規滅恨士に連絡を試みる。

 しかし、「……?」何度コール音が鳴っても誰も出ない。試しに他の者にもかけてみたが一向に繋がる様子はない。

 ゾクリと、透子の首筋に冷たい感触が走り抜けた。そんなはずはない。駅の周辺に張り巡らせた結界が破られた気配はない。ここに怪恨が侵入してきたという事実はないはずだ。

「——まさかッ……!?」

 一つの結論に辿り着き、その瞬間自身の周囲に防御結界を展開する。それと同時に背後から強烈な破砕音。反射的に身を屈める。頭上で何かが振り抜かれる音がしたかと思えば、背中に鈍い衝撃が叩きつけられた。

 バランスを崩され、顔から床に叩き伏せられる。受け身も取れずに鼻を強打し、柔い鼻骨が砕けた事を悟る。耐え難い痛みに苛まれながらも、床を這いずるようにしてその場から離れようとする。

「……良いですね」と背後で誰かが溢した。「私が求めていたのはこれです。この感覚なんですよ。抵抗できない無力な人間を好きなだけ甚振り……――そして! 最期にその肉を食らう事こそが! 私にとっての至上の幸福なんですよ!」

「ッ!」透子は倒れた状態のまま体を反転させ、襲撃者の方へと視線を向ける。襲撃者は人の姿をしていた。ブレる視界の中では具体的に姿を確認できなかったが、その者が棒状の凶器を振りかぶっているのはかろうじて認識できた。

 右手に握られた凶器の行く先は当然、透子だ。今から躱す事は無理。そう判断し、圧縮した防御結界を自身の真上に展開する。再びの破砕音。だが先ほどとは違い、砕けたのは結界全体ではなく表面だけ。透子の張った結界はしっかりと凶器を受け止めている。

「霊の怪恨かっ……! 気配を隠し、避難者の中に紛れていたとでも……!?」

「いいえ。私はつい数時間前までここにはいませんでしたよ」襲撃者は透子の推測を軽く否定した。その怪恨は人の姿——とりわけ日本人離れした顔立ちの青年の形を取っていた。自然な色合いの金髪の下には整った顔立ちが覗き、知的な印象を想起させる黒縁の眼鏡をかけている。黒のジャケットとスラックスを身に纏い、全体的なイメージとしては海外のビジネスマンのようだった。「たまたまこの場所で私という存在が再び生まれた。ただそれだけの事です」

「何を……言って……!?」

「あなたには関係のない事です」

 そう言って。

 日本人離れした顔立ちの青年はその手に携える凶器——槍と電動ドリルのキメラのような武器の本領を発揮させる。爆音。ドリルの部位が爆速回転し、鼓膜をつんざくような音が炸裂する。

「さあ! あなたは受け止め切れますか!? あの非正規滅恨士達とは違うという事を見せてください!」

 ——不味いッ……!

 電動ドリルの槍を後方に引き、そのまま一気に突き込んでくる。実際にガードせずとも分かる。あの威力は透子の防御術で受け止められる威力ではない。

 その時だった。青年を取り囲むように三人の人影が飛び出してくる。包丁やハンマー、小型の斧といった日用品を持った者達。連絡の取れなくなっていた非正規滅恨士達だ。彼らは全身血塗れで、どこからどう見ても満身創痍だった。しかしその目に宿っているのは明確な闘志だ。

 それを見た青年は吐き捨てるように、「まだ抗いますか」と嘲笑した。「傷を負った時点で逃げていれば良かったものを!」

 青年は透子の腹部に突き刺す直前だった槍を強引に振り回し、自らに群がる蠅を叩き落としていく。包丁を持った女学生とハンマーを持った痩身の男性が頭から地面に叩きつけられ、一瞬にして意識を刈り取られる。

 斧を手にした作業着姿の男性はギリギリのところで踏み留まり、転倒を免れる。

 そのまま歯を食いしばり、再度青年に向けて攻撃を仕掛けた。

 脳天を叩き割る勢いで振り下ろされた一撃を意に介した様子もなく、美青年は武器を手にしていない方の手で攻撃を払いのけてしまう。呆気に捉われる男に侮蔑の眼差しを向け、爆速回転する電動ドリルの先端を突き込んだ。

 斧によるガードを砕き割り、莫大な運動エネルギーに耐えきれなかった男の体躯が後方に吹っ飛んだ。勢いそのまま背中から柱に激突し、大量に吐血したのちにがっくりと項垂れる。

「余計な邪魔が入りましたね」何の感慨もなく呟くと、青年は透子の方へ向き直る。「さあ、まずはあなたの肉からです。そのあとはそこに転がる三流達。最後に何の力も持たない人間達……を……?」

 そこで青年の流暢な口調がぶつ切りとなった。

 彼は美しい造形の顔を疑問に歪め、周囲をキョロキョロと見回す。

「いない……いや、そもそも何でこの場は阿鼻叫喚で埋め尽くされていないのです?」

 そう。

 見当たらないのだ。

 つい先ほどまでこのJR金沢駅に身を寄せていたはずの避難者達の姿が。怪恨の青年という強大な脅威が突如として乱入したにも関わらず、誰一人として悲鳴を上げる事もなく綺麗さっぱりといなくなってしまっているのだ。

 青年は忌々し気に透子を睨みつけた。しかし当の彼女も同じような感情に苛まれていた。

「……何で……? 彼らはどこに……? いつの間に……?」

「ちッ」と青年は不機嫌さを露わにした。「こそこそと面倒な事をしてくれますね……!」

「――これが俺達人間の戦い方だからな」

 青年の言葉に答える声が聞こえたかと思えば、物陰から続々と回転式拳銃を手にした男達が湧き出てくる。

 スーツの上からコートを着た者達と。

 青い制服に身を包んだ者達。

 制服の男達の背中には大きく『石川県警』のロゴが印字されている。

 石川県警の警官達は、黒髪癖毛の中年警察官の指示に従って意識を失った非正規滅恨士達を救助していく。


     10


「それにしても久しぶりじゃねえか。イカレ食人鬼」

 警察の集団の中心に立つ初老の男が――回転式拳銃ではなく、散弾銃を構えた武田が不敵な笑みを向けてきた。

「俺の記憶が確かなら、テメエは遠藤の兄ちゃんと葉月ちゃんにボコられたあと、俺に拷問されて散弾銃(こいつ)で頭ぶち抜かれたはずなんだがな?」

「……ええ。確かにその通りです」

 美貌の青年は——かつて『黄昏の骸』なる怪恨が創り出した裏世界の金沢駅で暴虐の限りを尽くした怪恨であるジェフリー=ダーマーは静かな声色で肯定した。武田の挑発にも乗らず、ただ淡々とした様子で、臨戦態勢を取る。

「今いる私はおそらく私本人ではありません。ここにいるのはただの残留思念のようなものでしょう」

「歯切れが悪いな、怪恨についてはそれそのものであるテメエが一番良く分かってんじゃねえのかよ」

「『終末の回廊』なんて大物が久々に顕現した状況下です。誰もが予想しない事が起きても不思議はないでしょう?」ダーマーは刃物のように薄く鋭利な笑みを浮かべる。「この金沢駅に残った本物の私の恨みつらみ……それらが『終末の回廊』の力によって浮き彫りにされ、輪郭を与えられた……」

「ならテメエっつう存在はとんでもなく曖昧だな。ここにいられるのが『終末の回廊』の影響によるものなんだとしたら——」

「はい」ダーマーは武田の言葉を遮るように相槌を打つ。「元凶さえ倒されてしまえば私も霧散するでしょうね。それに何となく分かるのです。この場所に刻まれた残滓でしかない私は、きっとこの施設から出る事も叶わない……」

「はッ! 残念だったな! テメエをフクロにした二人は今まさに元凶を叩きに行ってる! テメエが消えるのも時間の問題だな!」武田はさらに挑発する。「気分はどうだ!? 自分をボコした相手にリベンジもできず無意味に消えていく気分は!?」

「——最高ですよ」

「ああ?」

 今度はダーマーが不敵な笑みを浮かべる番だった。

 武田はこめかみに青筋を浮かべながら食人鬼の青年を睨みつける。

「あなたは勘違いをしています」とダーマーが断言した。「私が最も恨んでいるのは……最も許せないのは……同種の彼でも、ましてや霞沢の少女でもない」

「……なるほどな」

 そこまで聞いて、武田もダーマーが言わんとしている事に気がついた。

「俺か」

「ええそうです! 正々堂々と戦い、真正面から私を打ち砕いた彼らを恨む理由などない! あのあとに横から割り込んできて卑怯な手を用いて私を滅した! その張本人以外に殺意を向ける相手などいるはずもないんですよおおおおおおおおおおおッッ!!!」

「けッ、何が正々堂々とだ。葉月ちゃん相手に一般人盾にして攻撃しやがったくせによ」

「黙れ! 無能で卑怯な警察ごときが私を愚弄するなあ!」

「黙らねえよ。そんで無能、卑怯で結構。俺らはどんな手を使ってでもテメエら化け物を潰す。例えばこうやってな!」

 武田の言葉を合図にしたかのように、物陰からさらに警官達が飛び出してくる。彼らは刺又の先端に刃物を取りつけた即席の槍で武装しており、一切の迷いなくダーマーに攻めかかっていく。

「そんな玩具で私を止められると思っているのですか!?」ダーマーは電動ドリルを爆速回転させ、自身が粉砕するべき目標を見据える。真人間であれば掠るだけで四肢が千切れ飛ぶほどの勢いで、電動ドリルの槍を横薙ぎに振るった。

 空気を切り裂く轟音が鳴る。しかし引き裂かれた肉が宙を舞う事はなかった。

 まるで攻撃の軌道を察知していたかのように、刺又を持った警官達はしっかりと身を屈め、ダーマーの攻撃をやり過ごしていたのだ。

「——くそッたれな再会の挨拶代わりだ。受け取れ」

「ッ!」

 近接部隊の背に隠れ、ダーマーへと肉薄していた武田が不敵に笑う。その手には発射準備を済ませたM500散弾銃。銃口の先にはすぐに回避挙動に移れないほど体勢の崩れた食人鬼。

 つまり。

 乾いた銃声が一瞬にして重なった。

 至近距離で撃ち出された散弾が青年のどてっ腹を容赦なく食い破る。

「がはあッ!?」

「代表者の挨拶は済んだ。次は残りの連中からだぜ」

 武田が横に跳んで距離を離すと、後方で待機していた赤松達が一斉にニューナンブの引き金を引く。怒涛の勢いで射出された鉛玉の嵐に、ダーマーは為す術なく撃ち抜かれていく。

 このままでは蜂の巣にされると悟ったのか、ダーマーは死に物狂いで射線から逃れる。武田達石川県警連合部隊から走って距離を離し、近くにあった柱に身を隠した。反撃が来るのではないかと警官達が一瞬強張ったが、杞憂だった。柱の向こうからは荒い息遣いが聞こえてくるだけ。それを確認した者達はすぐさま回転式拳銃の再装填を始める。

 武田の隣でニューナンブを構えていた赤松が苦い顔で言う。「最初の攻撃は上手くいったな……。だが、もう奴は油断しないはずだ……ここから攻め切れる保証はあるのか……?」

「ある訳ねえだろ、そんなもん」武田は短く切り捨てた。「一〇〇パーセントなんてもんは存在しねえ。それが異形との戦いだ。攻め切れなかろうが、あの食人鬼に奥の手があろうが——それでも食らいついて叩き潰すんだよ。理解したか?」

「異形相手のプロが最後は運に頼るのかい?」

「運じゃねえ。戦術と根性で引き寄せるんだよ、勝利って奴をな」

 武田のM500散弾銃の銃口がダーマーの隠れている柱へと向けられた。

「良く聞け、犯罪者。今日は警察が初めて怪恨に打ち勝つ記念日だ。一番最初にテメエの名を刻んでやる。泣いて感謝しやがれ」


     11


 斬り捨てる。

 儀礼用と見紛うような美麗な装飾のついた刀——雪舞閃が雪空の下を華麗に舞い、次々と異形の化け物達を葬り去っていく。

 遠藤と四十沢を置いて先行していた葉月は、道中で鉢合わせた怪恨全てを滅しながら進んでいた。

 ——中々やり過ごさせてはくれないな……。

 ——やっぱり私を先に進ませたくないんだね。泰牙さんも、『終末の回廊』も……。

 しかし、もはやこの程度の数では本家の跡取りたる彼女を止めるには至らなかった。一匹の例外もなく、出会い頭に動く隙さえ与えず斬り払う。一般的な分家や非正規の滅恨士であれば命がいくつあっても足りないような連戦を経てなお、葉月は無傷だった。

 雪が積もり、白銀の世界と化した兼六園に足を踏み入れる。

 当然人はいない。それどころか先ほどまではしつこいくらいに襲撃してきた怪恨も全く気配を感じられない。

 ——いや……。

 気配はある。この兼六園全体を覆い尽くす異様な気配。数日前に遠藤と共にここを訪れた時とは比べものにならないほどの濃度で満ち満ちている。それは目覚めた場所から微動だにせず居座っているだろう。災厄を引き越した張本人の割には呑気なものだ。

 そして、彼らもここにいるのだろう。滅茶苦茶になった金沢の街の一点で、この惨状を高みから見下ろしている者達が。

 雪舞閃を握る手に力が入る。口許からすうっと薄く息を吐き出し、頭を落ち着けていく。

 歩き出そうとしたところで後ろから肩を叩かれた。振り返ると、「抜け駆けはナシだぜ」と息を切らした遠藤がいた。彼の隣には額に汗の玉を浮かべた四十沢もいる。

「良かった。無事だったんですね……!」

「お前が片っ端から化け物叩き斬ってくれてたからな。俺らは一匹しか殺ってねえよ」

 遠藤は肩を竦めると周囲を軽く見回す。

「分かりますか」と葉月が訊くと、金髪の青年は小さく頷いた。

「鉛みてえに重い空気が立ち込めてやがる。街の方とはえらい違いだ」

「ここは終末の回廊の力が最も強く作用する場所です。まだ気配は感じられませんが、この場に怪恨がいた場合、その力は計り知れないものとなるはずです」

「上等。出てきた命知らずからぶった斬ってやる」

 葉月を先頭に、遠藤と四十沢が続く。三六〇度全方位を警戒しながら、片栗粉のような感触の雪を踏み締めて進む。

 怪恨の影響かは分からないが、目的地に近づくにつれて雪が強くなっていく。髪を振り乱す勢いで風が吹き、冷気と粉雪が肌の触覚を突き刺す。

 しばらく歩いていると沈黙を破るように、「まるで別世界だな」と四十沢が言った。彼の性格からして、無言の状態が気まずくなったという訳ではなく、純粋な感想だろう。「街の騒がしさが嘘のようだ。本来であれば最重要拠点であるここに守りを配置していないのはおかしい」

「自分達だけで十分だと思ってんだろ」遠藤がぶっきらぼうに言った。「舐めやがって。絶対にあいつらの鼻をへし折ってやる」

「もしくは他に何か理由があるのかも……」

 葉月が首を捻るが、特にそれらしい理由は思いつかない。そして答えが出ないからと言って立ち止まる訳にもいかず、三人は引き続き靴を溶けた雪で濡らす。

「……そういや、四十沢。さっき聞きそびれたんだけどよ」と遠藤が前置きしてから大男に問いかけた。「泰牙の野郎が裏切り者だって最初に気づいたのはあんただったんだろ。いったいどこで分かったんだ?」

「あっ、それ私も聞きたいです」葉月も遠藤に続く。

 泰牙は四十沢に正体を看過された事で牙を剥いた。逆に言えば裏切り者だと勘づかれていけなければ、彼はまだこちらの味方を演じていたかもしれない。泰牙自身がどこで自らの立ち位置を明かすつもりだったのか、今となっては分からない。しかし彼の段取りが四十沢によって乱された事は確かだ。

「確信を持ったのは卯辰山公園で彼が口を滑らせた時だ」四十沢は結論から口にする。「俺は非正規滅恨士達と分断されたあと、単独で下級怪恨の群れと戦っていた。そこで下級怪恨以外の怪恨にも襲われた。最終的には潮野泰牙が俺を助けに入る形で怪恨を滅したが、直後に彼はこう言った」


 ——「この辺りは人目につかない場所だからな。下級怪恨も送り込みやすいし、野良の怪恨連中も動きやすい。さっきのゾンビみたいに真昼間から襲い掛かってくる奴もいる」


 四十沢は泰牙が言い放ったであろう言葉をおそらくは一言一句違わずに反芻した。だが、それだけでは意図を掴み切れなかったのは葉月も遠藤も同じだった。二人揃って首を傾げる。

 四十沢は続けて言う。「伊庭が使役していたのは確かに下級怪恨のみだ。だが、あの非正規滅恨士が従えられるのが下級怪恨のみだという確証はなかったはず」

「確かにそうだが……それがどう関係してんだ?」

「俺を襲撃してきたゾンビが『伊庭の支配下にある怪恨かそうでないか』——それを判断できるのは実際に化け物を自らの指揮下に置いている者だけだ」

「——!」

 そこでようやく葉月は合点が行った。遠藤も同様だったようで、頭の靄が晴れたような表情を見せていた。

「今だから言える事だが」四十沢は前置きし、「俺はかなり早い段階から潮野泰牙を警戒していた」と白状した。「滅恨士達を集めた作戦会議の際に伊庭が現れた時、奴は滅恨士の中で唯一動けた。滅恨士は対人に疎い。ましてや同族の中から裏切り者が現れるなど想像もしていなかっただろう。にも関わらず——」

「泰牙さんは迷いなく攻撃を仕掛けた……」

「そうだ。あれは全て茶番、パフォーマンスだ。真っ先に伊庭へ攻撃し、周囲に自身が『こちら側』だと思わせるための」傷が痛むのか包帯に覆われた腕をさする。「……俺達はまんまと踊らされた。彼の正体を看過した時点で、すでに事態は取り返しのつかないところまで進んでいた」

「…………ッ」

 葉月は四十沢の言葉を聞きながら、喉の奥から迫り上がってくる悔しさを噛み潰すように奥歯を噛んだ。

 ——本当なら……私が気づいてないといけなかった……。

 伊庭が下級怪恨を使役していた時点で、彼の背後に滅恨士として確かな力を持つ何者かの存在がある事は想像できたはずだった。しかし先ほど四十沢が言った通り、裏切り者が一族の中にいるという可能性を完全に除外してしまっていた。

 非正規滅恨士として異質な力を持つ伊庭が怪恨を操り、一連の事象の全てを掌握していた——頭を冷やして考えれば余りに突拍子もない結論で突っ走っていたのだ。

「あんま自分を責めんなよ」

 葉月の表情から胸の内を察したのか、遠藤が彼女の頭を軽く叩いた。

「まだ全部がどうしようもなくなった訳じゃねえ。ここであいつらを止められればまだ間に合う」

「遠藤の言う通りだ」と四十沢も同意した。そして足を止め、ゆっくりと一点に視線を移す。「ここが正念場だ。気を抜かずに行こう」

「……泰牙さん」

 霞が池。兼六園の中心に位置する広大な池。視界いっぱいに広がる水面には、今の空と全く同じ景色が映し出されていた。毒々しいほどの鮮やかな原色で塗り潰され、それがマーブル模様のように混ざり合わさり、次の瞬間には分離して別の模様を形作る。

「——綺麗だろ。これが金沢を——霞沢の全てを飲み込んで終わらせる存在だ」

 七色の水面に佇むキルティングジャケットを着た青年とその従者。

 泰牙は全ての元凶とは思えないほどの穏やかな笑みを浮かべながら、葉月達を出迎えた。

「本当に……引き返すつもりはないのですね……?」葉月は無駄だと分かっていながら言葉を投げかける。「今なら……まだ……」

「冗談だろ。今さらやめられる訳ない。俺が自分のエゴを通すために何人殺したと思ってる?」

「でもっ……! このままじゃ……この街が……私達の故郷が……!」

「元々それが目的だと言ったはずだ」

「っ……!」

「全てを壊す。この金沢の街ごと霞沢が築き上げてきたものを塵一つ残さず葬り去る。そうして真っ平になった世界に新しい秩序を作るんだ。本家の手が入らない——一切の歪みのない体制をな」

「はッ! 大層な事言うじゃねえか!」鼻で笑いつつ、遠藤が嘲るように吠えた。「テメエ、本気で自分がそんな綺麗な世界を作れるとでも思ってんのかよ!? 第一、ついさっきその口で言ったばかりだろうが。これは『自分のエゴ』だってな!」

「ああ。遠藤さんの言う通りだよ」矛盾を突かれてなお、泰牙は余裕を崩さない。「歪みがないなんて俺の主観だけで構わないんだ。他の奴らがどう思おうと、俺が満足する形であれば良い」と自嘲気味に笑う。「分かるだろ。最初から話し合いの余地なんてないんだ」

「クソ野郎が」

「さあ、始めようか。あんた達が勝てば、終末の回廊を守る者はいなくなる。逆に俺達が勝てば、終末の回廊を止める者はいなくなる。シンプルだろ?」

 泰牙が右腕を虚空に翳す。そこを起点にして紫電を纏った闇が集まり、一振りの槍の形を為した。

「…………」そして泰牙に続くように伊庭が大鉈を取り出す。さらに彼の周りに展開されたワームホールから一〇匹以上の下級怪恨が飛び出してくる。

「心遣い痛み入るぜ。こちとら部外者だからな。複雑なのは好きじゃねえんだ。遠慮なくぶち殺させてもらうぜ!」

 遠藤が日本刀を構え、四十沢がMP7を構える。

 そして葉月が男性陣二人より一歩前に出て、その手に握った雪舞閃の切っ先をかつての仲間へと突きつける。

「霞沢本家次期当主として宣言します。この地に徒なす反逆者——潮野泰牙及びその従者を今この場で断罪します。生死は問いません」

 役者は出揃った。

 最後の戦いが始まる。

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