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結局、遠藤と葉月の稽古が終わったのは一○時半を少し過ぎた時だった。葉月が顔の汗を拭っていると、「お疲れ様―!」と紗耶がペットボトル飲料を持って現れる。
葉月と紗耶が言葉を交わしているのを見ていると、遠藤の横合いから、「あんたが葉月様の連れてきたお客様だな」と声がかかった。大学生風の男の潮野泰牙が遠藤を値踏みするように見ていた。「本当はもう少し早く会ってみたかったんだが、いかんせん怪恨の出現頻度が増えていてな。中々時間が取れなかった」
「そっちも滅恨士なんだってな」
「葉月様と違って、能力の劣る分家だがな」と言って泰牙はその手に自らの武器を顕現させる。形作られたのは槍。黒色の長柄と、黒曜石のような輝きを放つ刃渡り二○センチほどの刃で構成されている。やはり葉月の持つ雪舞閃と異なり、若干地味な見た目だった。「『善討槍』。こいつが俺の武器だ。葉月様の雪舞閃と違って、何も感じないだろう? 俺の異能の力が弱い証拠だ」
「いつも何もないところから武器を出すが、そいつも滅恨術なのか?」
「葉月様から聞いていないのか? 俺達の扱う武器はいわば体の一部だ」泰牙は自身の武器をコンコンと叩き、「滅恨士は産まれると同時に、本人の血を触媒として武器を造る。詳しい工程は省略するが、それは刀剣や弓といった姿になり、滅恨士が生来持つ『属性』を強化する役割を負う」と言った。
「なるほどねえ。葉月のは分かりやすいな」
「ああ、葉月様が司るのは『氷』。俺は『闇』。あっちにいる紗耶なら『風』だな」
「何も知らねえ奴が聞いたら、流行りのソシャゲの話でもしてんのかって感じだな」
「俺もそう思うよ。祖先達はそんな事、微塵も考えてなかっただろうがな」と泰牙は肩をすくめつつ笑った。武器を消すと踵を返して、縁側から下りる。「こっちも用事があるんでな。お先に失礼するよ。遠藤さん、あんたに会えて良かった。ここに滞在している間、葉月様をよろしく頼む」
「一応こいつとの約束だからな。まあ……ここにいる間は、な」
泰牙の背中を見送ると、紗耶という少女の方にも挨拶だけはしておくかと思い立ち振り返ると、件の少女が目の前に佇んでいた。「うおっ!?」と驚いて後ずさる遠藤へ、ニヤつく紗耶が声をかけてくる。
「あなたが遠藤さんね。葉月から話は聞いたよ」
「驚かすんじゃねえよ……。沼井紗耶だったか」
「そ。私も分家の滅恨士」
「ぞろぞろ出てきやがるな」
「今日になるまで、あなたに会いに行く時間が取れなかったからねえ」
「怪恨か」
「そうそう。最近、奴らが出現する頻度がかなり増してるのよ。昨日までひっきりなしに怪恨退治に明け暮れてたんだから」
「そりゃ大変だったな。ご苦労さん」
「軽いわね。もうちょっと労ってくれても良いんじゃないの?」
「今会ったばかりの奴を気遣ってやれるほど人間できてねえんだ」
「葉月の事は出会ったその日に命懸けで助けてくれたのに?」
底意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見上げる紗耶に対し、遠藤は虫を払うように手を振りながら、「状況が違うだろうが」と吐き捨てた。「葉月を助けなきゃ自分も死んでた場面と、何の危険もない今を比べるもんじゃねえ」
「……あっそ。ま、そういう事にはしといてあげるわ」
「何だそういう事って」
「——おい、そろそろ俺も混ざって良いか?」と遠藤と紗耶に割り込むように武田が口を挟んでくる。「遠藤の兄ちゃん、このあと葉月ちゃんとの稽古はあんのか?」
「いや、今日はこれで終わりだな。結局ここに来てから一度も観光らしい観光もできてねえから、このあとは街の方にでもって考えてる」
「それなら良い。ちょっくら葉月ちゃん借りていくぜ」
元々武田が葉月に接触を図ったのは、彼女と話がしたいためであったらしい。先日は非正規滅恨士に襲われた事でうやむやにされてしまったが、今日はおそらく邪魔も入らない。
「どうぞお好きに。問題は葉月の方が着いていくかどうかだけどな」
「そこはどうにかする。まずは葉月ちゃんに話を聞いてもらえねえ事には始まんねえからな」
そうして葉月の方へと近づいていく武田。互いに二、三ほど言葉を交わすと、葉月はあっさりと武田に着いていく事に決めたらしい。少女を引き連れて修練場を後にする。遠藤はこちらに向けて手を振ってくる葉月へ同じ所作を返し、その姿を見送る。
先刻まで賑やかだった修練場は一気に静寂に包まれる。この場に残っているのは遠藤と分家の紗耶だけとなった。
「さて、と。俺も下りるか」遠藤は凝り固まった関節を解すように肩や指を鳴らし、ダウンジャケットに袖を通す。「あんたはどうすんだ?」と紗耶へ何気なく問い掛ける。
「私も下りるよ」紗耶は淡々と答え、「でも」と前置きした。「——その前にやる事あるから」
「……? 何、をお——ッ!?」
ドカカッ! という硬いものを突き刺す音が連続した。遠藤の頭部の左右を掠めるように放たれた矢が後ろの壁に深く突き立てられていた。
矢を射った張本人である紗耶は、どこからか取り出した木の弦を持つ弓矢に次の一矢を装填しつつ、「——『風乱弓』。この距離で私の矢から逃れられるとは思わない事ね」と遠藤を睨みつけた。「次は顔面にぶっ刺すわよ」
「危ねえなコラ! いきなり何すんだテメエ! 死ぬかと思っただろうが!」
遠藤が怒鳴り散らすが、紗耶の方は気にも留めていない。今にも遠藤を射殺しそうなほどの敵意を浴びせかけながら、弓矢の照準を合わせてくる。
「言っとくけど、私はまだ認めてないから」
「何をだ!?」遠藤は身構えて紗耶の出方を窺う。
紗耶は矢の先端のごとく鋭利な視線で、「あんたが葉月の師匠なんて認めてない」と吐き捨てた。「もし言葉巧みにあの子をたぶらかしているだけなら、一秒でも早くあの子から離れてくれないかしら?」
「俺がそんな口が回るように見えんのか? 冗談も休み休み言えよ」
「悪いけど、私にはあんたから葉月が慕うほどの何かは微塵も感じられないの。ただの人間のくせして……私達滅恨士の世界に土足で乗り込んできて……目障りなのよ……! あんたも……あの武田とかいう刑事も……!」
「八つ当たりかよ……! 少なくとも俺は巻き込まれただけの身だっての! 葉月に引き止められなかったら、怪恨に襲われたその日に大阪に逃げ帰ってたはずなんだよ!」
「じゃあ何でまだここにいるのよ!? この前だって非正規滅恨士と下級怪恨に襲われたんでしょ! 臆病者なんだったら、そこで逃げてなきゃおかしいじゃない!」
「……確かにその通りかもしれねえ」遠藤は自身が意気地なしだと認めた上で、「だが、それ以上に見捨てられねえだろうが」と一人の少女の顔を思い浮かべながら反論した。「あいつは……葉月は可能性の塊だ。異能の力なんてもんを抜きにしても、剣術の才能だけで十分過ぎるほどの逸材だ。けどよ、まだ足りねえんだ。化け物とやり合うにはまだ足りねえ。そのくせ現実は待ってはくれねえ。未熟なままのあいつを全力で殺しにきやがる」
「……だから、何?」
「俺が与えてやれるもんは全部与えてえ。そいつが葉月にとって、この世界で生き抜く糧になるならな」遠藤は弓矢の照準を合わせられている事も気にせず一歩踏み出した。大股で紗耶との距離を詰めていく。「あいつは俺みたいなクズでも命を懸けて守ろうとしてくれた奴だ。普通の人間より少しだけ死に多く関わってきた俺だからこそ分かる。葉月は簡単に死なせちゃいけねえ奴なんだよ」
引き絞られた矢の切っ先がピタリと遠藤の胸の真ん中に押し当てられる。その状態でなお遠藤は恐怖心を表に出さず、眉間に皺を寄せて紗耶を見下ろす。
「これが俺の答えだ。俺は物語の中にいるようなヒーローじゃねえからな、それなりの理屈で動いてるつもりだ」
「…………」
「そんで臆病者だから、お前の気持ちも多少は理解できる。……怖いんだろ、部外者が」
「……!」紗耶が顔を上げる。図星を突かれたという目をしていた。
「今まで滅恨士っつう括りで作られた集団に属して生きてきたんだ。無意識に縄張り意識ができててもおかしくねえ。昨日今日入ってきたような連中に自分の縄張りを荒らされたら、そりゃあ嫌に決まってるはずだ」
「……そこまで理解しておいて、出て行ってはくれないのね」
「最初に会ったのがお前だったんなら、おとなしく言う事聞いてたかもしれねえな。今は葉月との約束がある」
そこまで言うと、紗耶はしばらくの間下を向いて黙り込んだ。遠藤の心臓部に突き付けられていた矢も同様だった。
やがて、「ひとまずは引き下がるわ」と紗耶が口にした。俯かせていた顔を上げ、いくらかは敵対心の薄れた視線で遠藤を見つめる。「葉月が信頼しているあんたを信じてみる事にする。あの武田って刑事の人も。でも忘れないでよね。完全にあんたを味方と認めた訳じゃないから」
「それで良い。むしろ、それくらい警戒している方が普通だな」
「どうも」紗耶はそっけなく言い、胸の前で腕を組むと、「先に警告しておくけど」と前置きしてから言い放つ。「もし、あんたが葉月に危害を加えるような事があれば——私は迷いなくあんたを殺す」
「そうかい。肝に銘じとく」
「やっぱり軽いわね。私は本気よ」
「別に冗談だと思ってる訳じゃない」本心だった。「ただ、そういう関係が当たり前過ぎるもんでな。だから、いちいち感情を表に出す必要がないだけだ」
遠藤は続けて——
「で、言いたい事はそれだけか? ないならもう行くぞ」
「待って。最後に一つだけ」
「何だ?」
紗耶の瞳に湛えられた敵意はまだ完全には消えていない。だが、その口許が僅かに綻んだように見えた。
「たぶん、そういうところなんだろうね。葉月があんたに惹かれたのは。……私達みたいな存在が相手でも、普通の人間と同じように接してくれる。葉月はさ。本家の次期当主だけあって、昔から良くも悪くも特別扱いされてたからね」
そういえば、泰牙という滅恨士の青年も明らかに年下の葉月に対して敬称をつけて呼んでいたなと思い返す。
「だから、まあ……葉月が惹かれたままのあんたでい続けてねって事。それだけ」
「善処する」そう言って遠藤は修練場を後にした。足許の悪い坂道を下りながら、「どいつもこいつも、俺を買い被り過ぎなんだよ」と一人ごちる。「——ただ無知なだけだってのに」